第27話:偽りの炎
鉄の匂いがした。
夜明け前の冷却結界。涼しい空気の中に、鉄錆に似た匂いが混じっている。まだ日が昇っていないのに、街が張り詰めていた。冷却結界の低い振動が、足の裏から伝わってくる。
一睡もできなかった。窓辺に立ったまま、前夜から《マッピング》に映り続ける赤い点を追っていた。何度も軌道を再生した。ゼロ・ヴァスの行動パターンとは違う。統制されすぎている。
「……まだ動いていますか?」
リディアが隣に立っている。弓もアステリズムも持たない、素手のまま。
「止まった。朝になって、配置についたように見える」
テロリストなら夜間に仕掛ける。こいつらは夜に移動して、朝に止まった。哨戒の交代パターンだ。軍の動きそのものだった。
リディアが窓の外に目をやった。結界越しの空が白み始めている。砂漠の夜明けは静かだ。だが、地図の上では静けさの中に刃が潜んでいた。
仮設テーブルに戻ると、モニカが書類を広げていた。眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「リクさん。昨日ローラさんが解析した装置の通信ログを照合しました。この通信に使われている周波数帯が、テロリストの回線ではありません。治安局の予備回線と一致しています」
「……治安局が、自分の回線でテロの指令を?」
「正確には、治安局の"一部"が。暗号の発信元を逆算すると――ハーリド次長の直轄部隊です」
ハーリド・マルワーン。治安局次長。「国民のため」「秩序のため」と演説する男。
偽旗作戦。テロを自作自演し、鎮圧の英雄として七賢者会議での発言力を手にする。
(……前世で見た。不祥事のたびに「対策委員会」を立ち上げて、委員長の椅子に座る上司。マッチポンプ。――だが、あの時は誰も死ななかった。こいつの火は、人を焼く)
昨夜の赤い点の隊列が、瞼の裏に浮かぶ。居住区を包囲するような配置。あの中にはカイの弟妹もいる。
「標的は居住区の配分所です。爆発すれば、周辺のスラムの子供たちが巻き込まれます」
モニカの声に感情はない。だが、眼鏡の奥に静かな火が灯っていた。
入り口で足音がした。ダリヤが駆け込んできた。
質素なローブ。銀色の髪を無造作に束ね、手には分厚い書類の束。目の下に深い隈がある。
「偽旗の件の前に、見てもらいたいものがあります」
ダリヤが開いたのは、結界維持コストの推移グラフだった。右肩下がりの曲線が、赤い警告ラインに向かって真っ直ぐ落ちている。
モニカが息を呑む。眼鏡の奥の目が見開かれた。数字を見た瞬間に全てを理解する。モニカと同じ目をしている人間が、もう一人いた。
「軍拡予算の増額に比例して、結界維持費が圧縮されています。この傾斜が続けば……」
「あと二年」
ダリヤが淡々と言った。
「あと二年で、冷却結界の出力が維持限界を切ります。このまま軍拡を続ければ――この街は兵器で溢れたまま、茹で上がります」
モニカとダリヤの視線が交わった。数字で語る者同士の、静かな共鳴。
「この街が燃えるか茹で上がるか、どちらが先かの問題ですね」
モニカの声が低い。眼鏡のレンズの奥に、静かな怒りが灯った。
偽旗を止めるだけでは足りない。帳簿の嘘を暴いて、軍拡そのものを止めなければ――この街に二年後はない。
◇
緊急の合同作戦会議。工房の作業台を囲む。
「あ、あの……コーヒーをお持ちしま――きゃっ!?」
盛大な音。ピンク色の髪の少女――グングニルの衛生兵ニコルが転倒し、トレイのコーヒーがジークフリートの背中に直撃した。コーヒーが革鎧を伝い落ち、床に水溜まりを作る。
「ごごご、ごめんなさい! 嫌いにならないでぇ……!」
ジークフリートは背中を拭きもせず、一言。
「……熱いな」
