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第8話:事務官の矜持

 硝煙と欲にまみれた自由都市サイカを離れ、俺たちの拠点――深い森に隠された石造りの洋館へと帰還した。


 魔導車の揺れからようやく解放されたというのに、俺の右腕にはリディアが、左肩にはルナリアが、強力な磁石に吸い寄せられる砂鉄のような勢いで密着している。


「……リクさん。そんなに困った顔をしないでください。私には、この玄関からリビングまでの三メートルですら、未知の樹海も同然。こうして服を掴んでいるのは、迷子を未然に防ぐための、論理的かつ不可欠な防衛策なのです」


「……。リク、重力、増してる。……階段、エベレスト級。……私の脚、もう、ストライキ。……運んで。……これ、団員としての、正当な、福利厚生」


 リディアは真顔で袖を握りしめ、ルナリアは俺の首に腕を回して完全にぶら下がっている。


 ……前の世界での「月二百時間の残業」が肉体的な拷問だとしたら、現在の状況は精神的な試練に近い。贅沢な悩みだとは分かっているが、俺の腰が物理的に悲鳴を上げる前にリビングの扉が見えた。


 だが、その扉の向こうから、不穏な「音」が漏れ聞こえてきた。


――カリカリカリカリカリッ!


 猛烈な勢いで羊皮紙を走る羽ペンの音。そして、全てを諦めたような深い、深すぎる溜息。


「……はぁ。休暇って、どこの国の神話でしたっけ。辞書から消し去りたい歴史的遺物ですね、本当に。仕事が……仕事が私の命を削りに来ている……」


 俺が重い扉を押し開けると、そこには書類の山に埋もれた一人の女性がいた。


 知的な眼鏡の奥に、ブロンドのショートヘア。タイトなインナーに少し大きめのジャケットを羽織ったその姿は、戦場よりも「都会のオフィス」が似合いそうな、清潔感と微かな色気を漂わせている。


「モニカ。共和国との折衝から帰ってたのね。助かったわ、あなたがいないと数字が踊りだして手が付けられないもの」


 ヒルデさんが優雅に声をかけると、モニカと呼ばれた彼女はようやく顔を上げた。眼鏡の奥のクールな瞳が、俺の姿をとらえる。


「……お帰りなさい、団長。私がいない間に、また厄介そうな『不確定要素』を拾ってきたようですね。……一見して、戦闘能力は微塵も感じられませんが」


「紹介するわ。私たちの新しい仲間、リクよ。リク、彼女はモニカ。ヴァルキリアの事務と交渉を一手に引き受けてくれている、我が団の誇る最高の管理事務官よ」


「どうも、リクです」


「……リク、ですか」


 モニカが眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げる。その瞬間、レンズの奥の瞳が魔導具の光を帯びて俺を射抜いた。


「……。随分と、酷使されてきた人の目ですね。魂の何割が摩耗して削れているのかしら。『死んだ魚』の方が、まだ活きが良いかもしれません。……ふん。まあ、無能ではなさそうですが、私の仕事を一ミリでも増やさないでくださいね? もし増やしたら、あなたの給与を事前承諾なしにゼロにしますから」


 初対面で給与差し押さえの予告。……怖すぎる。


 だが、前の世界で理不尽なデッドラインを突きつけてきた上司たちに比べれば、この毒舌もどこか「仕事への誠実さ」の裏返しに聞こえて、不思議と嫌な気はしなかった。



「さて。モニカ、仕事の話よ」


 ヒルデさんが、サイカで入手した『非合法兵器のリスト』をモニカのデスクに置いた。


 モニカは「……はぁ」と深く、優雅な溜息をつきながらも、そのリストに目を通した瞬間、完全にプロの顔になった。


「これは……黄金の天秤商会が抱えていた在庫ですね。中には帝国の旧式魔導銃まで含まれている。……かなりの量です。団長、これを使ってどうしろと?」


「今回の目的は『均衡バランス』よ」


 ヒルデさんは、壁に貼られた世界地図の一点を指差した。


「このリストの武器が特定の地域に流れれば、そこが突出した武力を持ち、近隣諸国との均衡が崩れて戦火が広がるわ。……モニカ。このリストから、想定される被害地域を導き出しなさい。そして、私たちが次に『武器を売るべき場所』を選定するのよ」


「……つまり、過剰な戦力を分散・中和させることで、大きな戦争が起きないように国家間の火力を調整しろ、ということですね」


 モニカは羽ペンを回し、やれやれといった様子で肩をすくめた。


「自分以外にできる人間がいないからって、丸投げもいいところです。……分かりましたよ。明日の日の出までに、どの国に何を流せば一番『平和』が保てるか、八通りのシミュレーションを作成します。……ああ、今夜も私の美容液が虚しく蒸発していく……」


