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望んだとおりに

作者:
掲載日:2026/05/31

そして、望んだとおりになった。



 

 書くことは楽しかった。

 読まれることを、覚えるまでは。


 画面の右下で、数字が二十一時に切り替わる。

 男はキーボードを打つ指を止めた。小説の予約投稿を設定していた時刻だった。


 机の端へ右手を伸ばし、伏せて置いていたスマートフォンを取り上げる。

 予約投稿にした意味がないな、と思う。時間になった瞬間、こうして画面を見にいくのだから。


 Web小説サイトを開く。


 投稿することにはもう慣れていた。大きな緊張もない。

 作品を公開したところで、世界が変わるわけではないことを、男はすでに知っていた。罵倒が飛んでくることもなければ、称賛が降り注ぐこともない。

 いくつかの印がつき、読まれた痕跡が残っても、気づけば新着の文字は消え、無数の作品の中へと沈んでいく。それも、男は知っていた。


 けれど、期待までなくなったかと言われれば、嘘になる。

 今度こそは、と投稿直後に確認してしまうのは癖になっていた。


 応援もコメントも、まだない。

 PVだけが少しずつ増える。


 何度か画面を更新しているうちに、通知欄に小さな赤い丸が点いた。

 飛び付くように指先が動く。


 そこにあったのは、見慣れた名前だった。


 梅ヒジキさんが応援しました。

 梅ヒジキさんがコメントを書きました。


 ──ああ、またこの人か。


 胸の内でそう呟いてから、男はコメントを開いた。


 『閼伽井あかいさん、いつも素敵な作品をありがとうございます! 今回も読み終わってからじわじわ来ました! 主人公がコップを洗わずにそのままにしておくところが、特に印象に残っています。なんだかまたこの場所に戻ってこられるような感じがして、好きでした。それから──』


