第4話:心臓が休まらない休息日
まどろみの中で、俺は不思議な温もりを感じていた。
背中に触れる、しなやかで柔らかな肉体の感触。
首筋をくすぐる、一定のリズムを刻む微かな吐息。
そして、鼻先を掠めるのは、清潔な石鹸の匂いと――日向に干した毛布のような、どこか懐かしい野生の香り。
(……なんだ? この、抗いがたい平和な重みは……。前世の安アパートの布団には、こんな多幸感は詰まっていなかったはずだが)
ブラック企業時代の俺なら、この瞬間に「遅刻!」と絶叫して心臓をバクつかせながら跳ね起きていただろう。アラームの電子音に怯え、半分意識が飛んだ状態でネクタイを締め、殺気立った満員電車へ飛び込む。それが俺の知っている「朝」の全てだった。
だが、今の俺は檻から救い出されたばかりの身だ。今日からは、あの忌々しいタイムカードともおさらば。俺は数秒の猶予を自分に許し、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界に入ってきたのは、真っ白なシーツの山からひょこんと突き出た、黒い三角形の塊。
それがぴくり、と震える。
直後、俺の脳内の《マッピング》が、かつてない至近距離で「青い点(友好対象)」を検知した。
「……ん、ふにゃぁ。……旦那、おはようにゃん」
布団の中から、金の瞳がとろんと俺を見上げていた。
アイリスだ。
昨夜、暗殺者を翻弄していたタクティカル・ボディースーツはどこへやら、今は自分のサイズより二回りは大きいだろうダボダボのシャツ一枚。裾から覗く太ももが眩しすぎて、俺の視神経は一瞬でオーバーロードを起こした。
彼女は俺の腕の中にすっぽりと収まり、あろうことか俺の胸板にすりすりと頬を寄せている。
「……ひ、ひぎゃあああああああ!?」
「あわわ!? 旦那、朝から元気すぎるにゃ! 心臓が工事現場のドリルみたいに鳴ってるにゃん!」
俺は音速でベッドから転げ落ちた。
床の冷たさが、これが白昼夢でも、ましてやブラック企業の過労が見せた末期の幻想でもないことを無慈悲に突きつけてくる。
「アイリス! なんで、なんでお前が俺の布団の中にいるんだよ!?」
「なんでって……昨日は急に冷え込んだからにゃ。猫は一番温かくて安全な場所を探す習性があるんだにゃん」
アイリスは大きな欠伸をしながら、俺がさっきまで使っていた枕を抱きしめて「ゴロゴロ」と満足そうに喉を鳴らした。
「ヒルデ団長の布団に入ると、寝ぼけた団長に『猫吸い』の刑に処されて二時間は解放されないし、ルナリアの部屋は……あそこはもはや物理的なゴミ溜めにゃ。歩く場所もないにゃん。だから消去法で、旦那のところが一番安全で、かつ適温だったにゃ。感謝してほしいにゃん」
「理由になってないから! 消去法で選ばれる男の身にもなってくれ! 俺は一応、中身は三十路を過ぎたおじさんなんだぞ!」
「旦那は旦那だにゃ。細かいことを気にする男はモテないにゃん」
アイリスは悪びれる様子もなくベッドから這い出すと、俺のシャツの裾をぐいぐいと掴んで「早く行くにゃ」と促してくる。
「ほら、そんなことよりお腹空いたにゃん。朝ごはん、アイリスはカリカリに焼いて塩気を効かせた厚切りベーコンがいいにゃ!」
……だめだ、この黒猫には「プライバシー」とか「男女の壁」という概念が致命的に欠落している。俺は沸騰しそうなほど真っ赤になった顔を隠すように、逃げるようにキッチンへと向かった。
◇
じゅわ、とベーコンの脂が弾ける快活な音が、静かな朝の館に響く。
キッチンに立ち、使い古されたエプロンを締めると、ようやく俺の荒ぶった心拍数が正常値へと戻り始めた。
