Q.友情は食券で壊れるのか? A.バカなら問題ない。
副題:赤い奇蹟の物語~YOU CAN DO IT!!~
桜の咲き誇る昼下がり、美術大学の憩いの広場。
温かい日差しが差し込むこの場所は、いつもの通りゆっくりとした時間が流れている――
はずなのだが。
今日に限ってはそうでもないようだ。
今ここで、二人の青年が殺気のこもった目で睨み合っていた。
そして少女が間に立って、仲裁をしようとしている。
「僕に挑むということが何を意味するか。それを分かっているのかな」
「やかましい! いいからとっとと始めるぞ」
「ちょ、やめなさいよ! もう一枚食券買ってくるから!」
「馬鹿野郎! ただ一つの食券を奪うからこそ価値があるんだ!」
「同感だな。僕は巳雪さんを愛している。
故にもちろん引き下がる訳にはいかない。君もそうだろう?」
そもそも、少女が間違えて定食を二つ頼んでしまったことが事件の発端だった。
適当に友人にあげようとした所、二人が鬼気迫る勢いで『くれ』と言ってきたのだ。
同調を求められた青年が、慌てたように否定する。
「はぁー? 俺がこんな貧乳娘が好きなわけあるか!
こんなのと付き合うくらいならダビデ像とデートするわ!」
「誰が貧乳だコラァ!」
少女の鉄拳が炸裂する。
巳雪と呼ばれた少女の右ストレートは、ボクサーも顔負けの衝撃だった。
細い体躯から繰り出される力とは思えない。
しかし、青年も強い。地面にへばりつくのも数秒、すぐに不屈の精神を燃やした。
「ぐぬおおお! 負ける訳にはいかない、俺はこんな所で負けられないんだ」
「ふっ、どうやら君にも戦う理由があるようだな」
「もちろんだ。俺の貯金残高が遂にレッドゾーンに突入してな。
このままだと内蔵を売るか姉貴に土下座するかの二択を迫られてしまう。
もう人の足を舐めさせられるのは二度とゴメンだ。
だから――メシ代を浮かせるチャンスを、俺は絶対に無駄にしない!」
立ち上がりながら言い切る青年。悲愴の決意だった。
作業服を買う金すらもないのか、何度も洗濯した痕跡のある白衣を着ている。
その生地は絵の具を吸いに吸い、見るも無残なほどドロドロだった。
青年の名は佐東辰馬。美術大学の二回生だ。
「不思議だよな、飯なんて誰に奢ってもらっても同じだってのに。
今に限っては、何でか必死になっちまうんだ」
口の端に浮かんだ血を拭う辰馬。
巳雪の慈悲をこいつが甘受するのだけは、どうにも許せない。
どうでもいい同級生の少女のはずなのに、こういう時になると理由なくムキになってしまうのだ。
「くくく、君は幼稚だな。その感情が分からないのだろう。
感性を研磨するのもまた芸術家だというのに。
だが安心したまえ、今から僕が君を完膚なきまでに打ち負かしてやろう」
スチャリ、と眼鏡を上げて不敵に微笑む青年。
同じく大学二回生の涼木羊虎である。
女の子らしい言葉の響きをした名前で、見た目も精悍と言うよりは理知的な方だった。
だが、本人の態度はどこまでも図太く、負けず嫌い。
少女と辰馬を含むこの三人は高校生時代からの縁で、キャンパス内でも無駄に暴れまわっていた。
「そうか。ならこの場所で芸術勝負だ」
「いいだろう。君に勝機はないがな。
ただ、審美眼を持つ人間が居ないな。判定はどうする?」
「作品の善し悪しくらい俺たちでも分かるだろーが。感服したほうが負けだ」
「面白い。学年首席で入学したこの僕を相手にして――
芸術点以外で単位を落としまくっている君が勝てるのかな」
「やってみりゃ分かんだろ。
俺の究極の作品を見てぽかんと開いた口に、アクリル塗料を詰め込みまくってやるよ」
「よく言った、ならば憩いの広場をより前衛的アートにしたほうが勝ち、でいいな?」
「ふっ、望むところだ」
「何が望むところかぁーっ!」
カーン、カーン。
小気味いい音が二度響いた。
巳雪が馬鹿二人の頭をペンキ缶で思い切り叩き制圧したのだ。
ぜー、ぜー、と荒い息を吐きながら説教する。
「あんた達二人とも、教授に大人しくするように言われてるでしょうが!
