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第3話:黒猫の密偵

 鼻腔を突くのは、焦げ付いた火薬の刺激臭だ。


 それは一度染み付くと容易には取れず、消えることのない死の予感として、俺の意識の底をじわじわと逆撫でする。


 だが、その不快な鉄錆の匂いを強引に塗りつぶすように、現在のキッチンにはじゅわりと溶けるバターの芳醇な香りと、熱せられたケチャップの甘酸っぱい匂いが満ち始めていた。


「……リク。まだ? ……限界。お腹と背中がくっつくどころか、今、細胞単位で融合を始めてる。……私、このままだと、ただの水色の液体になる」


 背後から、刺すような、それでいて粘りつくような視線を感じる。

 振り返らなくても、そこに広がる光景は容易に想像できた。


 リビングのソファでぐったりと横たわっているルナリアが、餌を待つ雛鳥……というにはあまりに物騒な、『冬眠に失敗して餓死しかけている白熊』のような目で、俺の後頭部を凝視しているはずだ。


 俺は手慣れた手つきでフライパンを煽り、絶妙なタイミングで余熱を通した卵をチキンライスの上へと滑らせる。


(ふむ、完璧だ。我ながら、この『火加減の極致』に関してはユニークスキル級だと言っても過言ではないな)


「はいはい、お待たせ。……特製、ブラック企業時代に完成させた、現実逃避の『ふわとろオムライス』だ」


 黄金色の卵できれいに包み込まれたそれは、皿を揺らすとプルプルと震え、見事な弾力を見せている。その真っ赤な表面に、ケチャップで適当な猫の絵を描いて差し出した。


「……っ! ……リクは神? ……このなだらかな曲線。……国宝級の弾力。……これはもはや食べ物ではない。愛でるべき芸術……」


 ルナリアはうっとりとそう呟きながら、手にしたスプーンを一切の躊躇なく、猫の顔面の真ん中に突き立てた。


(……秒で食ったな。芸術とは一体)


 さっきまで、感情の死んだ瞳で銘刀を振るい、銃弾を紙一重で切り落としていた『死神』が、今は頬をリスのようにパンパンに膨らませて、ふにゃりと眉根を下げて至福の表情を浮かべている。


 そのあまりに極端なギャップに毒気を抜かれ、俺は自分の分の皿に手を伸ばそうとした。


 ――その時だった。


 脳内に、パッと透過型の立体マップが強制展開される。

 自分を中心とした半径数キロの静止した世界に、突如として『一つの点』が飛び込んできた。


 点は拠点の外周、北側の防衛フェンスを視認不可能な速度で乗り越え、そのまま垂直の壁を重力無視で駆け上がっている。目標は二階のテラス。


「ヒルデさん、ルナリアさん! 誰か来ます! 北側壁面、二階テラスへ向けて超高速で接近中!」


 俺の声がリビングに響いた瞬間、弛緩していた空気が一変した。


 ルナリアは口にスプーンを咥えたまま、傍らの刀の柄に指を添える。ヒルデさんもまた、優雅に紅茶を啜っていた動作を止め、執務机の引き出しから鈍く光るハンドガンを抜き出した。


「……落ち着きなさい、二人とも。その動き、アイリスね」


 ヒルデさんが銃をデスクに置くと同時に、二階のテラスからガタンという大きな物音が響き、リビングへ繋がる窓が勢いよくスライドした。


「うわぁぁぁ、拠点が火薬くさいにゃ! ヒルデ団長、アイリスが外で異変を察知して全速力で戻ってきたら、これだにゃ! 派手に花火を打ち上げたにゃん?」


 窓枠にしなやかに飛び乗ったのは、一人の少女だった。

 艶やかな黒髪のショートヘアに、ぴんと立った三角形の『黒い猫耳』。


 身体のラインを強調する濃紺のタクティカル・ボディースーツに身を包み、腰の後ろでは長い尻尾が興奮したようにパタパタと空を打っている。


「アイリス、無事だったのね。……周囲の状況はどう?」


「ひどいもんだにゃ! プロの掃除屋みたいな連中の死体がゴロゴロしてたにゃ。……あ、それより!」


 アイリスと呼ばれた少女は床に着地すると、クンクンと鼻を鳴らして俺の方を向いた。金色の瞳が好奇心で爛々と輝いている。


「そこの『死んだ魚の目』をしてるお兄さんが、噂の新入りくんだにゃ?」


「リク、だ。……よろしく、アイリスさん」


「よろしくだにゃ! ふにゃあ、それにしても……なんか、脳髄を直接揺さぶるような犯罪的にいい匂いがするにゃ! その黄色い塊、アイリスにも一口……いや、半分寄こすにゃ!」


