紅雨にふるう
朽ち果ては雨の多い国だ。それはこちらに来てすぐに気付いた。窓の外を見れば数日に一度は雨が降っていて、木蓮はぼんやりと「だから朽ち果ては緑が豊かなのかな」なんて考える。
ただし長雨になることは少ない。通り雨のようにさぁと降ってすぐに止むことも多いし、大抵は降り始めて数時間、長くても半日すれば止んでいる。土砂降りになることも滅多にないようだ。しとしと、しとしと肌を包むように濡らす細雨――朽ち果ての雨景色は細かな雨粒にけぶるとても静かなものだった。
そして今日も、朽ち果ての雨は酷く優しい。眠っていた私の耳に少しずつ沁みてくる雨音はかすかで、それはもう無音に近い。雨が全ての音を食らっているみたいだ、なんて柔らかな微睡の中でその心地よさを堪能する。
それから、そっと隣で眠る人の邪魔をしないように体を起こした。引かれたカーテンの向こう側は薄暗く、明かりの消えた室内はさらに暗い。だが吸血鬼の目には何もかもがはっきりと見えていて、ちらりとベッドサイドの置時計に目をやれば夕方の4時過ぎと知れる。吸血鬼にとっては目覚めの時間だ。
今日は珍しいことに十季よりも早起きだったらしい。常ならば十季の方が早く目覚めて、私の髪や頬を撫でながら私が目覚めるのを待っていることが多かった。
まあ、そんな訳であまりない機会だ。私は眠っている十季をまじまじと観察してみることにする。勿論十季のことだ。意識の何処かではこちらの視線に気づいているのだろうが、それを気にせず微睡み続けるくらいには隣にいることに慣れてきている。
私にしても同じこと。十季の気配は空気のように馴染んでいて、もう目覚めた時に彼が隣にいても驚かないし、不意に触れられても飛び起きるようなこともない。
だからこそ――と眠る十季の顔をゆっくりと眺めて、それからそっと触れてみる。いつも十季がするように、髪を撫でて頬に指を滑らせて。全く、腹立たしいほどに美しい男だ。
昨晩、寝る前に読んでいた小説を思い出す。最近暇潰しにと再び読み出した、毎度おなじみロマンス小説だ。今読んでいるのは「黒騎士」と呼ばれる孤高の剣士と「金の娘」なる美しい町娘の恋物語。
その中で金の娘は散々黒騎士の美しさを語っていたが――正直に言おう、絶対にその黒騎士よりも十季の方が綺麗だ。残念ながら私の語彙ではそれを上手く言い表すことができないのだけれど。
文中で金の娘は黒騎士の髪を、ええと何だったか。そう「貴方に想い焦がれる私が、夜毎見上げるあの星空よりも美しい黒の髪」とか言っていた。何とも仰々しい。
今は無造作に枕に流れる十季の黒髪を指先で遊びながら、私はひっそりと笑う。それを言うなら今は閉じられている十季の目も「あの星空よりも美しい」夜闇の黒か。
それから「まるで楽の音のような心地の良い声を紡ぐ唇は、乙女の口付けを誘うように出来ている」だったっけ。その表現を読んだ時は流石に笑ってしまったけれど、言いたいことは分かる。十季の声は程よい低音で、耳元で囁かれた日には背筋にぞくりと震えが走る。薄い唇についつい目が吸い寄せられてしまうのも仕方がないだろう。
ちなみに黒騎士の場合はやっぱり騎士なので日に焼けた男らしい肌をしているらしかったが、それに関しては吸血鬼、日に焼けることはない。あの小説の文章を真似るなら、十季は「冴え冴えと降る月の光よりも白く、その光に照らされ淡く輝く水面のように美しい肌」というところか。
くすり、と笑いながら私は十季の首筋に触れる。悪戯心に従って、少しずつその指を胸元の方へと滑らせた。今は自分も同じなのだが、それにしたって作り物のように綺麗な肌だ。
やがて静かに上下する胸元まで指先が到達し、その先は寝間着に阻まれる。ならばと寝間着のボタンに手をかけたところで、ようやく十季が目を開けた。
「おはよう、木蓮。それで……どうしたの?」
不埒とも言える悪戯を咎める気はないらしい。十季は面白そうな顔で自分の寝間着のボタンに指をかけている私を見上げて。
「おはよう、十季。んーん、何でもないよ」
そう笑って答えながら、私は指先の侵攻を再開する。十季は十季で止めようとはしないから、ひとつ、ふたつ、ゆっくりと外されていくボタン。それにつれ次第に露わになる胸元が、暗さを増す部屋の中で白く艶めかしい色に浮かび上がって――十季の瞳に、熱が滲み始めた。
◆◆◆
少しばかり、時間を遡ろう。
微睡みの中で十季は木蓮の悪戯に動く指先を感じていた。初めの頃は私という「男」の存在に戸惑っていたようだが、最近では随分と慣れてきたようだ。時折、こうして彼女から触れてくることがある。
しばらくは彼女の好きにさせていたが、流石に寝間着を剥がそうとしてきたところで目を開けた。そうすれば傍らからこちらを覗き込んでいる木蓮の顔が視界に溢れて――瞬間、胸が震える。
「おはよう、木蓮。……どうしたの?」
何でもない振りで揺れた心を隠す。それにしても何と言う顔で彼女は私に微笑むのだろう。生まれ落ちてから、こんなにも柔らかい微笑みを私に向けてくれた人があっただろうか。少なくとも私の記憶にはない。
或いは母であった人が向けてくれたことがあるのかもしれない。けれど私はもう、その母がどんな人で、どんな風に別れたのかさえ覚えてはいないのだ。生前の記憶の大半は、唐突に吸血鬼へと生まれ変わった混乱の内に失ってしまっていた。
