第2話 生存確率は52%
目覚めた先は、もはや「日常」の欠片もない場所だった。
五感を刺す異世界の空気と、喉を焼く圧倒的な渇き。
極限状態に置かれたおっさんに、左腕の相棒は非情なまでの「正論」を突きつけます。
生きるために、何を飲み込み、何を差し出すのか。
おっさんの泥臭いサバイバル、その第一歩が始まります。
意識の浮上は、泥の底から這い上がるような鈍重さを伴っていた。
まぶたが重い。目を開けようとするだけで、眼球の裏側が焼けるように痛む。
どれほどの時間、眠り続けていたのだろうか。凄まじい倦怠感が全身を支配していた。
(……ここは、どこだ……?)
背中に感じるのは、ベッドのような柔らかな感触ではない。
ごつごつとした石の硬さと、湿り気を帯びた土の冷たさ。
俺はひび割れた唇を舌でなぞり、砂を噛んだような強烈な喉の渇きを自覚しながら、脂汗の浮いた体を引きずり起こした。
視界がゆっくりと焦点を結ぶ。
そこは家の寝室でも、裏庭でもない。混線した思考の隙間に、痛みと共に思い出した――あの遺跡の石室でもなかった。
周囲に広がるのは、見たこともない色彩のシダ植物が、呼吸をするように葉を揺らす静かな森。
見上げれば、木々の隙間から覗く空は暗く、風に揺れる葉音だけが響く。……夜だ。
だが、覚醒が進むにつれ、遮断されていた記憶が濁流となって脳内に逆流してきた。
崩落。暗闇の底。左腕に張り付いた、あの異物。
急激な現実の再構築に、胃の底が激しく跳ね上がった。
堪えきれない吐き気がせり上がり、俺は四つん這いになって地面に顔を伏せる。
「……っ、オェッ……!」
胃の中には何もなく、吐き出されたのは胃酸と混ざり合った、苦い黄色の胆汁だけだ。
焼けるような不快感と、鼻を突く酸臭が奥を突き、粘り気のある糸を引いて土を汚す。
「……ハァ、ハァ……っ」
自分の内側から出た醜悪な「現実」を、涙に濡れた眼で見つめるしかなかった。
口内に残る酸味を無理やり「嚥下」し、俺は震える左腕を、恐る恐る視界に入れた。
そこには、あの時と変わらぬ無機質な輝きを放つデバイスが、まるで最初から俺の体の一部であったかのように、静かに鎮座していた。
『――覚醒を確認。……ようこそ、新世界へ』
左腕のデバイスが、夜の闇の中で無機質に点滅する。
俺は、自分がこの得体の知れない「現実」を、一生かけて飲み込み続けなければならないのだと、直感的に悟った。
震える声で「……水」と呟くと、左腕のデバイスが微かな電子音とともに青白く発光し、無機質な文字列を刻み始めた。
『……要求内容:水(H₂O)を確認。個体の生存維持における最優先事項と定義します』
『警告:現在の生体数値より、重度の脱水症状を検知。損耗率は推定8%を超過。……早急な水分補給が推奨されます』
「……そんな理屈はいい。どこにあるんだよ。お前、そんだけ光ってるなら、周りくらい見えねえのか?」
俺の掠れた問いかけに、デバイスは一瞬の間を置いて、非情な回答を返した。
『否定。現時点において、外部環境の探査・スキャン機能は未開放です。地形データ、および光源情報の取得は不可能です。……よって、自力での索敵を命じます』
突き放すような回答の後に、追い打ちをかけるように補足知識が躍る。
『留意事項:流動性のない溜まり水は、細菌および寄生虫の温床である確率が92%です。摂取の際は煮沸または濾過を推奨します。……飲料に適さない液体を摂取した場合、内臓疾患による致死率が急上昇します』
「……ハッ、正論すぎて反吐が出るぜ」
俺は地面に手をつき、重い体を持ち上げた。
こいつは便利だが、決して「魔法の道具」じゃない。ただの、膨大な知識を持っただけの冷徹な計算機だ。
「……水の、入手方法を……教えろ」
掠れた声で問いかけると、デバイスが再び文字列を高速で刻み始めた。提示されたのは、河川の捜索、結露の回収、植物からの抽出、そして地面の掘削による蒸留……。
「ふざけるな! ビニールシートなんてあるわけねえだろ! 今の俺に、一番可能性が高いのはどれだ! 言え!」
俺が怒鳴りつけると、デバイスは一瞬だけ、思考を巡らせるように青い光を明滅させた。そして、感情の欠片もない正確な確率を網膜に刻みつける。
『……解析。現状の装備、および身体能力から算出した成功確率は以下の通りです』
