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第9話:世界の天秤

 まぶたの裏側を、容赦のない朝の光が刺してくる。


 ――熱い。

 というか、眩しい。

 というか、首が、物理的にあり得ない角度で固まっていて猛烈に痛い。


 どうやら俺は、デスクに突っ伏したまま意識を飛ばしていたらしい。


 木の硬さが額に刻まれ、頬には重要書類の角が食い込んだ跡がついている。ブラック企業時代の会議室の長机で、納期当日の朝を迎えた時のあの絶望的な鈍痛を、まさか異世界に来てまで再現することになるとは。


 だが、一つだけ決定的に違うことがある。


 鼻を突くのは、加湿器の切れた淀んだ空気ではなく、挽きたてのコーヒーと焼きたてのパンの芳醇な香り。


 そして何より――ここには、俺を「歯車」ではなく「仲間」として扱う連中がいる。


「……ん」


 向かいの席で、モニカさんが微かな吐息を漏らして顔を上げた。


 眼鏡が少しずれている。いつもは隙のないブロンドのショートヘアが乱れて頬にかかっており、冷徹な事務官というよりは、試験勉強に破れた女子大生のような無防備さがあった。


 彼女は手探りで眼鏡を直し、中指でブリッジをクイと押し上げた。レンズの奥の瞳が、一瞬で解析モードへ切り替わる。


「……おはようございます、リクさん。徹夜明けの人間としては、その死んだ魚の目にさらに磨きがかかっていて、ある種の芸術性すら感じますね」


「おはようございます、モニカさん。……それは、最大級の賛辞と受け取っておきますよ」


「まさか。……。でも、あなたが三時間、瞬き一つせずに機械のような精密さで写経してくれたおかげで、ようやく一つの解が見えました」


 モニカさんが、徹夜の成果である書類束をトントンと机に揃えた。その拍子に、彼女の肩から厚手のストールが滑り落ちる。


「おはよう、二人とも。最高のパートナーシップね」


 扉の向こうから、艶のある声が響く。


 ヒルデさんが銀のトレイを手に、優雅な足取りで入ってきた。今の彼女は“武器商人の女王”ではなく、どこか柔らかい、団員を見守るような顔をしていた。


「団長。……おはようございます。私がいなくても組織が自立して回るよう、業務の自動化を何度も具申しているのですが」


「それは未来の目標ね。今はまだ、あなたのその知識と計算が、私たちの命綱なのよ」


 ヒルデさんは微笑みながら、机の上に置かれた戦力均衡計画書へ視線を落とした。


「結論を聞かせて、モニカ」


「はい」


 モニカさんは差し出されたコーヒーを一口啜り、プロの顔に戻った。


 彼女は机の上に、三つのパーツを並べた。

 一枚の広域地図。一冊の輸出台帳。そして、小さな木箱――アイリスが回収してきた、弾薬箱の破片だ。


「まず、この弾薬箱の刻印。帝国式ではありません。『ルズマール魔導国』の紋章です。最近はルズマールも帝国の技術を模倣し、独自の魔導銃器を量産しているようですね」


 刻印は嫌なほど整っていた。工場の規格品。殺すための“効率”が刻まれた、無機質な鉄の印。


「在庫の流れを追った結果、黄金の天秤商会が隠していた武器の多くは、密かにルズマールへ流入しています。目的は一つ、南への侵攻準備です」


「ルズマールが、軍拡を……?」


 ヒルデさんの問いに、モニカさんは冷徹に頷いた。


「ええ。魔導技術の進んだ砂漠の国家。そこに大量の兵器が流れ込むことで、天秤の針が大きく振れています。そして、その対角線上で最も追い詰められているのが――」


 彼女のペン先が、地図の南端を鋭く指した。


「隣接する『獣人連邦アルマラカン』。アイリスさんの故郷です」


 脳裏に、黒猫耳の少女が「だにゃ!」と笑う顔が浮かぶ。あの屈託のない笑顔の裏に、故郷が踏み潰されようとしている現実があるのか。


「ルズマールが武装を固めるほど、獣人たちは本能的な恐怖に駆られ、無理な武器購入に走ります。商会はそこにつけ込み、不安を燃料にして旧式を売りつける。……絵に描いたような、醜悪な『死の商人』のテンプレですね」