 続きを読みながらも、男は少し首をひねった。


 コップは、そういうふうに置いたのではない。

 強いて言うなら、生活の荒廃と、その奥に滲む惰性を示すための小道具だった。間違い、と言い切るほどではない。ただ、想定していない読みだっただけで。


 梅ヒジキさんは、いつもそうだった。


 よく読んではくれる。

 更新すれば、たいがいその日のうちに来て、応援の印を置いていく。

 コメントをくれることも珍しくなかった。気付きや好きだった箇所を十数行にもわたって伝えてくれる。その熱量だけは、疑いようがない。


 ただ、男の意図とはどれも少しずれていた。


 梅ヒジキさんは、男が力を入れた一文ではなく、何気なく置いた一文に反応する。

 構成の技巧ではなく、登場人物の些細な仕草に目を留める。

 苦心して磨いた情景描写ではなく、説明として差し入れた内省を褒める。


 感想としてはありがたい。

 ありがたい、のだが。


 男は返信欄を開いた。


 『コメントありがとうございます。コップの場面は日常の惰性のようなものを書いたつもりでした。そんなふうに読んでいただけたのは意外です。ありがとうございました』


 打ち終えて、少しだけ眺める。

 角が立っているだろうか、と思った。

 いや、説明だ。作者として自分の意図を伝えているだけ。読んでもらった以上、誤読を防ぐことも誠実だろう。


 男は送信した。


 それからまた通知欄へ戻る。

 梅ヒジキさん以外の新しい反応はない。

 PVの数字も大きくは動いていなかった。


 画面を下へ引く、更新。

 何も変わらない。


 しばらく過去作のページも見て回った。どれも変わっていない。

 もう一度、最新作に戻り、画面を下へ引く。変わらない。


 ややあって、行き場のない指先がSNSを開いた。

 最新話更新の告知を投稿する。相互の書き手のひとりが、すぐにいいねを置いてくれた。続けて、返信が来る。


『健筆で羨ましいです! 更新お疲れ様です!』


 短く礼を返す。


『ありがとうございます』


 そのまま相手のホームへ飛ぶ。相手も数時間前に作品の更新告知をしていた。

 男も同じようにその告知にいいねをつける。

 差し引き、ゼロ。

 そう考えてしまったことに、男はわずかに倦んだ。


 スマートフォンを机に置き、椅子の背に身を預ける。ぎし、と軋む音が部屋に響いた。


 天井を仰ぐ。

 クロスの細かな凹凸まで、やけにはっきりと見えた。


 子どものころは、天井のことなど意識もしなかった。

 わざわざ見上げることもなければ、低いとも高いとも思わなかった。

 夢という言葉も、そのころならもう少し容易く口にできたのかもしれない。


 創作をはじめて、数年が経っていた。


 最初のころは、ただ書くことが楽しかった。

 頭の中に浮かべた誰かの人生や、景色や、思想が、自分の手を通して文章の形を取っていくこと。

 また、表現しきれないような身の内の感情に──名前とは呼べないまでも──ひとまず置き場所ができること。それだけで、しばらくはよかった。


 書き続けるうちに、感情を文章へ移す回路のようなものも身についた。

 たとえば「寂しい」を表したいとして、それを寒さで書いたり、沈黙で書いたり、誰かの背中を見つめる視線や、夜明けが近付く空の色で書くことができるようになった。


 自分でもよく思いついたと思えるようなものが書けたとき、男の内側はたしかに温まった。


 けれど、今はそれだけでは足りない。


 天井を見あげたまま、ため息をつく。

 ──執筆に戻ろう。


 切り替えるために、机の上のマグカップを手に取った。唇を寄せたときから、もう珈琲が冷めていることには気づいていた。それでも一口、飲む。

 ぬるさと苦味を舌の上に残したまま、男はふたたびキーボードに指を置いた。

 静かな部屋に、カタカタと小さな音が続く。


 梅ヒジキさんのコメントは、嬉しかった。

 少なくとも、最初はそうだった。


 初めて梅ヒジキさんからコメントをもらった日のことを、男は覚えていた。

 初めて見た名前だった。名前が名前だけに、相互フォローの相手なら、さすがに記憶に残っているはずだった。


 見知らぬ誰かが、ただ読んで、言葉を残していった。

 義理めいたものでも、返礼でもなく。


 その事実に高揚した男は、そのとき、梅ヒジキさんのプロフィールを見に行った。自分の作品に言葉を残した相手が、どんな場所から来たのかを確かめたかった。


 読み専ではないらしかった。

 いくつか作品が並んでいた。どれも男の作風とは大きく違い、軽やかで、気安く、流行に沿ったもののように見えた。凝った構成でも、重厚な文体でもない。評価やコメントもほとんどなく、レビューも見当たらなかった。


 ただ、更新報告だけはやけにまめだった。


 『今日も少し書けました!』

 『ここ、書いていてとても楽しかったです』

 『読んでくださった方、ありがとうございます。一つでもPVが増えると嬉しくなります』


 男はそれを見て、趣味なんだな、と思った。


 悪い意味ではない。

 たぶん、本当に悪い意味ではなかった。


 楽しそうで、健やかで、朗らかで。誰かに選ばれるためではなく、何かに届くことを切実に願うのでもなく、ただ自分の机の上に小さな花を飾るように書いている。そういう人なのだろうと思った。


 それを眩しいとも、羨ましいとも思わなかった。

 ただ男は、自分とは違う、とだけ思った。


 男は、書くことにあまりにも多くのものを費やしていた。誰と過ごしていても、職場で手を動かしていても、夜更けの時間にも休日の明るい午後にも、頭のどこかではいつも、まだ書けるはずの一文のことを考えていた。

 