 アイリスはケラケラと笑いながら、俺の皿からオムライスを一口掠め取った。そしてケチャップのついたスプーンを「れろっ」と艶かしく舐めとる。


「もぐもぐ……ふにゃああぁん! 美味しいにゃ! これ、王国でも食えない味だにゃ! ……ええと、あ、そうだった。報告だにゃ」


 アイリスの表情が、一瞬で『プロの諜報員』のものへと切り替わる。その変わり身の早さは、まさに野性の獣そのものだ。


「今回の襲撃者、所持品をスキャンした結果、商国を裏で牛耳る『黄金の天秤商会』の差し金で間違い無いにゃ。あいつら、ヒルデ団長が兵器流通のシェアを広げてるのが、よっぽど面白くないみたいだにゃ」


「天秤商会……。やはり、既得権益にしがみつく老害どもね」


 ヒルデさんが窓の外、月光に照らされた夜の荒野を見つめる。その背中には、世界を裏から操る武器商人の長としての冷徹な意志が宿っていた。


「正解だにゃ。あいつら、ヒルデ団長の首に賞金を懸けてたにゃ。早く叩き潰さないと、ヒルデ団長が夜に『可愛いウサギの人形を抱きしめて寝てる』無防備なところを狙う暗殺者が、列を作る事になるにゃん」


「なっ……! アイリス、あなた、何を余計なことを――!」


 ヒルデさんの白い肌が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。あの凛然とした彼女が、人形を? そのあまりの破壊力があるギャップに脳がフリーズする。


「アイリス。……そこまで。……団長の部屋のクローゼットが、もふもふのぬいぐるみで埋まってるのは、国家機密。……喋った者は、消される……」


「ルナリアまで何を言ってるのよ! それにいつの間に見たの!? お願いだから、リクに……新入りに変な誤解を植え付けないで!」


 リビングが急激に騒がしくなる。さっきまでの、命のやり取りをしていた緊張感はどこへ霧散したのか。俺はただ、手に持ったお玉を構えたまま立ち尽くすしかなかった。


「アイリス。あなたには、少し『分からせる』必要があるみたいね。お喋りな口を閉じさせる躾の方法を、忘れてしまったのかしら?」


 ヒルデさんが椅子から立ち上がり、優雅な足取りで近づいてくる。

 その背後には、得も言われぬドス黒い威圧感――あるいは、執着にも似た、ある種の情熱が渦巻いていた。


「あ、あわわ……ヒルデ団長、今のは単なるリップサービス――あ、目が、目が本気だにゃ! 旦那ぁ、助けてにゃ!」


 アイリスが俺の背中に隠れようとするが、ヒルデさんの指先は蛇のようなしなやかさでその首根っこを捕らえた。そのまま、アイリスを自分の膝の上へと強引に乗せる。


「あ、あの……ヒルデさん? お仕置きって……」


 俺の不安を他所に、ヒルデさんが懐から取り出したのは、白銀の細工が施された高級そうなブラシだった。


 彼女は熟練の動作で、アイリスの耳の付け根から背中にかけて、ゆっくりと、しかし力強くブラッシングを開始した。


「ふにゃ……ふにゃあああぁぁぁ……っ。そこ、そこは反則だにゃ……頭が……とろけるにゃん……。もう、団長の恥ずかしい秘密は……一生言わないにゃ……」


 アイリスの身体が大きく「びくん」と跳ねた。


 黒い尻尾が垂直にピンと立ち、その後、力なくゆらゆらと波打つ。金色の瞳はトロンと虚ろになり、彼女の口からは幸せそうな、だらしない吐息が漏れ出す。


 耳の裏の『急所』を丁寧に撫でられるたびに、アイリスの喉の奥から「ぐるる……」と、深みのある甘やかな鳴き声が漏れる。それは快感に完全に屈服し、身を委ねた獣の音色だった。


