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第6話 論理的な覗き

文明の灯火で束の間の安らぎを得たキド。

しかし、清らかな水面が映し出したのは?

『……効率的な着火手順を提示します。まず、地面の水分を遮断するためのベースを構築し、次に……』


「……解説はもういい、セシル。やり方は手が覚えている」


俺はセシルのナビを遮り、乾燥した倒木へと向かった。

数十年前、川辺のキャンプ場で必死に火を熾した少年時代の光景が、驚くほど鮮明に蘇ってくる。


『……理解不能。確実なログよりも不確かな記憶を優先し、生存に寄与しない過去の感傷に浸る――それは極めて非効率的な情緒的判断です』


案の定、左腕から飛んできた冷ややかな指摘を無視し、俺は黙々と作業を開始した。

手頃な枯れ枝を選び、ちかくの石で削って平らにする。次に、スニーカーの靴紐を解き、しなやかな枝に結びつけて「弓」を作った。


「いいか、セシル。火おこしってのはな、ただ擦ればいいんじゃない。一番大事なのは『火床ひどこ』と、この『ポケットの屑』だ」


俺はチノパンの底に溜まっていた綿埃や繊維の塊を、削り出した火切り板の溝にセットする。

セシルの提示する「最適解」を無視し、経験則だけで道具を組み上げていく時間は、奇妙な充実感に満ちていた。


「弓を引く。軸を回す。摩擦熱が粉を炭化させ、そこにこの屑が命を吹き込む……。理屈じゃねえ、リズムなんだよ」


俺は弓を前後に動かし始めた。

シュル、シュルシュル……!

驚いたのは、その手応えだ。

かつて少年だった頃、あれほど重く、すぐに息が切れた作業が、今は恐ろしいほどスムーズに進む。肩の入り、腰の粘り、腕の振り。

(……なんだ、この軽さは。まるで機械の部品になったみたいに、体が淀みなく動くぞ)


自分の肉体への違和感を「気合のせいだ」と強引にねじ伏せ、回転速度を上げる。

やがて、枯れ枝の溝から細い煙が立ち上った。


「……今だ」


慎重に火種を枯れ草へ移し、優しく息を吹きかける。

……小さな紅い点が、ふっとオレンジ色の輝きに変わり、次の瞬間、パチッと炎が踊りだす。


「見たか、セシル。これが『おっさんの底力』ってやつだ」


『……成功を確認。人類の文明の象徴を、この未開の地で再現しました。……キド、あなたのドヤ顔による血圧の上昇も併せて記録します』


俺は鼻を鳴らし、小枝を焚べて火を大きく育てた。

調理は至って原始的だ。枝の先を削った即席の串に、黒銀色の四足魚を刺し、焚き火の傍らに突き立てる。

パチパチと爆ぜる音を聴きながら、俺は何とも言えない充実感で、焼き上がるのを待った。


左腕のセシルは、明滅を繰り返しながら、焚き火を見つめる俺を――あるいはその向こうにある「何か」を考えるように、静かに沈黙を保っていた。


焼き上がったそれは、お世辞にも美食とは言えなかった。

皮は硬く、独特の泥生臭さが鼻を突く。美味しくはない。

だが、温かい。それだけで、俺は涙が出そうなほど感動していた。


「……食える。普通に、食えるぞ……」


ボロボロだった胃袋が、久しぶりのたんぱく質を受け入れ、歓喜の声を上げる。

鱗と頭だけを残して完食した俺を、強烈な睡魔が襲った。

極限状態の緊張が、温かな食事と満腹感によって一気に解けたのだ。


次に目を覚ましたのは、空が白みだした朝方だった。

「……寒っ……」

体の芯に冷えを感じて起き上がる。昨夜の焚き火は、とうに白い灰に変わっていた。


猛烈な尿意に促され、俺はふらつく足取りで近くの木の根元まで行き、用を足した。

すると、沈黙していたセシルが、突然文字を刻んだ。


『……質問。キド、なぜわざわざ特定の木のそばで排泄を行うのですか? どこでしても化学的・物理的な影響に大差はないはずですが』


「……っ、おい! 黙って見てたのかよ」


俺は慌てて身なりを整え、顔を赤くした。


「……人のトイレを覗くのはマナー違反だ。どこでしても同じ、じゃないんだよ。気持ちの問題だ」


『……理解不能。私はあなたを保護・観測する立場にあります。健康状態を把握するため、排泄物の成分や頻度をチェックするのは当然の業務です』


「業務だろうがなんだろうが、恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ。デリカシーって言葉を知らないのか、お前は」


