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第4話 洗礼

夜が明け、異世界の太陽が容赦なく地表を照らし始めます。

キドは、白日の下に晒された見知らぬ森で、生きるための根源的な問題――「食」と向き合うことになります。

キドの空腹。異世界の洗礼が、じわじわと彼の肉体を侵食し始めます。

夜の間に土が蓄えていた冷気は、太陽が顔を出すとともに、湿り気を帯びた白く重いもやを森の奥へと追いやっていった。


「……ふぅ。まだ朝のうちはマシだが、日が昇りきったら相当きそうだな」


岩場に背を預け、俺は大きく伸びをした。

喉が潤い、死の恐怖が遠のいた途端、腹の底から獣のような咆哮が上がった。

――猛烈な空腹だ。

昨日からまともに何も食べていない俺の体は、細胞の末端、ミトコンドリアの一粒一粒が悲鳴を上げてエネルギーを欲しているかのようだった。


「よし、セシル。まずは腹ごしらえだ。なにか食えそうなものを探しに行こう」


俺が立ち上がると、左腕の文字盤が静かに光を刻んだ。


『……待機を推奨。キド、移動の前に「水筒」の確保が先決です。昨夜の発光シダ、その残存個体を採取してください』


セシルの提案は、驚くほど慎重だった。

茎を折ると貴重な導管液が流れ出てしまうこと、そして今後この場所を離れる際、種を絶やさないよう「根から丁寧に掘り起こすべきだ」というのだ。


「持続可能性、か。異世界に来てまでエコを説かれるとはな」


俺は苦笑しながら、身支度を整えることにした。

滑落した際に袖が引き裂かれ、不恰好に垂れ下がっていたTシャツを、岩の鋭利な角を使って強引に切り落とし、ノースリーブにする。ボロボロだったチノパンも膝上で切り裂いてハーフパンツに仕立て直した。

仕上げに、そのチノパンの端切れを細長く裂き、額にキリリと巻き付ける。


「よし。これで少しは動きやすくなった。気合も入るしな」


満足げに頷く俺の腕で、セシルの文字が……これまでにないほど、ゆっくりとした速度で浮かび上がった。


『…………。』


数秒の沈黙。まるで、ジト目でこちらを観察しているような「間」だ。


『……抽出された「昭和」という概念に基づくファッション・スタイルを確認。……率直に申し上げます。非常に、古臭いです。その布を巻くことで戦闘力が上昇するという論理的根拠を提示してください』


「……うるさいよ。おっさんにはおっさんのスタイルがあるんだ。気分の問題だよ」


俺はわざとらしく視線を逸らし、セシルの指示通り、石を使ってシダを根から掘り起こした。泥を落とし、大事な「予備」を確保して、俺たちは深い森の奥へと足を踏み入れる。


ほどなくして、一本の奇妙な樹木が目に飛び込んできた。

そこには、まるで地球のリンゴをさらに赤く、宝石のように艶やかにしたような果実が実っていた。


「……お、おい。見ろよセシル。あんなに美味そうなのがなってる。あっちのシダが当たりだったんだ。これもきっと、森からの差し入れだろ」


俺の足取りは、いつの間にか軽くなっていた。

『……未知の植物の直接摂取は高リスクです。サンプルの微量分析を……』

セシルの警告が画面を流れるが、空腹で思考が半分麻痺した俺には、その文字がどこか過保護な親の小言のようにしか見えなかった。


「大丈夫だって。こんなに綺麗な色が毒なわけないだろ。第一、俺の勘が『食え』って言ってる」


俺は迷わずその果実をもぎ取ると、洗うのももどかしく、勢いよくかじりついた。


「……っ、あ……」


口の中に広がったのは、桃の芳醇さとリンゴの爽快感を凝縮したような、この世のものとは思えない甘美な味だった。

だが、悦びに浸れたのはわずか数秒だ。

飲み込んだ直後、喉の奥から這い上がってきた「氷のような冷気」が、瞬時に全身の神経をジャックした。


指先が震え、膝の力が抜ける。

視界が急激にセピア色へ染まり、俺はなす術もなく湿った土の上へと崩れ落ちた。


「……せ、セシル……なんだ、これ……」


声が出ない。舌が重い鉛に変わったようだ。

俺の焦りとは対照的に、左腕の文字盤は一瞬、冷ややかな沈黙を保った。


『…………。』


だが、俺が地面に顔を打ちつける直前、左腕に異様な衝撃が走った。

――震動バイブだ。

スマホのそれとは比較にならない、骨を直接叩くような激しいバイブレーション。言葉を持たないセシルが、俺の意識を繋ぎ止めるために繰り出した、肉体への直接的な「叫び」だった。