これ以上やったらまた停学じゃない!」
至極もっともな正論。
この二人が張り合うと、確実に周りを巻き込みながら崩落していくのだ。
学園長が青筋を立てることも日常茶飯事。
なので教授連中からは、とんでもない問題児として扱われていた。
「ふっ、止めるなよ巳雪。
男にはな、どうしても引けない戦いがあるんだ――」
「同感だな。たとえこの身が朽ち果てようと、輝かしい栄光を手に入れてせる」
「あー、もう! たかが食券でこんなことになるなんて思ってなかったぁー!」
頭を抱えながら、巳雪は肩を落とす。
この二人が一回起動したら、もう止めることが出来ないのだ。
「もういい、勝手にやりなさい! 私は知らないからね」
「おお、俺が勝った時に食券を渡してくれよ。確定事項だからな」
「確かに。この銀河が爆誕するより前に、この僕が勝つことが定められている。
さあ、始めようか。男と男の戦いをッ!」
クイッと眼鏡を上げる羊虎。
静かながら凄まじい闘志を燃やしている。
彼はもう、やる気満々のようだ。
「制限時間は20分!
この憩いの広場を自分色に染め上げたほうが勝ちだ! 異存は!?」
「ないな、それでは――スタートだ」
芸術への飽くなき情熱と、巳雪の食券を引鉄にして、問題児二人の血戦が始まった。
◆◆◆
キャンパスの屋上で、女性が一人佇んでいた。
物憂げな顔をしたまま、柵を超えて校舎の下を見ている。
女性の名前は兎月絵美。この大学の三回生だった。
首席として入学を決め、輝かしい芸術家へと邁進する。
そう決意したのが、高校3年の秋だったか。
必死に芸術と向き合い、確かに腕は上がった。
展覧会に作品を出せば、わざわざ海外から評論家が足を運んでくれるほどにもなった。
しかし、それと同時に胸にこみ上げてきたのは、どうしようもない虚無。
山の頂に立てば、あとは見下げるだけ。
誰も肩を並べる者が居ない。
皆と共に絵を描いていても、どうしようもない距離の隔絶があった。
彼女が孤独への道を歩んでいくのに、時間はかからなかった。
次第に授業も欠席気味になり、筆を握ることも少なくなる。
彼女は今、どうして自分が絵を描いているのか、分からなくなってしまった。
「……もう、いっか」
乾いた笑いを零し、少女は胸元から手紙を取り出す。
それを広げてみる。するとそこには、長々とした謝罪文が綴られていた。
『拝啓。父様、母さま。そしてパトラッシュ。
途中で投げ出す娘でごめんなさい。
私から望んでこの道に進んだのに、勝手に諦めて、本当にごめんなさい。
だけど、私はもう無理です。
嫉妬のこもった目で周囲から褒められて、一人で絵を描いても楽しくなくて――
こんな人生に何の意味があるのでしょうか。親不孝で、ごめんなさい。
命を粗末にして、ごめんなさい。さようなら――』
靴は脱いだ。覚悟も決めた。
あとは、もう飛び降りるだけ。
この高さから自由落下すれば、当りどころ云々を抜きにしても即死だろう。
さあ、この辛い人生からの解放へ、あと一歩。
そう思った時だった。
「おいこら! それは俺が使おうと思った色だ!」
「バカを言うな! 先に色の分配は済ませたはずだろう。
僕は赤を主体とした作品を作ろうと思って、多めに確保させてもらったんだ」
「それだけあるんだから少しくらい分けろや!