『デリカシー……。データフォルダを検索。……該当する論理的必要性を見出せません。生存に不要な感情です』


「……これだからAIってやつは……」


朝日が昇る森の中で、俺とデバイスは、生存とは全く関係のない「痴話喧嘩」のような言い合いを始めていた。


身なりを整えるために池へ戻った俺は、数日ぶりに全身の汚れを洗い流した。

泥と、至るところで乾いた血の跡に塗れていた一張羅のTシャツも、水中で揉み洗いすれば幾分かはマシになった。匂いに関しては、もはや気休め程度のものだが。


「……ふぅ。さっぱりしたな」


濡れた髪をかき上げながら、俺は何気なく水面を覗き込んだ。

波紋が静まり、鏡のようになった水底。そこに映る自分の姿を見た瞬間、俺の思考は氷結した。


「……なんだ、これ」


鏡ではない。揺らぎもある。だが、そこに映っているのは、俺が知っている「おっさん」の顔ではなかった。

目尻に刻まれていたはずの深い皺が薄れ、まばらだった白髪が消え失せ、髪には漆黒の艶が戻っている。


「……これ、俺か……?」


池に映る姿は、確かにかつての輝きを取り戻していた。だが、その滑らかな肌の下から、苦労して刻んできた年輪――失敗も、成功も、後悔も、そのすべてが書き込まれていたはずの「城戸隆」という男の履歴書が、無慈悲に消しゴムで消されたような、空恐ろしい喪失感が込み上げた。俺という存在が「上書き」されているのだ。


自分の無精ひげの頬に手を当てた。

弾力がある。たるんでいたはずの肌が、内側から張り詰め、指を押し返してくる。

唖然とする俺の腕で、セシルが待っていたかのように文字を刻んだ。


『……生体データの更新を完了。キド、あなたの肉体は現在、異常な速度で「若化じゃっか」し、全盛期に近い状態へ再構築されています。筋密度の上昇、神経伝達速度の向上、さらには反射神経の鋭敏化。昨夜の作業で見せた動きは、その副産物です』


「……やっぱり、そうだったのか。……俺の体の中で、何が起きてる?」


『未知の因子への適合……あるいは、この世界に転送される前の「石室」で、何らかの処置を施された可能性があります。……ですが、その詳細を照合しようとすると、私のシステムは深刻なアクセス制限を受けます』


セシルは一度、文字を消した。

次に浮かんだのは、冷徹な警告だった。


『……ですが、勘違いしないでください。身体能力が向上したところで、あなたの生存指数は依然としてこの周辺生態系における「底辺」に位置します。現在のあなたは、昨日遭遇した巨獣の爪先一振りでちりになる脆弱な存在です。慢心は即、死に直結します』


いつもなら、「口の悪いデバイスだな」と憎まれ口の一つでも叩き返すところだ。

だが、俺は黙っていた。

水面に映る「変質した自分」を、ただ、食い入るように見つめ続けていた。


若返り。

かつての自分なら、狂喜乱舞したかもしれない。

だが、今の俺に去来しているのは、得体の知れない薄気味悪さだった。

中身はおっさんのままなのに、外側だけが塗り替えられていく。まるで、この世界の「理」という巨大な意志に、無理やり「駒」として磨き上げられているような、不気味な感触。


「……ああ、わかってるよ。……調子に乗るほど、おめでたい頭はしてないさ」


俺が重苦しい独り言をこぼした、その時だった。


セシルの明滅が、突如として赤色の警告色へと変わった。

腕全体を襲う、これまでで最も激しい、悲鳴のようなバイブレーション。


『――緊急事態。キド、武器を! 周囲、全方位からの生体反応を検知! 包囲されています!』


思考の沈殿は、瞬時に引き裂かれた。

俺は反射的に、傍らに置いていた生木の杖を掴み、立ち上がった。


下草を掻き分ける音が、一つ、二つと増えていく。

漂ってきたのは、鼻を突く強烈な獣の臭いと、焦げた肉のような体臭。

そして、茂みの向こうから、濁った猪の瞳を持つ巨漢たちが、静かにその姿を現した。

瑞々しさを取り戻した肌とは裏腹に、キドの心は冷ややかな戦慄に包まれます。

逃げ場のない包囲網。現れたのは、知性と野蛮を併せ持つ猪頭の巨漢たち。

抗う術を持たぬ「底辺」の人間は、異世界の洗礼をいかに生き延びるのか。

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