『知らない』
ちょっと里帰りしたら、帰れなくなりました。
そちらに帰れるのがいつになるのかは、まだわかりません。いつになるのかはわかりませんが、私はチョコプリンのことは忘れませんので。私が帰ってくるまでに買っておくように。
「はぁ……」
無駄に鋭い爪で地面にガリガリと文字を刻む。
日付は変わって、二日目の朝。
一晩寝たら元に戻っているかもしれないという淡い期待は、残酷にも打ち砕かれた。
こんな状況で寝られるか!と思っていたのだが、肉体的にも精神的にも疲れていたのか、お恥ずかしながら熟睡だった。そして起きてみたら、そこは我が家でなく寝る前と同じ木造の屋敷の一室だった。もちろん白い狐の姿で。
ちなみにご飯は、どんな生肉が出てくるだろうと身構えていたら、普通の和食だった。しかも、お味噌汁も焼き魚もすごく美味しかった。
え? 狐の姿でどうやって食べたのかって? そ、それは、ご想像にお任せしますよ。
「ハルー、これ何て読むんだ? あとこれ、ちょこぷりん、て何だ?」
現実逃避気味に手紙を書く私を隣でじっと見ているのはナツ。
私と同じくらいの大きさに見えるナツだが、性格はかなり子供っぽい。小学校の低学年くらいの言動をする。
「ナツってさあ、今何歳なの?」
話を振ると、質問を無視されたのにも気づかないくらい大喜びする。尻尾の毛がブワッである。
「俺かっ? 俺はな、えーと、17歳歳!」
「へえ、17歳。17歳!?」
17歳って、私と同い年じゃないですか!
「双子!?」
「おう! 母様が、俺と俺のねーちゃんはそっくりだったってよく言ってた。本当に俺とそっくりだな!」
くりくりした目で私を見つめ、首を傾げられる。
こいつ、自分の可愛さ知ってやってんな……!
動物は嫌いだが、飛びつかない、追いかけてこない動物はまた別だ。動物のぬいぐるみまで嫌いなわけではない。そしてぶっちゃけナツは動物というよりぬいぐるみに近いと思う。だから許容範囲だ。
それにしても、17歳でこの感じって巨大狐さん、どんだけ甘やかして育ててんですか。
「へ、へえ……。それで、どこが読めないって?」
私がどうにかしてやらねば、という謎の義務感が芽生えた。
漢字が読めないというナツのために簡単な漢字を地面に書く。
「こっちから、いち、に、さん……」
「いち、にー、さん」
弟がいたら、こんな感じだったのだろうか。
うち一人っ子だったからね。教えてあげるという行為は初めてだった。
「じゃあ次。やま、かわ、そら」
「あっ! これは知ってるぞ! 母様の名前にこの字があった!」
並べた漢字の一つをナツが指す。“山”の文字だ。
「こうやって、こうして、こんなのが母様の名前!」
“山”の上にへろへろの字を書いてくれた。なんとか読める。これは……“咲”だな。
「咲く、山? なんて読むの?」
「さやま」
ふーん、あの巨大狐、というか私の本当のお母さん? 咲山って名前なんだ。
ナツはまだ何かガリガリと書いている。
「で、これが俺の名前な」
「火の夏……? これでナツって読むの?」
「違う。かなつ! 俺の名前、ナツじゃなくて火夏だぞ?」
ここに来て新事実発覚!
いやだって、巨大狐……咲山さんがナツって呼んでたから、ナツだと思うじゃん!
そうかぁ、火夏かぁ。火に夏って、どたばた走り回って、いつもハイテンションのあなたにぴったりのいい名前だと思いますよ。
「ハルの字は、こう!」
“火夏”の隣に並んだのは、私の名前。
私の名前は平仮名ではるかだ。そのまま、はるか、と平仮名で書くのかと思ったら、なぜかナツは漢字を書き始めた。
ひときわ大きく書いたへろへろの字をドヤ顔で見せてくれる。
「春、火……」
春火。
その二文字を見た途端、また尻尾が勝手に揺れ始めた。
不思議な高揚感に包まれ、思いっきり駆け回りたくなる。人間の時には感じることのなかった感覚だ。
黙り込んだ私の顔をナツがくりくりした目で覗き込んでいる。
「ハル」
ハッ、と私を我に返したのは、戸を開けて縁側に出てきた咲山さんだった。
「母様! ハルに漢字教えてもらってたんだ!」
褒めて褒めてと尻尾を振ったナツは咲山さんにじゃれつく。
私はまだ、ふわふわした感覚が抜け切らず、その様子をぼんやりと見ていた。名前を見聞きした時に起こる、この症状はいったい何なのだろう。
「ハル、南雲が来ているぞ。ああ、まったく……ハルは疲れているのだから、会うのはもう少し後にしろとあれほど……」
そこまで言うと咲山さんは大きなため息をついた。
ブツブツ言いながら縁側に腰を下ろす。その拍子にじゃれていたナツは、ころんと転がったが、諦めずに咲山さんが苛立った様子で振っている尻尾を捕まえようと跳ねている。
「……なぐも?」
知らない名前に首を傾げる。
と言っても、どうせそいつも狐なんだろうけど。
そんなことを思っていた分、障子戸が勢いよく開いた時は、驚いた。
「いた!」
咲山さんが再び大きなため息をつく。
「御子様! 会いたかった!」
「ぐえっ」
目が合った瞬間、私を持ち上げて抱きしめたのは、狐ではない、黒目黒髪の男の人だった。