第6話:見えざる弾丸、重なる視線
黄金色に溶け始めたサイカの街並みが、一瞬にして凍りついた。
俺の脳内にある透過マップの端で、対面にあるビルの屋上――その遮蔽物の影に潜む『赤い点』が、こちらを捉えているのだ。
「伏せろ!」
思考より先に身体が動いていた。俺は隣にいたリディアの細い腰を強引に抱き寄せ、近くにある噴水の石造りの縁へと飛び込む。
直後、乾いた衝撃音が夕闇を切り裂いた。
パシィィィン!
石柱が派手に弾け、砕けた石礫が俺の頬をかすめる。遅れてやってきたのは、大気を熱で焦がすような死の突風だ。
消音された、魔導狙撃弾。コンマ数秒、俺の判断が遅れていたら、今ごろリディアの綺麗な髪は赤く染まっていただろう。
「……ッ、商会の刺客かにゃ!? せっかくのご飯タイムが台無しだにゃ!」
アイリスが低く身を構え、影に潜む獣のような鋭い視線を周囲に走らせる。その瞳は既に、獲物を狩る『捕食者』のそれに変わっていた。
「ああ、スナイパーが一人。……それだけじゃない。階段の下から五人、急速に接近中だ。……こっちの包囲網を完成させるつもりだぞ」
マップには、迷いなく最短距離でこちらを包囲しようとする赤い点が五つ、三次元グリッド上をうごめいていた。
先ほどまで「世界が私を拒絶している」なんて泣き言を言っていたリディアが、その瞬間、一変した。
彼女はトレンチコートの裾を翻し、背負っていた巨大な楽器ケースから、鈍い光を放つ長距離魔導ライフル『アステリズム』を抜き放つ。
その手つきは、恐ろしいほどに無駄がなく、冷徹な精密機械のようだった。
「……不作法な方々ですね。お茶の誘いなら、もう少し控えめにすべきです」
彼女の瞳から、完全に温度が消えていた。
毛先がブルーのショートヘアが、溢れ出した魔力によってわずかに浮き上がる。
迷子の面影はどこにもない。そこにいたのは、ただ静かに、確実に獲物の命を刈り取るために最適化された『死神』――エルフの狙撃手としての真の姿だった。
「リディアさん、あちらのスナイパーの位置は把握した。だが、ここは遮蔽物が多すぎて射線が通らないだろ?」
「ええ。ですが、リクさんがいれば……道は作れるのでしょう?」
彼女の問いに、俺は口角を吊り上げた。
「……ああ。お望み通り、死神専用の特等席へ案内してやるよ。アイリス! 階段から上がってくる五人は任せていいか?」
「お安いご用だにゃ! 旦那、ターゲットの背中を見せるタイミングを教えてにゃん!」
「よし……。三時の方向、二つ目の柱の影に一人。……三、二、一……今だ!」
俺の合図と同時に、アイリスが弾かれた。
影から影へと跳ぶような、音もなくしなやかな歩法。彼女は柱から飛び出した私兵の死角を、まるで最初からそこに穴があると知っていたかのように回り込む。
「旦那に近づく悪いネズミは、尻尾の先まで刻んであげるにゃ!」
闇に響くのは、極小の消音銃声と、ナイフの閃光。
俺はマップを全開にし、敵の情報をアイリスにリアルタイムで共有する。
「アイリス、そのまま左に九十度ターン! 死角からもう一人来る! ……リディアさんは俺と一緒に来てくれ。あいつを一方的に殺せるポイントへ案内する!」
俺はリディアの手を強く握り、噴水の影から駆け出した。
脳内のマップには、敵スナイパーの銃口が向いている死線が、赤いレーザーのように可視化されている。
「リク、あちらは次の弾をそろそろ撃ってくるころです。私の魔導感応が警告しています」
「分かってる。……三歩、右へ! 今、伏せろ!」
指示通りにリディアが身体を沈めた瞬間、彼女の頭上があった空間を二発目の弾丸が通り過ぎ、背後の壁に大きな風穴を開けた。
俺たちは敵の射線の隙間を縫うように、まるでダンスを踊るかのように走り、時計塔の最上階テラス、その崩れた外壁の裂け目へと滑り込んだ。