 それでいて、書けなかった日の焦燥や、伸びなかった日の沈黙。そういったものも含めて、男は書くことを重い何かとして抱えていた。


 梅ヒジキさんの好意や応援は、最初のうちは男の筆先に熱を与えた。


 通知が来る。

 コメントを読む。

 自分の書いたものが、誰かの中にたしかに届いていると知る。


 それだけで、しばらくは書けた。


 けれど、褒め言葉には揮発性があった。


 開いた瞬間には、胸の奥に温度が差し、書いてよかった、と思える。しかしそれは、すぐに薄まった。

 何度も読み返すうちに、最初の鮮烈さは失われ、言葉そのものは残っているのに、効き目だけが抜けていく。

 男は何度もコメント欄を開いたが、それは読み返すというよりも、誰かに認められたことがあるという証拠の確認に等しかった。


 数字は違った。

 PV。レビュー。順位。そういったものは薄まりづらかった。男の中に残り、燻り続け、さらに大きな火を欲しがらせた。


 数えられる評価を渇望することは、浅ましいことか。

 男はたびたびそう考え、いや──と否定した。


 書いたものが誰かに届いてほしい。

 価値があると認められたい。

 時間をかけて積み上げてきたものに、相応の場所を与えられたい。

 書き手ならば、誰しも持つ当然の願いのはずだ。

 報われたい。掬い上げられたい。

 ここにいるのだと、知ってほしい。

 そう望んで、何が悪い。


 その願いが、いつから請求の形を取りはじめたのか。男は考えることもしなかった。


 そうしているうち、梅ヒジキさんのコメントのずれが気にかかるようになった。


『この二人のやりとり、読んでいて楽しいです!』


 楽しい場面を書いたつもりはなかった。


『最後、主人公は救われた気がしました』


 救済のつもりではなかった。


『このキャラクターは手の内にある幸せに気付けなかったんですね……』


 気付いていてそれを切り捨てる愚かさを描いた。


 ひとつひとつは、小さなことだった。訂正するほどではなく、怒るほどでもなく、むしろ好意的な読みであることは男にもわかっていた。わかっているからこそ、扱いに困った。


 男の作品は、梅ヒジキさんの中で、男が置いたものとは少し違う形をしているらしかった。


 それは読まれるということの、避けがたい結果なのかもしれない。作品は公開された瞬間、作者の手を離れる。誰かの中で、意図とは別の光を受け、別の影を落とす。男も頭では、それをわかっていた。


 わかってはいたが、どうにも手に余った。

 梅ヒジキさんのコメントを見るたび、男は首をひねり、訂正すべきところをそっと伝え、読んでくれたことに礼を伝えた。


 梅ヒジキさんの言葉は、たしかに男の作品へ向けられていた。それでも、男の目はいつも、もう少し遠い場所を見ていた。




 大きなコンテストの募集が始まった。

 男は、今度こそ、と思った。


 これまで書いてきたものの中で、一番いいものにするつもりだった。過去の受賞作の傾向を調べ、コンテストのページに掲げられた『求められている作品』という文言を何度も読み返した。

 誰にも媚びず、それでいて独りよがりにもならず、自分の手癖を磨き、欠点を抑え、題材を選び、構成を練った。


 働いて、帰って、食事をして、風呂に入り、眠るまでの数時間を原稿に注いだ。休日はほとんど机の前に座り、SNSを見る時間も、人の作品を読む時間も、少しずつ削れていった。


 書いてはいた。ひたすらに、自分の作品とだけ向き合い続けた。

 ただ、まだ出せるものがなかった。プロットは本文になったが、本文は推敲の余地ばかりを見せた。

 ひとつ直せば、別の粗が目につく。告知できる更新もないまま、男の通知欄は、少しずつ静かになった。


 それでも、梅ヒジキさんだけは来ていた。


 男が新しい話にかかりきりになっているあいだ、梅ヒジキさんは男の過去作を読んでいた。数年前の作品に数分おきの応援が並び、男がもう忘れていたような場面について、熱のあるコメントが残る。


 『一気に読みました! 謎を謎のままにしておくところが面白くて――』

 『短編も書かれていたんですね。主人公の本音の吐露がすごく刺さりました!』

 『今の作品と少し雰囲気が違う感じがして、でもやっぱり閼伽井さんらしさがある気がします』


 男はそのたび、返信欄をしばらく眺めてから、短く返した。


『いつも読んでいただき、ありがとうございます』


 以前のように、意図を説明することは減っていた。説明するのが面倒だったわけではなかった。


 ただ、男が求めていた評価は、梅ヒジキさんの言葉とは別の場所にあった。

 もっと大きな場所で、より高い位置から、自分の作品を正当に測ってくれる誰か。

 男は、その誰かへ向けて筆を動かした。




 発表の日、男は朝から落ち着かなかった。


 仕事の合間に、何度もスマートフォンを見た。通知はない。メールもない。投稿サイトのマイページにも、特別な表示は出ていなかった。


 結果発表は夕方の予定だった。それでも昼を過ぎたあたりから、もう何度も公式ページを開いてしまっていた。


 まだだ。


 まだ、何もない。


 その何もなさに、男はかすかな希望を見出そうとした。


 事前に連絡があるとは限らない。

 発表と同時に知る形式なのかもしれない。


 下読みを通過していれば、何かしらの通知が来るのではないかと一瞬考え──いや、そういうものではないかもしれない、とそれを打ち消した。


 期待は、形を変えるのがうまい。

 退けられそうになるたび、別の隙間に入り込む。


 ひょっとしたら。今度こそは。


 夕方、公式ページが更新された。


 男は、まず一番上の賞から見た。

 そこに自分の名前はなかった。


 次の賞にもなかった。


 部門賞にも、特別賞にも、最終候補にもなかった。


 何度かスクロールし直した。


 閼伽井というペンネームはない。


 ああ、でも、見落としているということもあり得るのかもしれない。

 

