第26話:境界線の上で
朝。工房の前で、一触即発の空気が漂っていた。
「拙者はまだ、あの弓の女と決着をつけておらぬ! リク殿、決闘の場を設けていただきたい!」
エリカが目を輝かせて俺に詰め寄ってくる。グングニルの剣士。制御塔での共闘以来、リディアのことを「好敵手」と認定したらしい。
「……リディアさん、いいのか?」
「ええ、望むところです。私も弓の腕を確かめたかったので」
リディアが凛とした声で応じ、弓を手に歩き出した。自信に満ちた足取り。精霊の加護を受けたエルフの狙撃手が、朝日を背に颯爽と――
十分後。
「リクさん……決闘場はどこでしょう。私は指示された広場に向かったはずなのですが、なぜか鍛冶ギルドの裏手にいます……」
「拙者は広場で三十分待ったでござるが!」
「精霊が嘘をつくはずが……」
「それはただの方向音痴だ」
「方……方向音痴ではありません! 世界の座標系が私に対して局所的に歪曲して……」
「無理あるぞその言い訳」
エリカが肩を落としている。リディアが申し訳なさそうに頭を下げている。周りでニコルが「す、すごい迷い方ですね……」とおろおろし、ステラが「あらあら」と微笑んでいる。
(……朝からカオスだ。前世のオフィスの朝礼より収拾がつかない)
結局、決闘は「次の機会に」ということでうやむやになった。永遠にその機会が来ない気がするが。
◇
砂埃の匂いが、喉の奥をざらつかせた。
結界の外に出た瞬間、世界が変わる。青白い光が消え、乾いた熱気が肌を叩く。まだ朝だというのに、空気そのものが渇いている。影の中にも、太陽の匂いが染みついていた。
「……ついてきて」
カイが振り向かずに言った。
「ただし、武器は置いて。銃を持ってるやつは、ラシードの前には出られない」
ナイフも含めて全て外した。ベルトのホルスターが空になる。丸腰は前世でも経験がない。もっとも、前世で武器を持ったこともないが。
《マッピング》だけが残った。目に見えない地図。それだけが、今の俺の唯一の武器だ。
「……リクさん」
隣でリディアが弓を壁に立てかけた。そしてアステリズムをベルトから外し、弓の横に静かに置く。
その瞬間。
リディアの背筋が、すっと真っ直ぐになった。足元に迷いがない。目の焦点が、初めて「ただの風景」を見ている。精霊の声でも、スコープの十字線でもなく。
「……不思議です。精霊でも銃でもなく、私自身の足で歩いています」
微かな笑み。
「……迷いません」
武器を置いた狙撃手。世界一平和で世界一無防備な方向音痴。いや、今は迷ってないのか。ややこしい。
「……この人、大丈夫なの?」
カイがリディアを見上げた。怪訝そうに眉を寄せている。
「大丈夫だ。……多分」
「『多分』って何だよ」
カイが先に歩き出した。路地裏を抜け、崩れた壁の隙間を縫い、やがて地面の割れ目から地下へ降りる。
地下水路。天井から水滴が落ちて、暗闇に反響する。結界の外なのに、ここだけは涼しい。遺跡の残留魔力が冷気を保っているのだろう。壁に刻まれた古い文様が、微かに青く発光していた。
◇
地下水路を抜けた先。崩れた遺跡の一室に、男が座っていた。
祈りの香が漂っている。天井の亀裂から差し込む光が、砂埃の中で柱のように立っている。壁には古代文字。床には簡素な敷物。そして部屋の奥に、静かに座す人影。
ラシード・アル=サファル。
ゼロ・ヴァスの首領。
第一印象は「音がない」だった。この男の周囲だけ、空気が静まっている。穏やかな目。だが、その奥に煤けた炎が見えた。消えかけているのではない。ずっと燃え続けている火だ。
「……ヴァルキリアのリク。お前の名は、結界の外にも届いている」
低い声。祈りのようなリズム。
「アルマラカンで首輪を外した男だと」
「あんたがゼロ・ヴァスの首領か」
正面に立った。《マッピング》の中で、ラシードは赤い点として映っている。だが、その赤が妙に静かだ。敵意ではない。警戒でもない。ただ、そこに在る。
「……テロで人を傷つけておいて、義賊を名乗るのか?」
ラシードは怒らなかった。
「奪うのではない。取り戻すのだ」
静かに、だが芯のある声だった。
「この国が、俺たちから奪ったものを」
ラシードが語った。
かつてスラムにも水があった。冷却結界の恩恵があった。だが軍拡に予算が回され、外縁の配給が止まった。子供が渇きで死んだ。老人が熱射で倒れた。Dランクカードを持たない者は、存在しないことにされた。
「……お前なら分かるだろう。帳簿の数字を動かすだけで、人が死ぬ世界を」