(……落ち着け、俺。異世界生活二日目にして、女の子が布団に転がり込んでくるなんて、これはラノベなら一巻の山場だ。だが、現実はベーコンを焼かなきゃならない。社畜で鍛えたこの『適応力』が恨めしいな)
香ばしく焼けるトーストの香りと、挽きたてのコーヒーの匂い。
ダイニングテーブルには、既に正装を整えたヒルデさんが優雅に座り、新聞代わりの魔導端末に目を落としていた。
「おはよう、リク。昨夜はよく眠れたかしら?」
「……おかげさまで。主に、横からの不法侵入者のせいで寿命が三日は縮まりましたが」
「ふふ、アイリスに好かれるのはいいことよ。彼女は『自分にとって毒になるもの』には決して近づかないから。あなたは、彼女にとって『無害で居心地の良い場所』として認定されたということね」
ヒルデさんは茶目っ気たっぷりに微笑むと、俺が差し出したブラックコーヒーを一口啜り、ふぅと満足げな吐息を漏らした。一方で、もう一人の重要なメンバーがまだ姿を見せない。
「……ルナリアさんは?」
「まだ夢の中でしょうね。彼女、戦場という極限状態以外では、単に重力に従うだけの柔らかな肉塊になるのよ。リク、悪いけれど起こしてきてもらってもいいかしら?」
ヒルデさんに優雅なトーンで頼まれ、俺は溜息をつきながら廊下の奥にあるルナリアの部屋へと向かった。
ドアを三回ノックするが、返事はない。
「ルナリアさん、入るぞ?」
意を決してドアノブを回すと、そこはアイリスの言葉通りの『異界』だった。
脱ぎ散らかされたパジャマ、空の薬莢が床に転がり、机の上にはメンテナンス途中で放り出された銘刀が、窓から差し込む朝日に鋭い光を反射させている。その混沌とした海の中央、乱れたベッドの中に、水色の髪を扇のように散らしたルナリアが沈んでいた。
「ルナリアさん、朝だぞ。朝食の準備、できてるから」
返事はない。代わりに聞こえてきたのは、規則正しくも微弱な寝息だ。
俺はベッドの傍らに立ち、恐る恐る彼女の肩を揺らす。
「おーい、ルナリアさん。……起きてくれ」
パジャマの襟ぐりが大きく開き、透き通るような白い肌と、華奢な鎖骨のラインが露わになっていた。昨夜、あの暴力的なまでの抜刀を見せていた剣士と、この無防備な少女が同一人物だとは、脳が理解を拒否しそうになる。
「……んぅ。……リク? ……むり。……身体が、ベッドに接着されてる。……剥がれない」
ルナリアがようやく重い瞼を開いたが、その瞳には全く焦点が合っていない。彼女はパジャマが肩からずり落ちたまま、細い腕を幽霊のように俺の方へ力なく伸ばしてきた。
「……起こして。……私の魔導回路、エネルギー切れ。……リクが引っ張ってくれないと、このまま私は寝具の一部になる」
「はいはい。ほら、座れ。……うおっと」
俺が手を貸して彼女の身体を強引に引き起こすと、彼女はそのまま重力に抗うことなく、俺の胸元にコテンと頭を預けてきた。
ふわりと、寝起きの女の子特有の、甘く、少しだけ熱を帯びた匂いが鼻を突く。
「……リクの胸、変に硬くなくて安定感ある。……このまま、食卓まで運んで」
「そんなわけにいかないだろ! ほら、シャキッとして、着替えてダイニングに……」
「……めんどくさい。……リク、着替えさせて。……ボタン、外すのも、通すのも、もう一生分の気力を使わないと無理。……私の指、今はフォークを持つためにしか動かない設定になってる」
ルナリアはトロンとした、どこか熱を帯びた瞳で俺を見上げ、まるで甘える飼い猫のように俺の腕に絡みついてきた。
(……だめだ。この白くて柔らかい肌に、これ以上触れたら俺の理性がデバッガーも真っ青な速度でクラッシュする!)