「あらあら。朝からシャワーなんて贅沢ね」
ステラが優雅に微笑む。その横でエリカが小刀を磨きながら言った。
「拙者にもコーヒーを所望する。……砂糖多めで」
(……この空気、うちのチームと似てる。つまりカオスだ)
だが、「偽旗作戦だ」と俺が告げた瞬間、空気が凍った。コーヒーの苦い匂いが一瞬で消えた。
問題は三つ。偽旗の証拠を現場で押さえなければハーリドが鎮圧の英雄になること。標的が配分所で住民が巻き込まれること。そして同時にヤセルも動いていること。二つの「赤い点」を同時に止める必要があった。
《マッピング》で確認した赤い点の配置を、テーブルの地図に書き写した。二つの赤い集団が、別々の場所で脈動している。
壁際に、もう一人。ダリヤが手配した治安局の現場指揮官が合流していた。
ファリス・アル=サーディク。ハーリドの直属ではなく、住民保護を第一に動く男だ。短く刈り込んだ髪。鋭い目。偽旗の情報を聞いた時、一瞬だけ顎の筋肉が硬直した。上官の不正を知った現場の人間の反応だ。だが、すぐに表情を戻した。
「チームを分ける」
俺とリディア、ファリスで偽旗の現場を押さえる。ジークフリートはエリカとステラでヤセルの制圧。モニカとダリヤは七賢者会議への緊急報告準備。ローラとサフィアは工房で証拠整理。
「配置は。導線は。住民避難の猶予は」
ファリスが即座に問うた。言葉に無駄がない。
「《マッピング》で座標を出す。避難は七分以内」
「了解した」
それだけだった。
ジークフリートに向き直る。
「一つ頼む。ヤセルは殺すな。あいつの頭の中の情報が、最後のピースだ」
「殺さずに止めろ、か。退屈な注文だ」
ジークフリートの口角が僅かに上がった。
「……だが、いいだろう。借りにしておく」
◇
居住区の配分所。
《マッピング》の中で、赤い点が建物の内部に集中している。壁の隙間から火薬の匂いが漏れていた。配分所の前にはまだ水の配給を待つ住民が並んでいる。子連れの母親。杖をついた老人。結界の恩恵が薄い地区ほど、ここへの依存度が高い。
ファリスが先行して住民を避難させている。短い指示で導線を切り、子供を先に、老人を次に、正確に流していく。声を荒らげない。だが、指示された人間が自然と動く。現場で積み上げた信頼だ。
その時。瓦礫の影から、小さな人影が飛び出した。
「カイ!?」
テロの噂を聞いて弟妹を避難させに来たのだ。カイが子供たちの手を引いて、配分所から駆け出してくる。
ファリスが振り向いた。カイと至近距離で向き合う。
ファリスの足が止まった。
「……お前。その目は……」
声が震えていた。あの実務的な声が、初めて揺れる。カイの顔に釘付けになっている。
「……なに見てんだよ、おっさん。逃げるなら早くしろ」
カイは知らない。ファリスも、まだ何も言えない。
《マッピング》の上で、赤い点と青い点の距離がゼロになっていた。
今は聞けない。ファリスがカイの前に立ち、背中で子供たちを庇う。
その背中越しに、配分所を見た。《マッピング》で建物の構造を確認する。昨夜から追っていた赤い点の動きを逆再生した。兵士たちが天井裏に集まり、何かを設置し、散った。残されたのは装置だけだ。起爆装置はそこにある。壁の向こう。
「リディア。弓で、あの天井裏に届くか」
リディアが弓を構え――数秒で下ろした。
「……リクさん。弓では届きません。壁の向こうの精霊が、魔導配管に引きずられて……正しい軌道を描けないのです」
建物内部の魔導配管が、精霊の誘導弾道を妨害している。弓の利点が、封じられた。
「……アステリズムを使え」
沈黙が落ちた。
昨日。武器を全て置いた時、リディアは微笑んだ。「迷いません」と。ラシードの前で、自分の足だけで真っ直ぐ歩けた彼女。弓でも銃でもない、「素手のリディア」を見つけたはずの彼女に、今、再び銃を握れと言っている。
