第26話
交渉の場は、国境の街の議事堂に設けられた。
リーゼロッテが王都入りを拒んだためである。「交渉がまとまるまで、私は一歩も貴国の土を踏みません」。その宣言通り、議事堂は国境線上に建つ中立の建物が選ばれ、オストマルク側からは宰相と外務卿、法務卿が、こちら側からはリーゼロッテ、病躯を押したギルベルト、書記としてクラウス、そして立会人としてレーヴェン王国の特使が席に着いた。
中立国の立会いつき。それだけで、これが「里帰り」ではなく「外交」であることは明白だった。
「では、条件を申し上げます。全部で五条です」
リーゼロッテは、一枚の書面を卓の中央へ滑らせた。
「第一条。私の追放処分の完全な撤回と、国王署名による公式謝罪。謝罪文は官報に掲載し、大陸各国の宮廷へ写しを送付すること」
宰相の眉が動いた。国内向けの謝罪ならまだしも、諸外国への公表は、王家の恥を大陸中に晒すに等しい。
「第二条。婚約破棄の経緯――すなわち、検証なき断罪と追放の全過程を公文書として記録し、王立文書館で永久に公開すること。二度と、同じ手口で誰かを裁かせないために」
外務卿がペンを走らせる音だけが、しばし議事堂に響いた。
「……第三条は」
「聖教会の聖女搾取について、真相究明委員会を設置すること。委員は王家からも教会からも独立させ、三百年分の記録をすべて開示する。過去の聖女たち十七名の名誉回復と、遺族への補償も含みます」
法務卿が息を呑んだ。それは教会という大陸最大の組織に、正面からメスを入れる要求だった。
「第四条。浄化の対価として、シュヴァルツヴァルト辺境領との恒久的な相互不可侵、ならびに難民受け入れ費用の全額補填。そして第五条――」
リーゼロッテは、そこで初めて、声の温度を一段下げた。
「交渉および今後の一切の窓口から、アルノルト王太子を除外すること。私はあの方と、二度と同じ卓に着きません」
沈黙が落ちた。
やがて宰相が、絞り出すように言った。
「……第一条と第二条は、王家の権威を著しく」
「権威、ですか」
リーゼロッテは、穏やかに首を傾げた。
「では伺いますが、宰相閣下。その権威は今、何を守ってくれていますか? 瘴気に呑まれた王都を? 配給の列で倒れる民を? ……誤解なさらないで。私は貴国を辱めたいのではありません。ただ、真実を記録に残したいだけ。権威とは恥を隠すことではなく、過ちを認められる強さのことだと、私は思いますけれど」
「し、しかし、教会の件は我が国だけでは」
「レーヴェン王国は第三条を全面的に支持いたします」
特使が、涼しい顔で口を挟んだ。
「フェリクス陛下は仰せです。『聖女搾取は一国の問題にあらず、大陸の恥である』と。委員会には我が国も参画いたしましょう」
外堀は、完璧に埋まっていた。
宰相は書面を睨み、額の汗を拭い、そして――理解した。目の前の女性は、感情で吹っかけているのではない。要求のどこにも、私怨による報復や金銭の強請りがない。あるのは記録と、再発の防止と、民の保護。断る大義名分が、どこにもないのだ。
これが、二十年間、王太子妃として鍛え上げられた頭脳の使い道だった。皮肉にも、この国が彼女に施した教育が、この国の首元に突きつけられている。
「……五条、すべて。持ち帰り、必ずや陛下の裁可を」
「ええ。良いお返事をお待ちしております」
三日後、国王の裁可が下りた。五条、無修正での全面受諾だった。
署名の場で、リーゼロッテは条約文の末尾に、自らの新しい名を記した。リーゼロッテ・シュヴァルツヴァルト。かつて捨てさせられた家名の代わりに、自分で選んだ名前を。