 作品名のほうで探す。


 ない。


 なかった。


 何もなかった。


 画面には、受賞者の名前と作品名が並んでいる。

 華やかな見出し。祝意に満ちた文言。選評らしき短い文章。明るい色のバナー。

 

 そこに、男はいなかった。


 しばらく、画面を見ていた。

 不思議なほど感情が動かなかった。

 悔しいとも、悲しいとも思わない。

 ただ、胸のあたりに大きな空洞ができ、その奥を風が抜けていくような感覚だけがあった。


 自分の作品ページを開く。

 応募中であることを示していた小さな表示は、もう意味を持たない。最新話のPVはわずかに増え、応援の印もいくつかついていた。 

 しかし、それらは急に、ひどく軽く見えた。

 小銭のようだ、と思った。

 価値はある。

 けれど、何かを買うには足りない。


 SNSを開くと、タイムラインは騒がしかった。

 受賞を喜ぶ声、落選を悔しがる声、次へ向かう声、しばらく休むという声。祝福と慰めと前向きな言葉が、似たような速度で流れていく。相互の創作仲間たちの投稿もいくつか目に入ったが、男はいいねを押さなかった。押せなかった。


 男はコンテストの公式ページで、受賞作一覧をもう一度見た。


 見覚えのあるタイトルが並ぶ。どれもランキングで目にしたことのある作品だった。内容が一息でわかるような言葉の並び、流行りの設定、読者の欲しいものを、あらかじめ皿に盛って差し出すような明快さ。男には、そう見えた。


