「長」のありかた
最近、あるアニメを観ていてひどく感銘を受けました。
オススメして回りたいくらい秀作なのですが、かなり評判になっている作品でもあり、迂闊に内容を喋るとネタバレになりかねませんのでここでタイトルは出しません。
私が感銘を受けた点に絞って大まかに述べます。
とある組織を牛耳る独裁者的な人物がいました。序盤は冷酷非道な言動が目立ちます。
しかしながらその人物、正義といってもいい重大な企図を秘しており、その実行に向けた準備を整えるべく周囲にそれを悟られないようわざとそういう役回りを演じていたのです。
そして計画が実行に移されるや、自ら先頭に立って戦い、しかも部下が作戦を成功させるためには自分から囮にすらなったりする。部下は部下でその人物のためには命も要らないといい、その人の盾となり刃となって死闘を繰り広げていく。
気が付けば、その人物を慕って多くの人が集まってきていた――こんな感じです。
ときにハチャメチャで常識をとっ外した描写も多いのですが、私はすごく感じ入りました。
長というものは後ろに下がって下に指示を出しているだけの存在であってはならない。
下にやらせるところはやらせながらも、先頭に立ってどんどん状況を切り開いていくのが真の「長」の在り方であろう、と。下が仕事を進めやすくしていくために。
現実ではこんな話があります。
明治の日本、ロシアと戦争をしました。日露戦争です。
この戦役をめぐって賛否は分かれますが、出征して戦死した兵員が多かったのもさることながら、下士官といわれる尉官、あるいは少佐クラスの戦死も決して少なくなかったとのこと。
兵の先頭に立ってロシア軍に突撃していったため、真っ先に死傷してしまったんですね。もしくは前線にいたため、砲弾や銃撃にやられてしまったのだとか。
ただ、有名な東郷さんは連合艦隊司令長官という全艦隊で一番偉い人でありながら、黄海海戦でも日本海海戦でも旗艦三笠の艦橋に立っていたそうです。
旗艦には砲弾が集中します。艦橋は全面的に装甲に鎧われているわけではないから、いつ砲弾が当たるとも限らない。それでも東郷さんは戦闘中そこにいらっしゃったようです。
しかも必要とあらば小艦船に乗って機雷漂う海域にまで出ていく。
機雷っていうのは陸上でいう地雷です。当たれば爆発し、戦艦ですら沈みます。旅順閉塞作戦では、日本海軍はロシア側が撒いた機雷によって二隻の戦艦を失っています。だから、小さな艦船などは触れたら最後です。
東郷さんという方は本当にすごい人だったのだなと思うわけです。
話が逸れました。
私は職場の「長」となって一年が経とうとしていますが、今になって自分の考えをあらためようと思いました。先述したアニメの影響も大きいですが、それを観る前から考えていたので、決してアニメに踊らされているということではありません(笑)。
長、あるいは職場の管理者になってみると、部下の動きというものが目につくようになります。
同僚同士でもそれはありますが、立場が同じか近いと「自分がやらねば」という部分が大きい。
しかし長という、職制的に一段高い立場になると、部下の一人一人が「相応の働きをしているかどうか」という視点でみてしまうようになります。
私が気付いたことですが、上司から見てよく働いているように見える部下というのは、実は「一人前を超える仕事」をしている、という事実です。
もう少しいいますと、きちんと「一人前の働き」をしている部下がいても、それは前述した「一人前を超える仕事」をしている部下の陰に隠れてみえなくなってしまうのです。ゆえに「あいつ、ちゃんとやってないな」という、正しくない評価をしてしまう危険がある。
もちろん、一人前であってもそれはまっとうに仕事をしているといって良い。
一人前未満の仕事しかしていなければ、初めて「ちゃんとやってない」ということになる。
私はそういう錯誤を犯してしていたのでしょう。
やるべきことはちゃんとやれ、という思いがあって、部下が担当すべき範疇の業務は一切手出しをせずにやってきました。それはお前達が職制上やらねばならないと会社が定めているのだから、と、自分の中で理由づけもしていました。
そうなると、目につく一つ一つが部下の怠慢に思えてきます。
なぜ電話を取らない?
なぜ指示しておいたことができていない?
補足が必要ですが、私は私で職制上の役割があり、そちらに忙殺されていました。だから、ふんぞり返って部下の仕事を悠長に眺めていたわけではありません。私の近くにはそういう「長」がいますが。
ところがある日、一人の部下が重大なトラブルに見舞われます。
やむなく割って入った私に、その部下は泣きながら訴えてきました。
「みんな、大変な思いをしてやっているんです!」
私が何もしてくれないと言わんばかりに食ってかかられました。
最初は内心、思いましたね。
当たり前だ。
みんな大変だ。だが、それが仕事じゃないか。何を甘えたことを。
――しかし。
ふと、冷静になって考えてみたときに思ったのです。
俺は管理者だったかもしれないが、こいつらの上司といえることをやっていなかったのでは、と。
ここで私なりの解釈を述べねばなりませんが、思うに、管理者とは会社の規定通りに仕事と部下を管理する者のこと。
上司とは――やや情感的な解釈になりますが――部下の能力を把握し、状況に応じ的確な指示や補助を与えつつ仕事を完遂せしめるように仕向ける役割を持つ者のこと。
私が昇職試験に合格して辞令をもらったとき、脳裏に思い描いていたのは「上司」の姿でした。
それがいつの間にか「管理者」になってしまっていたのです。
もちろん、管理者としての側面もなければなりません。
しかしながら、世界中の全ての「長」にあてはまるたった一つの原則は、仕事の相手が「機械」ではなく「人間」である、という一点です。仕事の相手が全て機械であるなら、その人は「長」である必要などないでしょう。
恐ろしいものです。
気付かない、見えないということは、こんなにも簡単に価値観を変えてしまう。
以後については、今のところ語る内容をもちません。
現在進行中だからです。
例のトラブルについてはかの部下を矢面に立たせないよう私が前面に出、時間はかかりましたが一定の落着へと進むことになりました。
同時に、今は自分の仕事をやりつつも出来るだけ部下と同じ業務をするようにしています。
会社の定める職制上の業務分担からいえば、それは正しくないかも知れません。
長がやってくれるから、といって怠け心を起こす部下が出てくるかもしれない。げんに、います。
しかしながら。
このメカニズムはよくわかりませんが――上司が汗だくで動いているのを目にしながら何もしないでいられるような人間というのは、かなりの割合でいないように思えます。
いる、とは言いましたが、傍で私があれこれやっているとサボるタイミングがとれないらしく、結果としてサボれないようです。むしろ、少なくとも先述した「一人前の仕事」はやってくれています。
こういうときに例のアニメを観たことで、すごく良い触発を受けました。
カッコいいと思います。
一騎当千の殺戮は出来ませんが、一騎当千の仕事をすることは出来るのです。
それをやっているのが部下だったら、長なんか要らないではありませんか。
一騎当千の仕事をする長であればこそ、部下は勇んでついてくるに違いありません。
この人の下だったらば、と。
長とはかくあるべきだと思います。