ほんの少しだけ、たった4リットル!」
「全部じゃないか! いい加減にしてくれ!
君の配色センスなんて知ったこっちゃないが、赤を使わなくても完成できるだろう?」
「ぐだぐだうるっせえな。
お前の頭にカンバス突き刺して直接色を絞りとってもいいんだぞ?」
とんでもない挑発。
もはや芸術勝負はどこへ行ったのだと問い詰めたくなる。
すると発破を掛けられた眼鏡の青年は、冷や汗を垂らしながら空を見上げた。
その時――一瞬絵美と目線が合う。
青年の瞳の奥にある計算高い光。
それが絵美の姿をロックオンしたように見えた。
「……ぁ」
絵美は急いで柵の側に身を隠す。
今の現場を見られたら、大騒ぎになって飛び降りることができなくなってしまう。
慎重に確認してみると、青年はもう喧嘩相手らしき無骨な青年に向き合っていた。
どうやら、バレてはないらしい。
見つからないように這いずりながら、絵美は二人の様子を見ていた。
◆◆◆
二人はピリピリしながら眉をひそめ、互いに拳をボキボキと鳴らす。
まさに一触即発状態。
「もやし眼鏡。その赤よこせ。拒否したら乱闘だ」
「やってみるがいい。涼木柔術の腕の見せ所だ」
「しゃぁ! 言ったなゴラァ!
佐東豪腕流の奥義を見せてやらあッ!」
「うわぁ! 本当にかかってきてどうする!」
とてもやかましい声。
はっきり言って、静寂を好む芸術の場には致命的なまでに不適だ。
そのはずなのに。絵美は不思議とその二人に目が釘付けになった。
赤色を巡ってペンキが飛び交い、筆が交錯する。
彫刻刀が宙を舞い、野次馬から悲鳴が上がる。
「こらこらこらっ! あんたたち、リアルファイトで勝負するなーっ!」
「うるせえ貧乳妖怪! 俺の芸術を阻む奴は誰だろうと許さねえ!」
「同感だな。例え赤い花が咲くことになっても、僕はこの作品を完成させてみせる!」
「こんな馬鹿騒ぎしてたら、関連者に通報されちゃうわよ!」
「知ったことかぁ!」
「全くもってその通り!」
「あぁ……ダメだこりゃ」
巳雪が止めようとしても、二人の殴り合い蹴り合いは止まらない。
次第にヒートアップしていく乱戦。
ギャラリーもいつの間にか賭場を設けて賭けを行なっている。
そんな時――いきなり群衆の輪を割くように人が現れた。
「こらー! キミたち、何をやっているのデスカ!」
「またお前たちか、佐東、涼木! すぐに止めろ、停学にするぞ!」
「……うげぇ、彫刻のジェンと芸術論の金剛だ。武闘派が来たぞぉー!」
「撤収ーっ!」
賭け金を徴収していた連中、そしてギャラリーが凄まじい勢いで逃げ出していく。
ラグビー部と剣道部の顧問をやっている二人に逆らえば、病院送りが目に見えている。
普通の人間ならば裸足で逃げ出すことだろう。
そう、普通の人間なら――
「あ、ジェンせんせーじゃないですか。
どうっすか俺の床絵。血の池地獄で綺麗でしょ」
「ヒィイイイイイイイイイイイイイイイ!
キミィ! 私の故郷、フランス美術の教科書にも載っている『大理石庭園』に、なんてことをするのデスカ!」
「ふ、一色塗って満足とは、君も落ちたものだな。
見給え僕の壁絵を。赤を基調とし、茜色のグラデーションを効かせてみた。
どうです? 金剛芸術論教授」
「ひぃいいいいいぁぁあああああああ!