三十路を過ぎた男の良心が、「これは事案だ。通報されるぞ」と脳内で最大級の警告音を鳴らし続けている。
こんなに綺麗な、まだ十代に見える少女を俺が着替えさせるなんて、前世なら即座に懲戒解雇。良くて実名報道。下手をすれば社会から抹殺だ。
「……ルナリア。着替えは後でいい。パジャマのままでも、髪がボサボサでもいいから。とりあえず、温かいうちにメシにしよう。な?」
「……わかった。……妥協する。……じゃあ、エスコートして。……足の神経が、まだ夢の中にいるみたいで動かない」
結局、俺はパジャマ姿で寝癖のひどい彼女の腰を支え、半ば引きずるような形で食卓へと連行する羽目になった。
ヒルデさんの「あらあら、仲が良いわね」という生温かい視線が、ベーコンの熱よりも痛かった。
◇
四人が揃った食卓。
ルナリアは半分眠りながらも、俺の焼いたトーストを正確に口に運び、アイリスは機嫌よさそうに尻尾を振りながら、ベーコンを「はふはふ」と頬張っている。
そんな、不釣り合いに平和な光景の中で、ヒルデさんが優雅にナプキンで口元を拭った。
「――さて。朝食のあとは、仕事の話をしましょうか」
その一言で、ダイニングの空気が一瞬にして物理的な質量を伴う重みに変わった。
アイリスの尻尾が止まり、ルナリアの瞳に冷徹な知性が戻る。
「昨日の襲撃……『黄金の天秤商会』の連中には、相応の挨拶を返さないといけないわ。私たちの商品を横取りしようとしただけでなく、この拠点を硝煙で汚したんですもの。武器商人として、『借り』を作ったままでは商売が成り立たないわ」
ヒルデさんの瞳に、美しくも冷徹な軍師としての光が宿る。
「目的地は、シンラク商連合の中でも最大の自由交易都市『サイカ』」
「サイカ……。世界の経済の心臓部だにゃん。警備も帝国並みに厳しいにゃ」
「ええ。あそこは建物が入り組んでいて、遮蔽物の塊よ。室内での遭遇戦になるわ。リク、あなたの《マッピング》による精密な誘導がなければ、ルナリアの剣もアイリスの潜入も、迷宮の中で空転することになるわ」
「了解です。……でも、俺たち三人だけで大丈夫ですか? 相手はシンラクの有力商会。私兵の数も相当なはずですが」
俺の至極真っ当な問いに、ヒルデさんは満足そうに微笑んだ。
「そうね。……サイカへ行くなら、ちょうどいいわ。あそこに『迷い込んでいる』はずの彼女を、ついでに回収しましょうか」
「彼女?」
首を傾げる俺に、アイリスがクスクスと笑いながら付け加えた。
「ヴァルキリアにはまだ、とびきりの変わり者がいるんだにゃ。エルフの精密狙撃手、リディアだにゃん」
「エルフの、狙撃手……」
「狙撃の腕前だけなら大陸一よ。……ただ、彼女には致命的な欠陥があるの。極度の『方向音痴』なのよ。三日前に『サイカの隣の街に着いた』って通信があったきり、ぷっつりと行方不明なのよね」
「……まさか。三日間、目的地を目の前にして迷ってるんですか?」
「エルフの時間感覚は人間とは著しくズレているからにゃ。彼女にとっては、ちょっと曲がる角を間違えて五分くらい寄り道してる感覚に違いないにゃん。……今頃は全然関係ない森の中で『おかしい……いつの間にか街が歩いて逃げた?』とか真顔で言ってそうだにゃ」
俺は脳内に広がる、半径数キロを完璧に捉えた透過マップを思い浮かべた。
地形を、敵の数を、そして味方の座標を寸分の狂いなく把握する、俺の力。
「……なるほど。目的地に辿り着けない最強の仲間のために、俺の『マッピング』がナビ代わりになるってわけか」
俺は少しだけ笑い、最後の一切れのトーストを口に運んだ。
「行きましょう。交易都市サイカへ」