 明快であることと、容易であることは違う。

 その区別から、男はこのとき目を逸らした。


 ──こういう話か、と思った。


 失望ではなかった。自分が選ばれなかったことに理由を見つけたような、安堵に近いものだった。


 男は、自分の作品を読みやすいものだとは思っていなかった。

 登場人物の感情を、説明ではなく余白で書いたつもりだった。すぐに笑える話でも、すぐに泣ける話でもない。

 読むには、少し時間が要る。腰を据えて、文脈を拾って、あとから効いてくるものを待つ必要がある。

 少なくとも、男はそのとき、そういうふうに考えた。


 ──ここでは、合わなかっただけだ。


 その理屈は、男を少しだけ慰めた。 


 では、どこでなら合う。

 どこへ行けばいい。


 喉が硬く詰まった。


 ──どうしてここでは、だめなのか。


 そもそも正当な評価が行われたのか。

 あるいは、下読みが本当に全作に目を通したのか。

 答えが出るはずもない疑念が湧き、それを打ち消すでもなく、男はまたSNSのタイムラインを眺めた。


 一つの投稿に目が吸い寄せられる。


 『結局、売れ線ばかりだな』


 心臓が嫌な跳ね方をした。うなずきたくなかった。

 男はその文字から逃げるように指を動かした。


 その少し上に、受賞者の喜びの投稿があった。


 『まさか選んでいただけるとは思わず、まだ手が震えています。書き続けてきてよかったです』


 男は、それを見て、息を止めた。


 『書き続けてきてよかった』──その言葉の素朴さが、ひどく鋭かった。まるで、選ばれた者だけがその言葉を使う権利を持っているように思えた。


 男も書き続けてきた。

 数え切れないほどの時間を使った。何作も書いた。何十万字も書いた。手を抜いたつもりはない。

 古い作品も、拙いなりにその時の全力だった。新しい作品は、もっとよくしようとした。


 なのに、なぜ、選ばれなかったのか。


 問いは、答えを求めていなかった。

 ただ、男の中で膨らんでいく。


 いつなのだろう、と思う。


 自分が書いてきたものが、誰かの前で、きちんと名前を呼ばれる日は。

 ただ置かれるのではなく、流れていくのではなく、沈んでいくのではなく、誰の目にも見える場所で、これには価値があると言われる日は。


 ──俺の番は、いつ来る。


 その言葉が胸の内に浮かんだ瞬間、男は顔をしかめた。番などない。順番待ちではない。そんなことはわかっている。わかっているのに、その言葉は一度浮かぶと消えなかった。


 通知が来た。

 投稿サイトの、赤い小さな丸だった。

 過去作に反応があったらしい。


 通知欄を開く。


 梅ヒジキさんが応援しました。

 梅ヒジキさんがコメントを書きました。


 またこの人か、とは思わなかった。

 思うより先に、男はコメントを開いていた。


 『最終話まで読み切ってしまいました! 最新作も好きですが、このお話も、やっぱり閼伽井さんらしさがあって好きでした。特に、最後のほうで主人公が窓を開けるところが良かったです! 救われた、とは違うのかもしれないんですが、少しだけ息を吸えたような気がしました。うまく言えなくてすみません。読めてよかったです』


 男は、画面を見つめた。


 窓を開ける場面は、息ができるようになった場面ではない。むしろその逆で、逃げ場がないことを知った人間が、それでも外気を入れるしかないという諦念の場面だった。救いでも、解放でもない。


 また、少しずれている。

 そう思っただけのはずだった。


 けれど、そこでようやく息がひとつ落ちた。


 梅ヒジキさんは、最終話まで読んだ。

 本当によく読んでくれる人だと思う。 


 最新作だけでなく、過去の作品まで手を伸ばし、時間をかけて最後まで辿ったうえで、またこうして言葉を届けてくれている。


 そのことが、今になって胸の奥に触れた。


 嬉しい、というには遅すぎて、ありがたい、というには乾きすぎていた。それでも、画面の向こうから差し出されているものが、自分の想像よりも温かいものなのではないかと、男は少しだけたじろいだ。


 返信欄を開く。


『梅ヒジキさん、いつもありがとうございます』


 そこまで打って、送るつもりだった指が止まる。


 いや。

 ありがとう――本当に、そうなのか。


 この人は、何をわかっているのだろう。

 どれだけ悩んで書いていたのかを知っているのか。

 どれだけ期待して、その数以上に砂を噛んできたことを知っているのか。

 コンテストに落ちたことを、知っているのか。

 もしかしたら、今しがた発表があったことさえ、梅ヒジキさんは知らないかもしれない。


 知らないまま、好きでした、と言う。

 読めてよかった、と言う。


 その無邪気さは、救いのような顔をしていた。

 だからこそ、男はそれを正面から受け取ることができなかった。


 返信欄に文字を置いたまま、男は梅ヒジキさんのプロフィールを開いた。

 以前見たときよりも作品は増えていたが、印象は変わらなかった。反応の少なさに反して、近況ノートはこまめに更新されていて、どれも朗らかで楽しげだった。

 ふと、外部SNSへのリンクがあることに気づき、男はそこへ飛んだ。


 梅ヒジキさんのSNSアカウントは、投稿サイトの名義と違い、『混ぜ込みごはん』となっていた。

 アイコンは、力の抜けるようなタッチで描かれた海苔おにぎりのイラスト。梅ひじきでも、混ぜ込みごはんでもない。

 年齢も性別もわからなかった。自己紹介文も短く『梅ヒジキという名前で好きなものを書いてます! 読むのも好きです』と、それだけ。


 男は梅ヒジキさんの投稿を遡った。

 すぐに、自分の作品の告知が出てきて驚いた。

 梅ヒジキさんは、男の投稿をリポストしていた。ひとつではない。最新話の告知も、過去作のものも、いくつも並んでいた。

 そのうえ、男のアカウントと直接紐付けないで書かれた感想まであった。


 『閼伽井さんの新作、空気がひりひりしていて好き』

 『この話、もっとたくさんの人に読んでほしい』

 『更新うれしい!! 今夜読むぞー!』


 男は、息を浅くした。

 