その震動に呼応するように、セシルの文字がこれまでにない速度で画面を埋め尽くす。


『警告! 呼吸筋の麻痺まで残り120秒。無駄な発声はリソースの浪費です、黙りなさい!』


文字の勢いと腕の震えに圧倒され、俺は反射的に息を呑んだ。


『指示を上書きします。今すぐ、左手に持っている「発光シダの根」を口にねじ込みなさい。泥ごと、強引に咀嚼そしゃくして飲み込む。……早く! やりなさい、キド!』


セシルの文字は、生存のための絶対的な強制命令と化していた。

俺は動かない腕を呪いながら、泥のついたシダの根を無理やり口に押し込んだ。

猛烈な苦みと、土の生臭さ。だが、それを飲み込んだ瞬間、胃の底から焼け付くような劇薬が全身へ逆流し、神経を縛っていた氷の鎖を強引に粉砕していった。


数分後。俺は激しくせき込み、胃液を吐き出しながら、なんとか地面を這い上がった。


「……死ぬかと、思った……」


ようやく戻った感覚。俺がふらつく手で汗を拭うと、デバイスの文字はいつもの、だがどこか突き放すような速度に戻っていた。


『正確には、私の介入がなければサバイバルはここで終了していました。……キド、あなたの端末にある「アダムとイブ」というデータを確認しましたが、どうやらあなたが食べたのは「知恵の実」ではなく、ただの「愚者の実」だったようですね』


セシルの辛辣な文字が、今は不思議と心地よく、そして何より信頼できるものに感じられた。


「……返す言葉もないよ。……恩に着る、セシル」


ようやく呼吸が整い、俺が汚れを払って立ち上がろうとした、その時だった。


再び、左腕が短く、鋭く震えた。

「警戒しろ」――文字を読むまでもなく、セシルの切迫した意志が骨を叩く。


直後、背後の森で、空気を引き裂くようなエネルギーの爆発が起きた。

大木がへし折れる轟音と、大気を震わせる獣の咆哮。

俺とセシルは、反射的に太い幹の陰に身を隠し、呼吸さえも止めてその光景を覗き込んだ。


「……っ、なんだ……あれは」


視界の先、十数頭ほどの小さな、鹿に似たキョンのような動物の群れが、悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。

その群れを追い詰めているのは、毛のない巨大な熊、あるいは岩の塊のような四足歩行の異形だ。

足自体はそれほど速くは見えない。だが、その巨獣が口を大きく開いた瞬間、空間が陽炎のように歪んだ。


直後、巨獣の口元から物理法則を無視した「衝撃」が噴射され、逃げる群れの傍らにあった大樹を、紙細工のように粉砕した。

狩り――というには、あまりに一方的で暴力的な、未知のエネルギーの行使だった。


森を震わせる轟音に呼応するように、左腕のセシルが激しく、そして未知のデータへの渇望を示すように振動する。


「……おい、セシル。あれ……は? 」


デバイスの文字盤が、戸惑うように一瞬揺らいだ。

浮かび上がったのは、ノイズ混じりの、どこか震えるような文字列だった。


『……未知のエネルギー現象を確認。キド、あなたの視覚・聴覚情報の乱れから逆演算します。……これは、高密度の生体エネルギーの指向性放出。……そして……』


セシルの文字が、一度だけ止まる。

表示されたのは、これまでで最も冷たく、それでいてどこか「熱」を帯びた告白だった。


『……検索。照合。……エラー。ですが、私の……欠落しているログに、今目撃したエネルギー波形と極めて類似した記録が存在します。……私は、この「力」を、知っている……?』


その文字を読み終える間もなく、再び巨獣の咆哮が森を揺らした。

獲物を追い詰める衝撃波の余波が、じわじわと、だが確実に行き先を変え、俺たちの隠れている場所から遠ざかっていく。


『キド、静かに。……小声で囁くような、微細な震動をガイドにします。最小限の動きでこの場を離脱してください。……ここが地球ではないという仮説は、今、確定的な「現実」へと更新されました』


「……ああ、わかってるよ。……最悪のモーニングコールだな」


俺たちは原生林の暗がりへと身を沈めた。

斜陽に向かっていたはずの人生は、異世界の凄まじい咆哮によって、完全にその舵を奪われたのだ。

タイトル「陽下ようか」には、白光のもとで突きつけられる現実と、安堵が暗転する皮肉を込めました。


キドは、セシルの警告を道標として、未知の領域へ一歩を踏み出す。

人知を超えた「理」の顕現によって、もはや引き返せない段階へと突入しました。

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