そんなこと別に構わない。そう言えば木蓮は複雑そうな表情を浮かべて私を見つめてくるだろう。自分を見下ろす彼女の頬に指を滑らせながら思う。だが、本当に構わないのだと。
勿論、吸血鬼へと変わってしまった自身の生を呪ったことならある。寧ろ呪わずにいられた時の方が短い。それでも私は吸血鬼となったからこそ木蓮に出会うことができた。
人の身であったならば、すれ違うことすらなかった2人だ。もしも私が人のまま生を終えていたならば、彼女が生まれる頃には骨の一片も残らず土へと還っていたことだろう。2人が出会う今日までに、それだけの時が流れている。
ふと視線を流せば、枕元には木蓮が昨夜読んでいた本があった。彼女が「娯楽だよ」と愛読しているらしい小説は、どれも美しい男と美しい乙女が希有な運命に翻弄されつつも愛を交わし幸福な結末を手にするものばかりだ。
「こんな風に愛して欲しいと木蓮が望むなら、私は喜んでそうしよう」
以前、そう彼女に告げたことがある。そうすると何故か木蓮は非常に微妙そうな顔をして、即座にそれを否定した。曰く、これは物語だからいいのだと。
「っていうか、自分はどうやってもヒロインっていう感じじゃないから」
木蓮はそう言うが、それはどうだろう。彼女だって小説の中の乙女達に負けず劣らず希有な運命を辿ることになった。彼女は美しく、そして強い。物語の中心に据えるのに文句なしだと十季は思う。
そんなことを考えながらじっと木蓮を見つめていたら、不意に彼女は困ったように笑って俯いてしまった。どうやら少し照れてしまったらしい。今の今まで彼女の方が随分と不埒なことをしていたというのに可笑しなものだ。私はすでに全てのボタンが外され露わになった上半身をちらりと見て、小さく笑う。
「木蓮」
「ん?」
からかうように呼べば、短く素っ気ない返事。それに笑いを噛み殺せば彼女から憤慨したような気配が漂ってきた。これ以上からかえば彼女のことだ、拗ねてしまうかもしれない。
しかし、そんな彼女の表情もこの目で見て記憶しておきたい。いや、木蓮のことならば人が些細と笑うようなことも全て、余さずに私の中に刻みつけておきたかった。
それが例え彼女が傷つき苦しんでいる姿であっても、などと思う自分はきっとすでに狂っている。
そして、そんな狂人は彼女の相手役に相応しくない。狂った吸血鬼が彼女を幸福にすることなど出来る訳がないのだ。だからどうか――私は心の奥底で祈る――彼女を幸福にできる者がいるのなら、私を銀で刺して木蓮の手をとり、この朽ち果てという闇から救い上げてはくれないだろうかと。
一方で、私の暗い心はそんな願いを嘲笑い粉々に噛み砕く。そう、最早自分が木蓮を手放せる訳がないのだ。彼女と縁を結んだあの日、彼女に誓ったように。もしも彼女がこの暗闇を抜け出したいと願う日が来たら、私は躊躇うことなく彼女を殺すだろう。自分以外の者が彼女の手をとることは決して許さない。
「十季」
「どうした、木蓮?」
「またそんなしれっとした顔して。あのね、十季が真っ黒いこと考えてるのは私にも分かるんだよ」
そうだろう、互いの血は喜怒哀楽の別なく全ての感情を伝えてしまうから。それなのによく木蓮は私を組み敷いて笑っていられるものだと思う。
「具体的に何を考えてるのかは分からないけどね」
「……その方がいい」
「だろうね」
少しばかり自嘲的な物言いになってしまったが、木蓮は特に気にすることなくあっさりと頷いた。それから「よっ」と気の抜けるような掛け声でくるりと体勢を変え、私の身体をまたいで膝立ちになる。反射的に私が視線を上げれば、そこには闇の中に身を置きながらも変わらずに輝く木蓮の顔があって。
「十季」
名を呼ばれ、しかしそれに答えるよりも早く私は木蓮の胸に抱き寄せられる。無意識に額をすり寄せれば、頭を抱く腕にぎゅっと力がこもった。
同時に、真っ黒な自身の心に温かなものが流れ込んでくる。ああ、木蓮の光だ。目を閉じれば一層光は強く感じられて――とくり、とくりとまるで彼女の心臓が動いているように――私の黒々とした身の内を蝕んでいく。
これでは、まるで私の方が物語の中の乙女のようだ。そう思えば確かに、彼女はヒロインには向かないのかもしれない。彼女はきっと、物語の中の乙女達のように誰かの助けを待つことも、己の運命をただ嘆くこともしない。彼女は自分の手で剣をとり、困難は自分の手で切り伏せてしまうだろう。
それとは逆さまに、自分ときたらどうだ。木蓮の手を引き導いていた筈が、気がつけば彼女に手を引かれている。そしてそれをよしとしてしまっている己すらいて。
「木蓮……」
もしかしたら、と思ってしまうのだ。彼女ならば闇に沈まずに、自分を闇の中から救い上げてしまうかもしれないと。
「全く、君は……」
私は少し苦いものを感じながらも木蓮の体に腕を伸ばし、そっとその感触に浸る。そんな私を木蓮は酷く優しい顔で見つめ――その眼差しは窓外の雨みたくしとしとと、降り止むことはなかった。
こちらは魔法のiらんどにて「朽ち果ての王と宵闇烏」の第壱部が完結した際、御礼企画にご応募下さった方のリクエスト作品です。ご応募どうもありがとうございました!
こちらが第3弾、御礼企画はこれにて完走です。
是非、今後とも「朽ち果ての王と宵闇烏」をよろしくお願い致します!