古文・『黄土絢爛集』に紹介された『音無の壁』になんて悪趣味な彩色をぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「不正はなかった」
「まったくだ」
「犯罪じゃ馬鹿者ぉ!」
悲鳴を上げる二人の教授。
まさかこの憩いの広場で、こんな愚行に出るものがいるとは思わなかった。
彼らは今やっと再認識する。
この二人は、どうしようもない独自芸術狂信派で、バカなのだと。
「す、す、すすぐに消すのデス!」
「停学じゃすまんぞこの糞ガキどもが!」
二人が雑巾とバケツを取りに行こうとする。
こんな所を学園長に見られた日には、監督不行き届きでまとめて解任されてしまう。
武闘派二人が走り去った所で、羊虎が辰馬に声をかける。
「辰馬、少し耳を貸してくれ」
「あ? 何だよ」
しぶしぶ顔を近づけると、羊虎は何かを耳打ちした。
すると、辰馬の顔が険しくなる。
そして一つ頷くと、気合を入れるように白衣を翻した。
「よし、ならこの絵はこのままでいいな。むしろ判定してもらおう」
「ああ、となればあとは自然にそこへ向かう手だが――」
二人の目が巳雪に向く。
彼女はもう付き合ってられないと、背を向けて立ち去ろうとしていた。
辰馬と羊虎は示し合わすように笑い、彼女に追随する。
「なあなあ巳雪。どっちの作品がより芸術的だ? ここは俺の『血の池地獄』だよな」
「はぁ? あんた達セルフジャッジで勝敗決めるんじゃなかったの?
てか今私に近づかないで、責任が波及しちゃう」
「ふっ、やっぱり食券を恵んでいただく女神に審判を下してもらいたく。
まあ、もちろん僕の『紅き罪人門』だよな」
「知るかー! ただの色塗りにしか見えなかったわよ!」
至極もっともなことを言う。
もともと二人も、至近距離で味わえる作品を書いては居なかった。
巳雪の言葉を受けて、二人は白々しく言う。
「あー、そうだよなー。だって俺達の作品って高いところから見て始めて感動するものだからなー」
「同感だなー。僕の作品がいかに素晴らしいかを知るには、もう屋上に行くしかないなー」
「ちょっと、何勝手なこと……きゃああああああああ!
拉致されるぅうううううううううう!」
いきなり上半身を辰馬に抱えられ、下半身を羊虎に持ち上げられた。
そのままラッセル車にように運ばれていく。
「こ、こら人を物のように運ぶなー!
というかパンツ見えちゃう! 下ろしてーっ!」
「ゴルァ貴様らーッ! 消すのを手伝わんかー!」
「大変デス金剛教授! この塗料、ものすごく消えにくいものを使ってやがりマス!」
「なんという罰当たりなことをーッ!」
「ふはははは! 頑張ってくれたまえ教授諸君!」
高らかに笑う辰馬。シャカシャカと怒涛の勢いで立ち去っていく。
そのまま三人は校舎へと消えて行くのだった――
◆◆◆
嵐のように吹き荒れる馬鹿を見た絵美。
あの二人を見ていると、何だか自分の探しているものがそこにあるような気がした。
なぜ彼らは絵を描くのだろう。
佐東辰馬と涼木羊虎。共にこの学園で活躍するエースだ。
とんでもない奇行が目に付くが、芸術の腕は屈指。
一度絵美も展覧会で彼らの作品を見たことがある。
二人とも技巧や画風が違うものの、とある共通項を持っていた。
それは『楽しい』ということだ。
彼らの絵を見ていると、楽しんで描いていることがひしひしと伝わってきて、こっちの心まで晴れやかになる。
評論家の一部を惹きつけて止まない魅力を、確実に持っているのだ。
「……私に足りないもの。いや、忘れてしまったもの」
それは何なのか。
それさえ分かれば、この胸を押しつぶす苦しみも消えそうなのに。
だけど、私は真実を知らずしてこのまま死ぬらしい。
じゃり、とコンクリートを踏みしめ下を見ようとした瞬間――
とんでもない音が響いて、屋上に足跡がこだました。
「……えっ!?」
そんな、ありえない。