『優先:植物からの水分抽出(成功率:52%)』
『リスク:未知の毒性によるアナフィラキシー、および臓器不全の発生率 48%』
5割弱という、絶妙に「やらざるを得ないが怖い」数字を出すことで、人間を無意識に追い詰めてくる。さらにAIは非情な補足を付け加えた。
『推奨。毒性のリスクを許容し、周辺の植生を順次「試食」してください』
「……試食だと? 毒で死ぬかもしれねえんだぞ」
『肯定。ですが、何もしなければ12時間以内に意識混濁、24時間以内に死亡率が98%に達します。……毒による即死か、渇きによる緩慢な死か。選択してください』
生存を目的としたAIにとって、死の種類は単なる選択肢の一つでしかない。人の命を、データを集めるための「試験紙」として扱っているような不気味さが肌を刺した。
夜の闇に浮かび上がる、そのシダ植物は異常だった。
葉の裏側がぼんやりと燐光を放ち、毒々しいほど鮮やかな紫色の斑点が浮き出ている。
「……これか? これを食えってのか」
俺の戦慄混じりの問いに、デバイスは待ってましたと言わぬばかりに文字を流した。
『対象:燐光性シダ類(仮称)を分析。……摂取における推奨事項:茎の基部を損壊させ、流出する導管液を直接採取してください。なお、吸引の際は「毒性テスト」を強く推奨します』
『リスク算定:急性経口毒性による心停止、消化器系への腐食的ダメージ等。……合計、約48%の確率で致命的な不利益を被る可能性があります』
「……半分近くが死に直結じゃねえか」
絶句する俺に対し、デバイスはさらに文字を刻む。その淡々とした表示は、まるで「お前にはこれしか道がないんだろ?」と嘲笑っているかのようだった。
『補足:残りの52%は、純粋な水分補給の成功を意味します。……生命維持を望むのであれば、コインの表が出ることに賭けるのが論理的です。さあ、試食を開始してください』
「……クソが。煽りやがって」
俺は意を決し、シダの茎の表面を爪で深く引き裂いた。
じわりと、透き通った乳白色の液体が溢れ出す。それは白樺や楓の樹液のようにさらさらとしていて、月光の下でどこか清涼な気配を纏っていた。
その一滴を、恐る恐る、震える舌の先にのせた。
(……来るか? 苦味、渋みか、痺れか、それとも激痛か……)
耳の奥で、ドクン、ドクンと自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
世界から音が消え、ただ一滴のしずくが神経を伝わっていく微かな感覚だけに、全ての意識が研ぎ澄まされた。
だが、脳に届いた信号は、予想していた「拒絶」ではなかった。
「…………え?」
思わず声が漏れた。
舌の上で弾けたのは、喉を焼く劇薬でも、不快な苦味でもない。
それは、スポーツ飲料をさらに澄ませ、高級な蜂蜜を一滴だけ垂らしたような、芳醇で暴力的なまでの「潤い」だった。
「……甘い。なんだこれ、めちゃくちゃ美味いぞ……!」
警戒心は、一瞬で快楽に塗りつぶされた。
俺はなりふり構わず茎に口を寄せ、溢れ出すその「甘露」を啜り上げた。
さらさらとした液体は、乾ききった食道を通って、砂漠に降る雨のように細胞の隅々まで染み渡っていく。
だが、夢中で啜る俺の視界の端で、デバイスはさらに一文を付け加えた。
『……味覚的報酬を確認。浸透圧は極めて高く、経口補水液としての理想的な数値を検出。……ただし、未知の生体活性成分による一時的な多幸感、および依存性の有無については、引き続きあなたの肉体をもって観測を継続します』
その警告さえも飲み込むように、未知の甘みに溺れていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
「水」という当たり前のものが、これほどまでに遠く、そして危険なものになるとは……。
異世界の洗礼とも言える「甘露」の味。それは救いなのか、それともAIが仕組んだ新たな観測の始まりなのか。
初めての執筆ゆえ、至らぬ点も多々あるかと思いますが、おじさんとAIの奇妙な旅を生温かい目で見守っていただければ幸いです。
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