「ここなら通る。……リディア、やれるか?」
「風は読みました。……ですが、あちらは広告看板の裏に隠れていますね。物理弾では貫通しても威力が減衰します。……では、少し妖精の力を借りましょうか」
リディアがライフルをバイポッドで固定し、スコープを覗き込む。
俺は彼女の背後からその細い身体を支え、マップ上の座標データを、魔導通信を介して彼女の意識に叩き込むように囁いた。
「座標修正、プラス〇・〇二。仰角マイナス一。……頼むぞ、リディア」
リディアが指先を弾丸に添える。青い魔力の輝きが銃身を走り、周囲の空気がオゾン臭を伴ってピリピリと震え始めた。
妖精魔法――《アエロ・マニピュレート》。
「チェックメイトです。……安らかに、お休みなさい」
引き金が引かれた。
――その瞬間、世界はスローモーションへと切り替わった。
銃口から放たれたのは、青い残光を曳く一条の閃光。
弾丸は空気を切り裂き、夕闇の中に美しく輝く直線を引く。だが、その弾道は物理法則をあざ笑うかのように、空中で急激に変節した。
見えない妖精の指先に導かれるように、弾丸はビルの谷間を優雅に旋回。看板の端を回避するようにあり得ない角度で曲がった弾丸は、勝利を確信して潜んでいた狙撃手の『驚愕に満ちた瞳』を、一瞬の慈悲もなく貫いた。
……マップ上の赤い点が、霧が晴れるようにプツリと消滅した。
ふぅ、と。
リディアが熱を帯びた吐息を漏らし、ライフルの銃口から立ち上る硝煙を静かに見つめる。
「……リク。……あなたが、私の目を開いてくれました。あなたの指し示す『真実』のルートがあったから、私は迷わずに風を撃ち抜けました。……感謝します」
彼女が振り返る。
そこには、先ほどまでの冷徹な死神の姿はなく、ただ自分を理解してくれるパートナーを見つけたような、どこか熱っぽい安堵を宿したエルフの少女がいた。
「……ああ。最高のショットだったよ、リディア」
「旦那ぁ! こっちも片付いたにゃ! アイリスの活躍、ちゃんと見てたかにゃ!?」
返り血一つ浴びていない、いつもの天真爛漫な笑顔でアイリスが戻ってくる。
俺は二人の肩を軽く叩き、ようやく深く溜まっていた息を吐き出した。
「……ああ、二人とも完璧だった。……さて、ヒルデさんとルナリアが首を長くしてお土産を待ってる。……街で一番の高級プリンを買いに行こうか。三つ……いや、五つくらいは必要そうだな。ルナリアは一個じゃ足りないだろうし」
俺がそう言うと、リディアは一瞬だけ誇らしげに胸を張ったが、数歩歩いたところでピタリと足を止めた。
そして、おそるおそる俺の方を向き、震える指先で反対方向を指差した。
「……リク、さん。……出口は、どちらでしょうか。世界がまた、私を惑わそうとしています。……あの、噴水が、さっきから私をバカにしているような気がして……」
ぎゅ、と。
彼女は俺の服の裾を、今度は絶対に離さないと決めたように強く握りしめた。
(……さっきのカッコよさはどこへ行ったんだよ)
そのポンコツな可愛さに、俺は苦笑いしながら彼女の手を引く。
◇
宿『白銀亭』。
窓際でワインを揺らしながら、俺たちが戻るのを待っていたヒルデさんは、俺の顔を見るなり艶やかに微笑んだ。
「いい顔になったわね、リク。それにリディアを飼い慣らすなんて、思っていた以上の収穫だわ」
「……飼い慣らす、は語弊があると思いますが」
「いいのよ。……さあ、準備は整ったわ。商連合の連中に、『ヴァルキリア』を敵に回した代償を教えてあげましょうか。……リク、戦術目標の最終確認をお願いね」
ヒルデさんの言葉に、ルナリアが半分眠りながらも、俺の買ってきたプリンを無言で受け取ってスプーンを構える。
黄金色の夜が、今、静かに幕を開けようとしていた。
俺の二度目の人生――その『本格的な業務』は、どうやらここからが本番らしい。