施錠はしたはずなのに、誰も入れないはずなのに。
振り向いてみると、その理由が簡単にわかった。
ドアを、ぶち破ったのだ。
「……なんて、めちゃくちゃ」
「おっと、誰かと思えば兎月先輩じゃないっすか。
元気に日光浴ですか。だけどダメダメ、日本の紫外線だと肌が痛むだけだ」
「ふっ、同感だな。
それに、あなたが考えていることを僕は完全に見破っています。
事情の説明なんていりませんよ。
芸術家ならばだれでも突き当たる壁――それに苦しめられているのでしょう」
「……ど、どうも絵美先輩」
入ってきたのは、肩で息をする青年二人と暴れる少女だった。
先ほどまで下で騒ぎを起こしていたのに、何故ここへと……。
「気づいていたのね……」
「もちろんです。
騒いだらすぐに投身してしまいそうだったので、こうさせてもらいました」
眼鏡を描き上げる羊虎。
確かに、今下を見ても泣きながら雑巾をかける教授たちしかいない。
彼らは絵美が飛び降りようとしているのに気づいて、止めに来たのだ。
「……止めても無駄よ」
「でしょうね。自分で答を出さないと解決できませんから」
「知ったような口を――」
「何のために絵を描いているのか――ですよね」
「……っ!?」
絵美が驚愕した顔になる。
今日初めて会った人に、死にそうなほどの苦しんできた悩みを見破られたのだ。
「分かりますよ。僕達も、高校生時代に悩んだものです。
一人で絵を描いて褒められても、何の感慨もない。
いっそ筆を折ろうかと思いました」
「……そう、あなたも」
「だけど、僕にはバカみたいな喧嘩相手が居ましたからね。
そいつだけには負けたくない、死んでも負けるかって発奮していると、いつの間にか筆が進むんです」
「私の例に当てはまらないわ。だって私……孤独だもの」
悲しそうな目をする絵美。
説得失敗か。隣にいた辰馬が踏み出しかける。
だけど、引き戻すよりも先に、身体を投げ出す方が早いだろう。
描いた絵のメッセージを皆が受け取るまで、下手なことは出来ない。
歯ぎしりをする辰馬。
しかし羊虎の顔は涼しいもので、予想通りといった表情をしていた。
「でしょうね。ライバルが居ても、それは一時的な発奮材料にしかなりません。
少し時が経つと、また湧いてくるんですよ。
何のために絵を描いているのか、という疑念が」
「それが、今の私よ」
「そうですか。
なら先輩に当てはまるかはわかりませんが、三つの解答例を示しましょうか」
そう言うと、羊虎は辰馬に顔を向ける。
「なあ辰馬、君は何で絵を描いているんだ?」
「はっ、愚問だな。
究極の芸術家になって女の子からチヤホヤされたいからに決まってるだろ」
「うわぁ……キモ」
「黙れ巳雪。だけど、こんなものはこじつけだ。
その根幹には、芸術を堪能する者全員に当てはまるモノがある」
そこで一回言葉を切る。
そして、少しの静寂で間を持たせてから、自信を持って言った。
「『楽しいん』だよ。絵を描くのがな」
「……っ! それが、理由なの?」
「そうっすよ。ところで巳雪、お前なんで彫刻なんてやってるんだ?」
「そ、それは学校の先生になって彫刻の良さを皆に知ってもらいたいから……。
あと、やっぱり『楽しい』からかな? 彫刻をするのが」
巳雪も自分がいかにしてその疑問を乗り越えたかを言う。
辰馬と巳雪の解答の間には、言うまでもない共通点がある。
そして、これから口を開く羊虎も。
「僕は父の跡を継いで、日本を芸術大国にする夢がある。
だけど、やっぱりそんなことを実現するには、ある衝動がないと続かない。
やっぱり、『楽しい』んですよ。絵を描くのが、そして芸術が――」
「…………」
それを聞いた絵美は、真実が脳に浸透していくのを感じた。
それくらい、幼児でも答えられるような簡単な解答。
だけど、衝動の最も根幹にあるものでもある。
それは、『楽しい』ということ。
「どうなんですか先輩。
今の話を聞いても、あなたは死にたいですか?