迷いの中に、戻れと。
リディアの指が、弓の弦に触れた。親指が弦を撫でるように辿る。精霊の声が聞こえる弓。世界が正しく見える弓。名残惜しむように、一本一本の指がゆっくりと離れた。
弓を降ろした。
背中のアステリズムを外す。使い慣れたはずの銃身が、今日はひどく重く見えた。
構えた瞬間――世界が崩れた。
足元が傾く。天井が回る。空気がどちらから吹いているのかすら分からない。壁が右にあるのか左にあるのか、自分がどこを向いて立っているのかすら。弓を持っていた時の安定が嘘のように消え、精霊の声が遠のき、世界がリディアを拒絶し始めた。
「……見えません。方角も、距離も……何も……」
声が震えている。大陸一の狙撃手が、標的の方角すら分からない。
「俺が見えている」
《マッピング》の座標を読み上げた。
「北北西、仰角三十二度、壁厚十二センチ。お前は引き金を引くだけでいい」
リディアが目を閉じた。
精霊の声でもない。スコープの十字線でもない。昨日見つけた「素手の自分」でもない。ただ、俺の声だけを頼りに。
それは信頼の跳躍だった。世界が歪み、自分の感覚が全て裏切る中で、他人の言葉だけを信じて引き金を引く。
「……信じます」
ドォンッ!!
アステリズムの銃声が、砂漠の朝を裂いた。弓の風切り音とは違う。重い一発。選択の重さが、反動となって肩を叩いた。
弾丸が壁を貫通し、天井裏の起爆回路を粉砕した。壁の向こうで何かが砕ける音。火薬の匂いが急速に薄れていく。
爆弾が、沈黙した。
配分所の前で立ちすくんでいた住民たちの間から、子供の泣き声が聞こえた。生きている。全員、生きている。
リディアの手が震えていた。方向も、自分がどこにいるかも分からない。だが、弾は届いた。世界に拒絶されながら、たった一発で正解を撃ち抜いた。
「……当たったぞ」
「……ふふ」
小さく笑った。ゆっくりと目を開ける。瞳の焦点はまだ定まっていない。だが、その唇に浮かんだのは、弓を持っている時とも、素手の時とも違う笑みだった。迷いの中から、それでも撃つことを選んだ者の笑み。
「迷子の狙撃手でも……座標があれば、撃てるんですね」
硝煙の匂いが、リディアの銀色の髪に絡みついていた。弓を持つ時には決して嗅ぐことのない、焦げた鉄の匂い。
それは迷いの匂いであり、選択の匂いだった。
◇
ジークフリートから通信が入った。ヤセル確保。端末にシンラク商会との通信記録が残されていた。最後のピース。ただし建物が二棟ほど犠牲になったらしい。
(……聞かなかったことにしよう)
配分所の前で、ファリスが子供たちの避難を指揮している。
その中にカイがいた。弟妹の手を引いて、瓦礫の向こうへ走っていく。
ファリスの足が止まった。カイの後ろ姿を、動けないまま見つめている。あの目に浮かんでいたのは、怒りでも安堵でもなかった。
何かを言いたくて、言えない人間の顔だ。
(……カイの横顔と、ファリスの目。頬の線が、似ている。――気のせいか?)
◇
夜。
モニカが工房のテーブルに書類を広げた。
「リクさん。弾は三発、装填できました」
一発目。バシールの帳簿操作。
二発目。ハーリドの偽旗の通信記録。
三発目。ヤセルの端末のシンラク通信ログ。
三枚の書類を指先で叩いた。コツ、コツ、コツ。三発分の弾を込める音のようだった。
モニカが眼鏡のレンズ越しに、夜の灯りを反射させた。
「明日の七賢者会議で、すべてを撃ちます」
迷いのない声だった。数字使いが最後の弾を込めた時の、静かな確信。
結界の内側で、夜風が吹いている。明日。銃声の代わりに数字が飛び交う、もう一つの戦場が始まる。