「恐怖が、一番のセールスポイントになるわけね」


 ヒルデさんが、窓の外――遠くの戦場を見るような瞳で呟いた。


「戦争が始まる直前が、一番儲かる。『買わなきゃ殺される』と思い込ませれば、石ころにだって金貨の山が積まれるわ。……均衡が崩れれば、あとは地獄へ転がり落ちるだけ」


 その言葉は、やけに現実味を帯びていた。


 前の世界でも同じだ。炎上しそうな案件ほど予算が付き、締切が早まり、人が磨り潰される。恐怖は人を動かし、金は恐怖を増幅する。


 ヒルデさんは、俺の方を射抜くように見た。


「リク。あなたの《マッピング》は地形を見る。でも――今必要なのは“世界の戦力バランス”を視ることよ。アルマラカンへ行くわ。武器商人として、私たちは『均衡』を売りに行きましょう」


「戦争の道具を、売りにいくんですか……?」


「いいえ、『平和』を売りに行くのよ。互いの戦力が拮抗し、一撃で相手を屠れないと悟らせれば、双方が『今戦えば共倒れになる』と理解する。それが一番現実的な抑止力よ」


 さらっと言うが、とんでもなく高度な綱渡りだ。だが、その危うさが頼もしいのも事実だった。


 教国みたいに「自分たちだけが神の正義だ」と叫ぶ無知よりも、汚濁を飲み込んだヒルデさんの現実主義の方が、俺にはずっと信頼できる。


「……問題は、人員よね」


 ヒルデさんが、少しだけ眉を寄せた。



 朝食の席は、嵐の前の静けさのような平和さに満ちていた。


 溶けたバターの匂い。こんがり焼けたトーストの香ばしさ。

 ルナリアは椅子に深く沈み、半分目を閉じたまま、まるで自動機械のようにパンを咀嚼している。もはや外界の情報をシャットアウトした省エネモードだ。


「……遠征……? やだ……重力……三倍。……身体が、石化してる。……私は今、置物。……動かすには、課金が必要……」


「重力ではありません。ただの怠惰です。いいからそのパンを飲み込んで起きてください」


 モニカさんが即座にツッコミを入れ、強めのコーヒーを差し出す。


 ルナリアは「……モニカ、厳しい。……鬼事務官。……パワハラ……」と呟きながら、ノロノロとカップを受け取った。


 アイリスは、椅子の背もたれに器用に乗り、尻尾をパタパタ揺らしながらスープを啜っていた。


「アルマラカン行くなら、アイリスが先に行って根回しするにゃ! あそこは部族間の争いも多いから、会えるヤツに会っておくにゃん! 猫のネットワークを舐めちゃダメだにゃ!」


「助かるわ、アイリス。……編成を伝えるわ。私、リク、ルナリア。アイリスは先行。リディアとモニカは拠点防衛よ」


 俺は思わず聞き返した。


「リディアさんも行かないんですか? 彼女の狙撃があれば、どんな局面でも心強いと思いますが」


「拠点が空くのは危険すぎます」


 モニカさんが事務的に、けれど断固として答えた。


「団長が動くなら、敵は必ずここを狙う。……リクさん、あなたはまだ、ヴァルキリアが“組織”だという実感が薄い。戦場は現場だけではありません。拠点の防衛こそが、勝利の基盤なのですよ」


 ブラック企業時代に叩き込まれたバックオフィスの重要性を説かれているようで、ぐうの音も出ない。


「懸念は、防御面ね」


 ヒルデさんが、紅茶のカップを揺らしながら言った。


「獣人の身体能力は、魔法による肉体強化で極限まで高められている。数で押し寄せられれば、銃火器だけでは捌ききれない。ルナリアの剣技は最強だけど、彼女は“一点突破”の矛であって、軍勢を押し留める“盾”じゃないわ」


「……盾……」


 ルナリアがぼんやりと呟く。


「……私、当たるの、大嫌い。……痛いのは、努力の次に、許せない。……。回避こそが、至高の芸術……」


「正面から獣人たちの突撃を受け止める、圧倒的な壁。……あの子がいればいいのだけれど」


 ヒルデさんが窓の外を仰ぎ、独り言のように呟いた、その時だった。


――バァァァンッ!!