芸術から逃げ出しますか。絵が楽しくないですか?」
「わ、私、私は――」
「ちょっといいか。俺に喋らせてくれ」
「……辰馬、くんだったわね確か」
「お、知ってくれてるなんて嬉しい。
そんなことは良しとして、実はですね先輩。
俺、展覧会で先輩の絵を見たことあるんですよ。
まあ正直言って、俺達より数段上の技術でしたね」
「えっ!? み、見てくれてたの?」
「評論家がべた褒めでしたから。
だけど俺からしてみればその絵はどこ悲しげで、筆に迷いがありました。
だから思うんですよ。もし先輩が答えを見つけて絵を描いたら、どんなに素晴らしい作品ができるんだろうなって」
心からの、裏表がない賛辞。
胸を塞いでいた障壁が、壊れてなくなっていく感覚。
絵美は目尻に涙を浮かべて、三人に返した。
「……楽しい、よ」
「そうですか」
「うん、何でこんなことに気づかなかったんだろう。
私、いつの間にか人に認められるために絵を描くようになってたみたい。
純粋な絵を描きたいという衝動なしで、うわっつらだけを飾るようになってたんだと思う」
あれだけ決意したのに。
死にたいって思っていたのに。
今はただ、絵を描きたいという想いで胸がいっぱいになっていた。
「ねえ……やり直せるのかな」
「え?」
「私、今からでもやり直せるかな」
「もちろんですよ。先輩はまだ若いじゃないですか。
俺たちとたくさん競って、いっぱい描いて行きましょう」
「そうだね。本当に、ありがとう。
ほんと、馬鹿みたい。こんなことで死にたいって思ってた私って――」
少女は涙を隠すように後ろを向く。
どこまでも透き通る空。
夕暮れが迫ってくる大学は、未だに騒がしい。
明日の芸術を夢見る人達の情熱で溢れている。
「……あれ」
絵美はふと、二人が無茶苦茶に描いた絵に目が向く。
暴れながら制作したからか、とても拙く見える。
だけど、純粋に楽しいと思わせる熱い想いが、そこに込められていた。
壁に茜色で刻まれたアルファベット。
床にとても濃い朱色で書かれたアルファベット。
二人共好き勝手に描いていたはずなのに、不思議とその文字はつなげることが出来た。
『YOU CAN』
『DO IT!!』
YOU CAN DO IT!!
お前ならできる。
なるほど、これは高いところからじゃないと分からないメッセージだ。
人の心をこれだけ動かすことのできる技。それが芸術なんだ。
「この野郎、閻魔が罪人に血の池地獄に飛び込めって意味で『DO IT!!』って描いたのに。被せてきやがったな、このパクリ芸術家」
「おや? 僕は飢えた罪人が缶を必死に開けようとする地獄絵図を思って『YOU CAN』を描いたのだけど。しかも先にね。それを言うなら君こそ似非画家だよ」
「もー、やめなさいよ二人共」
偶然にしてはあまりに出来過ぎた作品。
きっとこれは、芸術がつなげた奇跡だろう。
人の間さえリンクさせ反映させることのできる――芸術。
これを極めずして死ぬのはもったいない。すごく、もったいない。
「……うん、私生きるよ。
もっともっと、絵を描きたいもん。
だから、もしよかったら私も君たちと一緒に絵を――」
その時、運命の悪戯が起きる。
それはあまりにたちの悪い偶然。
吹き抜けた突風が、屋上を通り抜けたのだ。
すると当然、足場の不安定な絵美は足を踏み外し――
「きゃ、きゃあああああああああああああああああああああああっっ!」
死へと向かって一直線に落ちていった。
遺書は落ちる時に間違って踏んでしまい、ビリビリに破け、虚空に消えていく。
薄れ行く意識の中で、絵美は思う。
ああ、こんなに私がひねくれていたから、神様が天罰を与えたんだ、と。
溢れ出る涙が、彼女の悲痛な叫びを絞り出させる。