 自分の告知をリポストするのは、いつも相互の書き手たちだった。互いにそうするものだと思っていたから、それ以上、誰が流したのかを確かめもしなかった。


 今までもこのアイコンや名前は視界の端に入っていたのかもしれない。けれど、それが梅ヒジキさんだとは結びついていなかった。

 男は、梅ヒジキさんのSNSアカウントをフォローしていない。こうして見に来たのも初めてだった。


 それでも、この人はリポストをしていた。

 読んで、応援して、誰に求められたわけでもなく、男の作品を『もっとたくさんの人に読んでほしい』と言って。 

 男の知らないところで。

 男に見返りを求めるわけでもなく。


 この人は、本当に、ただ読んでいるのだ。

 男の作品を、男の作品として選び、読んでいる。


 『閼伽井さんの文章、うまく言えないけど、読み終わったあとの余韻が深い感じがする』

 『こういう話を書ける人、すごいな』

 『感想、ちゃんと書けるようになりたい。毎回好きですしか出てこなくて……語彙力が欲しい』


 男は、スマートフォンを持つ手に力を込めた。

 見えていたものだけではなかったのだ、と思った。


 コメント欄に置かれた少しずれた言葉の外側にも、梅ヒジキさんはこうして、男の作品に言葉を尽くしてくれていた。


 男が見ていなかっただけで。

 男が、数えなかっただけで。


 男の作品は、誰にも読まれなかったわけではなかった。


 しばらく、画面を閉じられなかった。


 どれくらいそうしていたのかさえわからない。


 どこか覚束ない指先が、そのとき、ふと癖で画面を下へ引いた。更新の輪が回り、数分前に投稿されたらしい言葉が上に増える。


 『コンテスト結果発表見ました。受賞者さまおめでとうございます! 特賞の作品、ずっと追っていたので嬉しい……! 主人公が自分の弱さを認めるところが本当に好きです。選ばれて納得です、読んできてよかった!』


 ――ああ。ああ。


 頭に血が上ったのか、

 頭が冷えていったのかはわからない。


 何度か、その文章を目でなぞった。


 画面の中の梅ヒジキさんは、いつもの梅ヒジキさんだった。無邪気で、朗らかで、好きなものを好きと言う。

 少なくとも梅ヒジキさんの投稿欄には、男の作品も、受賞作も、どちらも好きなものとして並んでいた。


 男はSNSの画面を閉じた。


 投稿サイトに戻る。

 返信欄には、まだ送信前の「梅ヒジキさん、いつもありがとうございます」が残っていた。


 男はそれを一文字ずつ消した。

 まず、礼の言葉が消えた。

 次に、梅ヒジキさん、と──思えば初めて書いたその名前が消えた。


 今度は、梅ヒジキさんのコメントの横にあるメニューを開く。コメントを削除する、という文字を見つけて押した。

 一つ消すと、勢いがついた。

 過去作のコメント欄も開いていく。


 『この話も好きです』

 『ここが残りました』

 『うまく言えませんが、読めてよかったです!』

 『閼伽井さんらしくて最高でした』


 それらを、男はひとつずつ消していった。 


 最後にもう一度、梅ヒジキさんのSNSアカウントを表示し、ブロックした。


 これでいい。


 男はスマートフォンを伏せた。


 梅ヒジキさんは好意的だった。

 自分にも受賞者にも、そこに差をつけず、どちらも好きだと似た温度で言う。

 梅ヒジキさんは、なにも悪くない。


 けれど、自分と受賞者を分けたこの現実の差は、なんだ。


 誰にも読まれなかったから選ばれなかったのなら、まだ自分を逃がせた。

 けれど梅ヒジキさんの言葉が残っているかぎり、男は『誰にも読まれなかった』と嘆く権利すら取り上げられる気がした。


 読まれたうえで選ばれなかったのだとしたら。

 次に疑うべきものは、ひとつしかない。

 その可能性だけは、男にとってどうしようもなく耐え難かった。


 だから、そのままにはしておけなかった。


 コメント欄にも通知欄にも、余白が広がっている。

 的はずれな感想も、素直な応援の言葉も、もうなにも残っていない。見えなくなった。はじめからそこになかったかのように。




 ほどなくして、男はまた新作に取りかかった。今度こそは、とまた思った。

 それでも、ときおりスマートフォンに手が伸びた。通知欄を何度も開く。


 赤い印はない。

 梅ヒジキさんの名前も、出てこない。


 やがて、新しい作品を投稿するようになると、応援の印はいくつかついた。誰かに読まれた痕跡もあった。

 SNSに流した告知には、創作仲間から『相変わらず健筆ですね』と返信が来た。


 それだけ。


 コメントはなかった。


 梅ヒジキさんは、もう来ない。 


 男が望んだとおりに。


 それでも画面を更新する回数だけが増えた。

 空白のまま沈黙しているページを、何度も。


 胸の奥には、揮発したはずの言葉の跡だけが白くなって残っている。



 

 


 

 

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