第5話 有能OSと肉体センサー
巨獣の咆哮が去り、森に不気味な静寂が戻る。
巨獣の咆哮が遠ざかり、森に不気味な静寂が戻っても、警戒心は解けなかった。太い幹に手をついたまま、荒い息を整える。
「……セシル。あれがこの世界の『日常』なのか?」
左腕の文字盤が、冷徹な現実を刻む。
『……肯定。捕食者と被食者の力関係において、現時点のキドは最下層に位置します。……生存率を上げるためには、まず肉体の出力を維持するエネルギー――「食」の確保が最優先課題です』
森の重い香りが立ち込め、日差しは柔らかい。だが、その穏やかさはかえって、いつどこから「死」が飛び出してくるか分からない不安を増長させた。
少し歩き、ようやく安全そうな場所まで出たところで足を止める。頭の隅に引っかかっていた疑問が溢れ出た。
「……待てよ。……なあセシル、今さらだけどよ」
左腕をまじまじと見つめる。
「さっきから当たり前みたいに感覚を共有してるけど、一体どういう仕組みなんだ? あの警告だって……。俺より先に分かってたよな?」
唐突な問いに、セシルの文字盤が、肩をすくめるような間を置いてから光を放った。
『……キド、私はあなたの神経系と直接リンクすることで、すべての感覚データを「あなたの脳が認識する前」の段階で、いわば横取りして解析しているんです』
「脳が認識する前? なんだそりゃ」
『効率の問題ですよ。人間の脳は、生存に不要だと勝手に判断した情報を、無意識のうちに大量に捨てています。あなたは「何も起きてない」と思っていても、体内のセンサーはさまざまな予兆をしっかりキャッチしているんです』
セシルの文字は、どこか得意げに続いた。
『私は、あなたの脳が捨てたその「ゴミ」をすべて拾い上げて、リアルタイムで演算しています』
「……なるほどな。高性能なセンサー(俺)を、お節介なOS(お前)が使いこなしてるってわけか」
『……否定はしません。おまけに、あなたの神経が走らせる微細な電気信号……いわゆる「第六感」まで、私は計算のリソースに使っています。……キド、今の私は、あなた以上に「あなた」を感じている。……そう思ってもらって構いません』
まるで俺が寄生しているような、奇妙な嫉妬を感じる。釈然としないまま再び歩を進めた。
この森は、ただ進むことさえも試練だった。
人の背丈ほどもある草が視界を遮り、湿り気を帯びた土に下草を掻き分けるたび、執拗な蔓が足首に絡みつく。
「……くそ、まともな足場もありゃしない。適当な棒の一本くらい、落ちてないのかよ」
泥濘に足を取られそうになりながら、杖代わりになるものを求めて周囲を睨みつける。だが、落ちているのは腐りかけた枝ばかりで、体重を預けられる強靭なものは見当たらない。
ようやく目に入ったのは、しなやかに伸びる一本の若木だった。
迷わずその根元に足をかけ、全体重を乗せて強引に引き倒す。
メキメキッ、と生々しい破壊音が響く。
手に入れたのは、ずっしりと重い生木の杖だ。武器にもなりそうだ。
(……ん? よくこんな木を簡単に折れたな?)
肉体に対する奇妙な違和感がよぎったが、今は空腹が勝った。
「セシル、食い物を得るにはまず何をすればいい?」
セシルは軍事サバイバル・マニュアルに基づく「汎用エディブル・テスト」を提示した。皮膚の反応、試飲、そして微量の嚥下。
だが、現実は甘くない。
一時間後、湿った土の上に膝をつき、激しく胃液をぶちまけていた。
『バイタル低下を確認。肝臓の解毒負荷が限界値の80%に達しています。……キド、そのキノコは神経毒を含んでいたようです』
「……。……。……。」
これで三度目の失敗だ。だが、セシルは驚くべき分析を口にした。
『……あなたの肉体は、摂取するたびに「適応」を見せています。一般的な人間なら二度目の毒で心停止していたはずです。……キド、あなたの細胞は、未知のエネルギーを強引に分解し、自身の糧へと変換し始めています』
確かに、毒に悶えていても数分休めば立ち上がれるほどに回復が早い。
やがて足元の泥濘が消え、土壌が乾き始めた頃、不意に視界が開けた。
「……水だ」
そこには、森の停滞とは無縁の清冽な池が横たわっていた。岩の間から瑞々しい水が注ぎ込み、循環し続ける流水の池。その透明な輝きを目にした瞬間、ひりついていた喉が、歓喜を上げるように激しく鳴った。
駆け寄りたい衝動を抑え、目を凝らす。
水底の岩陰で、ゆらりと影が動いた。
魚のような鋭い鰭を持ちながら、トカゲのような四本の脚が突き出している。その体表は黒銀色に鈍く光り、流水の中で微かな燐光を放っていた。
「……植物よりはマシなはずだ」
杖を構え、獲物が浮上した瞬間――無意識に杖を振り抜いていた。自分でも驚くほど、鋭い踏み込みだった。
ボシュッ!
「……とったぁ!」
初めての狩りの成功。だが、根本的な問題に直面する。
「……さて。どうやって食う?」
セシルは乾燥した枯れ木を利用した摩擦発火を提案してきた。
「……いや、……。……思い出してきた」
脳裏に、数十年前の、煤けたキャンプ場の匂いが蘇る。
『火おこし』というワードが、遠い日の記憶に重なった。
失敗続きの毒見の果てに、ようやく手にした「獲物」。