「……描きたいよ」
地上まで後少し。
この勢いで落下すれば、間違いなく身体がはじけ飛ぶだろう。
下にいたギャラリーが悲鳴を上げる。
そんな中でも、絵美は最後に本心を呟いた。
「……楽しい絵を、もっと描きたい」
そして、彼女は落ちた――
そう、強靭な肉体を持つ武闘派教授二人の腕へと向かって。
「ぐ、ぐぬおおおおおおおおおおお!」
「フォオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
ビリビリと、衝撃で教授二人の腕がしびれる。
だが、勢いは完全に相殺された。
絵美は目を開けて、自分が生きていることに驚く。
「まったく、首席になると責任感からストレスが溜まるとは思うが、こんな死に方は誰も望んでいないぞ」
「全くデス。たまにはあのバカ二人のことを、少しだけ見習ってくだサイ。
あの脳天気さも時には必要デスよ」
背中がじんじんとして痛い。
ヒビくらいは入っているかもしれない。
だけど、何で私が落ちてくるって分かったんだろう。
疑問に思っていると、金剛が照れくさそうに言った。
「ああ、あの壁と床を見て思ったんだ。
これをもっと高いところから見たら、どんな芸術が望めるんだって」
「何の気なしに上を見ていたら、キミが落ちてきたのデス」
「まったく、奴ら頭は空のくせに、こういうのを描かせたら一流だからな」
「減給を食らったとしても、責任をかぶってやりたくなる魅力があるんデスよね」
頬をポリポリと掻く教授たち。
抱えられた状態で、ふと絵美は上を見る。
真っ赤に染まった空と、屋上で立つ三人。
彼らはプラカードを掲げ、何かのメッセージを伝えてきていた。
『一緒に絵を描きましょう、先輩』
『一緒にデートに行きましょう、先輩』
『死になさい辰馬。このバカ二人の面倒、一緒に見てくれると嬉しいです、絵美先輩』
その言葉を受けて、絵美は本当の意味で救われた気分になった。
もう芸術から逃げない。二度とこんなことはしない。
だって私はこんなにも――絵を描くのが好きなんだから。
沈みゆく赤い太陽が、ゆらゆらと揺れる。
それはまるで、新しくスタートした少女に喝采を送っているようだった。
◆◆◆
「ふっ、これで先輩も完全復活するだろう。
恐るべきライバルが出てきたな」
「望むところだろうが。
ところで巳雪、食券はどこにあるんだ?
仕方がないからジャンケンで――」
二人が後ろを振り向くと、そこには誰も居なかった。
巳雪はプラカードを回収してどこかへ行ってしまっている。
「……おいおい」
二人がポカーンとしていると、携帯電話が鳴り響いた。
辰馬からは地獄の黙示録、羊虎からは威風堂々が流れてきた。
二人は急いでメール欄を開く。
『あんな心無い運ばれ方をして、私は傷心しました。
ヤケ食いでパフェでも食べることにします。
デリカシーというものを少しは覚えてください。巳雪』
カチ、カチ、カチ。いくら下にキーを押しても、それ以下の文はない。
添付画像には、巳雪があっかんべーをした写真が載せられていた。
二人は大口を開けて呆けている。
――グギュルルルルル
その腹から、空腹を知らせる音が鳴り響いた。
「あいむ、はんぐりー……」
「ふ、ふざけやがってちくしょおおおおおおおおおおおおお!」
日が沈みかけた空に、二人の嘆きが吸い込まれていった。
蛇足な後日談。
二人は翌日、学園長にこってり怒られたらしい。
本来なら退学モノだが、人命救助に一役買ったこともあり、二週間の校内清掃と学園長のパシリで済んだそうな。
時を同じくして、辰馬たちのサークルに一人メンバーが追加されることになった。
明るい未来に向かって、少年少女は走っていく。
そう。これはとある夕暮れに起きた――赤い奇蹟の物語。