 彼女はクールに悪態をつきながらも、既に膨大な資料と地図を突き合わせ、緻密な計算を開始していた。



 深夜。


 アイリスやルナリア、リディアがそれぞれの部屋へ戻っていく中、俺は一人、リビングに残っていた。

 デスクの上の魔導ランプが、モニカの知的な横顔を照らしている。


「……まだ何か御用ですか? 観察料を取りますよ、一分あたり銀貨三枚で。それとも、私の残業を笑いに来たのかしら」


「いや……手伝わせてくれないかと思って」


 モニカが驚いたように、少しだけ目を見開いて顔を上げた。


「手伝う? あなたに、世界の勢力図や兵器の弾道計算、有効射程の知識があるんですか?」


「いや、世界情勢はさっぱりだ。……でも、単純な文字の書き写しや、データの仕分け、情報のソートなら手伝える。……これくらい、前の職場に比べればティータイムのようなものだから」


 俺は空いている椅子を引き、彼女の隣に座った。

 モニカは呆れたように肩をすくめたが、「勝手にしなさい」と資料の半分を俺に回した。


 それから、沈黙の時間だけが流れた。

 俺にはこの世界の詳しい軍事情事などは分からない。だが、膨大な情報を整理し、優先順位をつけ、一つずつ仕分けしていく作業には、身体が、魂が慣れきっていた。

 

 一時間。

 二時間。

 

 一言も発さず、ただ機械的な精密さで羊皮紙を整理し、清書していく俺の横で、モニカのペンが止まった。


「……。あなた、本当に人間ですか?」


「え?」


「もう三時間、姿勢一つ崩さず、瞬きすら惜しむように作業を続けています。普通なら肩が凝っただの、眠いだの、報酬の上乗せだのと言い出す頃合いですよ。……まるで、感情を殺して動く精密ゴーレムのよう」


 眼鏡を指で押し直し、モニカが冷静な分析をするように俺を見つめる。


「……昔いた場所では、これくらい当たり前だったんだ。……終わるまで帰れない、終わっても帰れない。納期直前は、寝るという概念が都市伝説になる。そんな日々を過ごしてると、根性じゃなくて感覚が『麻痺』してくるんだよ」


「……。以前の職場環境が、地獄そのものであったことが容易に想像できますね。……ふん、同情はしませんよ。私だって似たようなものですから。……少し、休みましょう。このままでは物理的体力よりも先に、精神の魔導回路がオーバーヒートしそうです」



 モニカが淹れてくれた、苦味の強いコーヒーの香りが深夜のリビングを満たしていく。

 湯気の向こう側で、彼女は眼鏡を外し、目元を優雅な指の動きで押さえた。


「モニカさんは、なんでヴァルキリアにいるんだ? 仕事、これじゃあ前世の俺と変わらないくらい大変そうだけど……」


「……私は、かつて『冒険者ギルド』の受付嬢でした」


 ぽつりと、彼女が普段のクールな口調とは違う、アンニュイな弱音を漏らした。


「銃火器が普及し、魔法や剣を使う冒険者が時代遅れになっていく中……私はただ、窓口でギルドが廃れていくのを、無力感と共に眺めていることしかできなかった。……結局、私がいた支部は閉鎖されました。私は、時代の流れに対して、何も止められなかったんです」


 コーヒーを啜る彼女の指先が、わずかに震えているように見えた。


「今の仕事も、結局は裏方です。戦場で派手に立ち回る団長たちと違って、私はただ紙とペンを動かして、数字という名の虚像を弄んでいるだけ。……時々、自分が時代の遺物に、必死にしがみついているだけなんじゃないかって……虚しく思うことがあるんですよ」


 俺は温かいカップを握りしめ、彼女の寂しげな横顔をじっと見た。

 

「……モニカさん。役者は、舞台が整っていなければただの観客なんだよ」


「……え?」


「ルナリアたちが最強でいられるのも、ヒルデさんが優雅に笑っていられるのも、モニカさんが裏で数字を合わせ、弾薬の在庫を管理し、世界の均衡を保っているからだ。……あなたが今やっていることは、戦争という火が世界に燃え広がるのを、紙とペン一枚で、最前線で食い止めている。……俺から見れば、あなたは誰よりも勇敢に戦っている、ヴァルキリアの騎士ですよ」


 モニカは一瞬だけ目を見開き、それからフッと自嘲気味に、けれど柔らかく笑って眼鏡をかけ直した。


「……。おべっかだけは、一流みたいですね。……死んだ魚の目のくせに、口だけは回るなんて。……さあ、続きをやりますよ。……あなたがいてくれたおかげで、定時……には程遠いですが、夜明け前には全工程を完了できそうです」



 翌朝。


 窓から差し込む眩しい朝日が、リビングのデスクを照らしていた。

 そこには、完璧にまとめられた『戦力均衡計画書』の束。

 そして、その横で。

 

 俺とモニカは、机に突っ伏したまま、共に深い眠りに落ちていた。


「あらあら……。二人とも、本当にお疲れ様」


 扉を開けたヒルデさんが、その光景を見て優しく、慈愛に満ちた表情で微笑む。

 彼女は自分の肩にかけていたストールをモニカに、そして近くにあった毛布を俺に、そっとかけた。


「最高のパートナーね、リク。……。さて、二人が起きたら、お礼に最高のご馳走を用意させなくちゃ」


 窓の外では、新しい一日が、希望を孕んで始まろうとしていた。

 俺の脳内のマップには、ここが俺の、そして彼女たちの『居場所』であることを示す光が、これまでになく強く灯っていた。

挿絵(By みてみん)

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