 洋館の重厚な玄関扉が、物理的な衝撃で破壊されるんじゃないかという勢いで跳ね上がった。


「ただいま戻りました、ヒルデ団長!! 此度の遠征、このレイナ・ヴァン・アストレアが命に代えてもお守りいたします!!」


 眩いばかりの朝日を背負い、一人の女性がリビングへ踏み込んできた。


 縦に巻かれた輝く金髪、意志の強そうな碧眼。白い騎士風のタクティカルスーツに、分厚い防弾プレートを仕込んだ重装甲を纏っている。


 その背中には、明らかに人間が背負うには巨大すぎる、鋼鉄の盾が括り付けられていた。


「……でっか……。それ、戦車の装甲板じゃないですか?」


 俺の呟きに、その女騎士はにこりと微笑んだ。爽やかなのに、どこか熱を帯びた、危うい微笑みだ。


「新調しました、この盾。前回の任務の報酬で特注したんです。……最高ですよ、この重み。これなら、どんな過酷な一斉射撃に晒されても……っ」


 紹介されるまでもない。この圧倒的な、暑苦しいほどの存在感。

 

「お帰りなさい、レイナ。ちょうど良かったわ、あなたの出番よ」


 ヒルデさんが満足げに微笑む。一方でモニカさんは、パンをかじりながら淡々と、けれど冷ややかに言った。


「……最悪のタイミングで、これ以上ない最適解が帰ってきましたね」


「紹介するわ、リク。ヴァルキリアの副官であり、現場指揮官のレイナよ。彼女の守護は、かつて教国の聖騎士団すら絶望させたわ」


「初めまして、リク殿! あなたが噂の指揮官ですね! お会いできて光栄です、さあ、これから私を好きなようにコキ使ってください!」


 レイナさんは規律正しく俺に一礼した。鍛え上げられた豊満なプロポーションと、凛とした美しさ。

 ついにこの傭兵団にも、まともで格好いい「正義の騎士様」が来たんだと、俺は救われたような気持ちで感動していた。


 ……だが、その感動は、わずか十秒と持たなかった。


「……はぁ。見てください、団長。先日の小競り合いで傷ついた、この防弾プレートの痛み……」


 レイナさんは頬を赤らめ、ボロボロになった盾の凹みをうっとりと指でなぞりながら、震える声で呟いた。


「あぁ……激しい衝撃を思い出して、呼吸が乱れてしまいます…… 私を最前線に配置し、敵の全火力を一手に引き受けさせる……リク殿、あなたは私をどう料理するつもりですか……?」


「えっ、いや、俺はまだ何も言ってないですけど……」


「限界を超えた弾雨の中で、無茶な防御命令を下される……あぁ、想像しただけで、背筋がゾクゾクします。ふふ、次の戦場が楽しみですね……」


 俺は、無意識のうちに手に持っていたトーストを皿に落としていた。


 ……分かった。確信した。この人も、間違いなくこの「ヴァルキリア」の住人だ。

 まともなヤツなんて、ここには一人もいない!


「……。レイナ。……。うるさい。……。食事の邪魔。……不潔」


 ルナリアが半分目を閉じたまま、容赦なくフォークをレイナの太もも目掛けて放った。

 レイナさんはそれを「ふふっ、ご褒美ですか!」と嬉しそうに盾の端で弾き、ますます表情を緩めている。


「賑やかになったわね。……さあ、リク。準備はいいかしら?」


 ヒルデさんが立ち上がり、俺を真っ直ぐに見つめた。


「世界のバランスを整えにいきましょう」


「……。了解しました、団長。……。俺の《マッピング》で、一番効率的に、かつ一番『レイナさんが喜びそうな』激戦区を導き出しますよ」


 拠点の中に灯る青い点が増えている。バラバラだったピースが、最後に加わった「不滅の変態(盾)」によって、一つの巨大な軍事ユニットとして噛み合った。


 アルマラカンの荒野。

 そこが、俺たちの次なる戦場だ。


「出発よ。ヴァルキリア、前へ!」

挿絵(By みてみん)

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