「……ふにゃふにゃ。ヒルデ団長、そこ、もっと……。アイリス、もう、団長の虜だにゃ……」


「いい子ね、アイリス。あなたはそうして、私の手の中で大人しくしていればいいのよ」


 ……何だ、この光景は。


 普段はあんなに隙のないヒルデさんが、恍惚とした表情で猫耳少女をブラッシングし、あまつさえその黒い耳元に顔を寄せて、深々とその『匂い』を吸い込んでいる。


(……これが、現代社会で社会問題化している『猫吸い』の異世界版か。恐ろしいな、猫耳族)


「……アイリス、ずるい。……私も、その尻尾の付け根、触りたい。……もふもふ。……団長、交代。……拒否は、死罪」


 ルナリアまで、いつの間にかオムライスを完食し、じりじりと距離を詰めている。

 無表情のまま、彼女の指はアイリスの尻尾の先端を、慈しむように、けれど力強く掴んでいた。


「ふにゃん!? ルナリア、そこは……そこはもっと敏感だにゃ! ……っ、あ、は……そんな、っ、強く握ったら……っ」


 カオスだ。

 

 前世の世界なら、上司が部下を膝に乗せてブラッシングし、別の同僚が尻尾をいじくり回すなんて光景、一発でコンプライアンス委員会が召喚される事案だ。だが、この血と硝煙に彩られた世界の彼女たちにとっては、これが数少ない安らぎであり、絆の確認方法なのかもしれない。


 俺は少しだけ口角を上げ、先ほどから微かに震えていた指先をエプロンで拭った。


 異世界に召喚されてから、俺の時間は止まっていた。

 白い大理石の床で拒絶され、檻の中で『商品』として数えられ。

 数時間前には、自分の指示一つでマップ上の赤い点を塗りつぶし、命を奪った。

 

 だが、今は違う。

 硝煙の匂いとケチャップの匂いが混ざり合う、この騒がしいリビング。

 俺が作った料理を「美味い」と言って平らげる奴らがいて、ここに俺がいることを、当然のように受け入れている彼女たちがいる。

 

(ここに、俺の居場所が――ほんの少しだけ、でき始めているのかもしれないな)


 そんな感傷に浸る俺の思考を断ち切るように、ヒルデさんがアイリスを満足げに解放した。

 彼女が顔を上げた時、その瞳からは先ほどの慈愛(?)は消え去り、冷徹な『独立傭兵団・団長』の光が戻っていた。


「あちらの言い分は分かったわ、アイリス。……黄金の天秤商会。私の商品を横取りしようとし、あまつさえ私のテリトリーを汚した報いは、高くつくわよ」


 ヒルデさんは振り返り、俺を真っ直ぐに射抜いた。

 その鋭い紫の瞳に、俺の心臓が不規則なリズムを刻む。


「ねえ、リク。早速『戦術指揮官』として、初仕事をしてもらうわ。……あいつらが一番嫌がるタイミングで、一番嫌がる場所に、弾丸を叩き込む。……そのための、最短で最高に効率的な『死のルート』を、あなたの『眼』で導き出してくれるかしら?」


「……。了解しました、団長。……俺のマッピングスキルという武器、存分に見せてあげますよ」


「おっ、旦那、気合が入ってるにゃ!」


 アイリスがいつの間にか俺の膝の上に飛び乗ってきて、耳元でくすぐったい声を出す。

 鼻をくすぐる、わずかなミルクの香りと、猫科特有の体温。


「……アイリス、離れて。……リクは私の、専属コック。……リク、この後、デザートのプリン。……甘さ控えめ、カラメル苦め。……忘れたら、切る」


 ルナリアが俺の服の裾をぐいぐいと引っ張り、自分の定位置(?)を主張し始める。

 ヒルデさんはそんな俺たちの狂騒を眺めながら、優雅に愛銃のスライドを引いた。

 

 チャキン、という金属の冷たい音が、夜のリビングに心地よく響く。


 どうやら、俺の二度目の人生は、想像以上に忙しく……。

 そして、前の世界のどんな締め切り前よりも――熱い『戦場』になりそうだ。


 窓の外、月光に照らされた荒野が、どこまでも不気味に、そして美しく広がっていた。

 俺たちはその暗闇の向こうへ、自分たちの意志で踏み出していく。


「さあ、始めましょうか。ヴァルキリアの進軍を」


 ヒルデさんの言葉を合図に、拠点全体が、巨大な軍事ユニットのように、重厚な駆動音を立てて動き始めた。

挿絵(By みてみん)

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