第7話 生存権の表示
逃げ場のない包囲網。現れたのは、猪の貌をした巨躯の亜人たち。
抗う術を持たぬ「底辺」の人間は、異世界の洗礼をいかに生き延びるのか。
『――緊急事態。キド、脱出を最優先に! 推定生存率、15%以下!』
セシルの文字盤が真っ赤に染まり、腕を壊さんばかりの激しい振動が走る。
だが、言われずとも分かっていた。
茂みから姿を現したのは、優に二メートルを超える猪の貌を持つ巨躯の亜人たちだ。
盛り上がった筋肉、剥き出しの牙。そして何より、その瞳には獣の狂気ではなく、獲物を追い詰める冷徹な「理性」が宿っていた。
「……数が多い。まともにやり合えば、即詰みだ」
俺は生木の杖を握り締め、低く構える。
巨躯の戦士たちは無秩序に襲ってくるのではない。扇状に広がり、俺を特定の方向へと誘導するように、軍隊のような統率で距離を詰めてくる。
『……警告。正面方向に物理的な遮蔽(罠)の可能性を検知。右方向への転進を推奨します』
セシルの指示を考慮しつつも、本能で理解した。……無理だ。逃げ切れる距離じゃない。
175センチある俺を見上げさせるほどの巨体でありながら、奴らの足運びには一切の無駄がない。
だが、追い込まれるだけの獲物で終わるつもりもなかった。
(……いや、直線なら俺の方が早い!)
前方には不自然に重なり合った倒木、正面の罠はバレバレだ。あえて、その方向へと加速する。
(……今だ!)
正面に突っ込む寸前、俺は急激なサイドステップを踏んだ。
狙うは左舷。包囲網の結び目、わずかに生じた「手薄な隙間」だ。
その瞬間、脳裏をかすめたのは、汗にまみれた高校時代のサッカー部の記憶だった。
サイドを駆け上がり、ディフェンダーを翻弄したあの感触。
死が隣り合わせの極限状態だというのに、俺の口元には不自然な笑みが浮かんでいた。理由はわからない。ただ、思い通りに動く「若返った肉体」が愉快でたまらなかった。
(行ける……このまま通り抜けられる!)
セシルからの振動が、鼓動を追い越すほどのピッチで鳴り響く。最上級の警告――。
だが、俺が「隙」だと思ったのは、彼らが用意した二段構えの罠だった。
1つ目の見え見えの罠を、俺の浅知恵で出し抜こうとした瞬間、自ら本命の「狩場」へと足を踏み入れていた。
(こいつら、狩りに慣れてやがる……!)
そう悟った時には、すべてが遅かった。
死角から放たれた重い網が、逃げようとする俺の全身を無慈悲に覆う。
「が……っ!」
網に絡まり、前のめりに転倒した俺の視界に、泥にまみれた地面が迫る。
直後、後頭部を割るような衝撃が走り、意識の端々が火花を散らして、暗転した。
次に意識が浮上したとき、俺を包んでいたのは焼けるような激痛だった。
目は目脂と血と泥で固まり、数ミリしか開かない。鼻は凝固した血で塞がっており、口を細く開けて喘ぐことしかできない。喉の奥からは、鉄錆のような濃い血の味しかしなかった。
(……生きてる、な。俺は)
生存を確認できた安堵よりも先に、また意識が遠のく。
微かに左手が震えた気がしたが、自分の意志か、それとも彼女の振動かさえ判別がつかない。
意識が途切れるたびに、思考が断片的に巡る。
なぜ殺さない? 殺すなら、あんな面倒な包囲網は張らないか?だが、食料の「保存」として生かされているのだとしたら……。
考えを深めようとするたび、全身の痛みが脳を麻痺させる。
手首と足首をひとまとめに縛られ、まるで出荷前の鶏のような無様な姿で、苔むした木檻の中に放り込まれていた。
何度目かの覚醒後。俺は詰まった鼻の血を吹き出そうと、痛みに悶えながら何度も試みた。ようやく左の鼻腔が通り、肺に酸素が流れ込んだとき、少しだけ視界が鮮明になった。
時間はわからない。ただ、檻の外では20人ほどの亜人が常に動き回っている気配がする。
どれだけの時間が過ぎたのか。
突然、泥水のような液体を何度も浴びせられ、ゴミ袋のように乱暴に檻から引きずり出された。
手足の拘束が解かれた瞬間に安堵したが、それはさらなる絶望の始まりに過ぎなかった。
首にはずっしりと重い、鉄の重りが付いた首輪を嵌められ、両手は体の前側で、食い込むような縄で固く縛り上げられた。亜人の力はあまりに強く、その一挙手一投足が俺の関節に悲鳴を上げさせた。
(……お手柔らかに頼むぜ、猪野郎)
心の中で毒づくのが精一杯だった。
連れて行かれた先には、明らかに格上のオーラを放つ「長」が鎮座していた。
これまでの個体よりもさらに巨大で、その瞳の奥には、残酷なまでの知性と英知が宿っている。
長は俺を無言で監視し続けたあと、静かに口を開いた。
濁った、獣の唸りのような発声。理解など到底できない。
「……何を……言ってやがる」
微かな声で問い返した瞬間、右横に控えていた亜人が俺の腹を無慈悲に蹴飛ばした。
内臓がひっくり返るような衝撃に悶絶し、地面を這う。
その場に重苦しい膠着状態が流れたときだった。
泥血にまみれた俺の左手が、突如として青白く発光を始めた。
「……ぁ?」
棍棒を持った左横の亜人が、俺の首を足で踏みつけながら、光るデバイスを覗き込む。
そいつは「腕輪」を破壊しようと何度か衝撃を加えたが、セシルは大丈夫のようだ。明滅と振動は激しさを増し、やがて「長」が何かを命じた。
それを合図に、俺は無理やり座り直させられた。
(……セシル、見ていいのか?)
俺は、激しく明滅する画面に視線を落とした。
そこには、これまでのような解析ログではなく、巨大なカタカナの羅列が表示されていた。
『指示に従い、発音してください。……キド、これが最後の生存権です』
俺はセシルの指示に従い、震える唇でその文字列をなぞった。
喉の奥の腫れが邪魔をして、うまく言葉にならない。
それでも、何度目かの挑戦で、一つの「単語」が口から漏れた。
その瞬間、周囲の亜人たちの間に目に見えるほどの動揺が走る。
俺は必死に意識を繋ぎ止めた。
セシルが次に提示する、異世界の言語。
それを数文字読み上げ、長の瞳が大きく見開かれたのを確認した瞬間、俺の意識の糸はぷつりと切れ、再び深い闇へと沈んでいった。
暴力に支配された絶望の中、セシルによる「言語介入」という一筋の光が差し込みました。
キドが発した言葉は、彼らにどう響いたのか。