昨日、モニカが暴いた帳簿の嘘。あの数字の向こう側に、こいつらがいたのか。
こいつは敵だ。《マッピング》上では「赤い点」だ。
だが――消していい点じゃない。
ふと、部屋の隅が目に入った。
棚に、整然と並んだ医薬品。包帯、消毒液、解熱剤。スラムの物資にしては質が高すぎる。配給ルートでは出せない品質だ。
《マッピング》を開いた。カイの情報と、ここ数日で蓄積した位置データを重ねる。この品質の医薬品を運べるルートは限られている。人の動線を辿ると――起点は七賢者会議の保守派区画だった。
(……ミリアム。あの人だ)
先日会った、穏やかな賢者。「慎重な方は、嫌いじゃないかしら」。あの柔らかな声の主が、匿名でゼロ・ヴァスに医薬品を流していた。
「……名も知らぬ誰かが、月に一度、この場所に薬を届けてくれる」
ラシードは送り主を知らないらしい。
「俺たちは受け取るだけだ。感謝も、借りも、作らない。ただ、子供たちが死なないために」
カイが部屋の隅で、小さな子供に水を飲ませていた。弟か妹だろう。痩せた腕で水筒を支えている。あの水筒は、俺が取引で渡したものだ。
◇
「俺はお前を倒しに来たんじゃない」
言った。
「お前たちが取り戻したいものを、壊さずに取り戻す方法を一緒に探しに来た」
ラシードの目が、初めてこちらを真っ直ぐに見た。
「……美しい言葉だ。だが、お前にそれができる保証はない」
「保証はない。だが、帳簿を暴く準備はできている。お前たちの銃を奪った奴らの名前を、帳簿の上から引きずり出す」
沈黙。
祈りの香が、二人の間を漂う。
「一つ聞かせろ」
ラシードの声が、わずかに変わった。質問ではなく、試練の声だ。
「お前のチームの者たちは、"自分の意思"で戦っているのか? それとも、お前に"頼っている"だけか?」
「……」
「俺の部下たちは俺に命を預けている。それは自立か? 依存か? ――お前にその違いが分かるか」
答えに詰まった。
ジークフリートのグングニルは、あの男への絶対的な忠誠で成り立っている。ニコルもエリカもステラも、ジークフリートがいなければ壊れる。ヒルデのヴァルキリアは? 俺たちは自分で立っているつもりだ。だが、ヒルデがいなかったら?
(……前世の会社で、先輩に聞かれたことがある。「この会社好きか?」と。好きじゃなかった。だが居場所はそこだけだった。辞めたら路頭に迷う。あれは自立だったのか。依存だったのか)
(あの頃の俺は、「いつでも辞められる」と自分に言い聞かせていた。だが辞めなかった。辞める勇気がなかったのか、辞める必要がないと思い込んでいたのか。……多分、両方だ。自分が鎖に繋がれていることに気づかないのが、最も完璧な鎖なんだ)
(……そして今の俺はどうだ。俺が《マッピング》で指示を出し、仲間がそれに従う。俺の判断がなければ、あいつらは最適な動きができない。それは自立を支えているのか。それとも――俺への依存を作っているのか?)
答えが、出ない。
ラシードが初めて、わずかに表情を動かした。厳しさが消え、どこか懐かしそうな目。
「……面白い男だ。答えられないことを、答えられないと認める者は少ない」
立ち上がった。
「だが、忘れるな。ヤセルは――もう止まれないところまで来ている」
◇
工房に戻ったのは、日が傾いた頃だった。
オイルの匂いが鼻を突く。作業台にローラが突っ伏している。工具が散乱し、分解された装置の部品が並んでいた。制御塔でヤセルが残した装置だ。
「ローラ」
声をかけると、ローラが顔を上げた。目が赤い。泣いた跡ではない。怒りだ。
「……ボウズ。座れ」
いつもの荒い口調だが、声に芯がない。ローラの声からエネルギーが抜けているのを、初めて聞いた。
「ヤセルの装置を分析した」
ローラが部品を一つ摘み上げた。
「この回路の曲げ方……帝国にいた頃の、C棟の設計作法だ。魔力伝導率を最大化するために、直角じゃなく円弧で曲げる。帝国の量産品じゃ絶対にやらない手法だよ」
「それは……ヤセルが帝国の技術を知っていたということか?」
「違う。ルズマールの軍需局が帝国の設計手法を研究して、独自にアレンジしてたんだ。オマルのじいさんに聞いた。ヤセル・バルカは元々軍需局の優秀な技術者だったと。……だが効率化の名のもとに部署ごと切り捨てられて、スラムに落ちた」
ローラの手が、部品の上で止まった。
「……こいつは、あたしだ」
声が震えていた。あの豪快な声が、初めて。
「あたしがヒルデに拾われなかったら、こうなってた。帝国を追い出されて、行き場をなくして、技術だけ食い潰されて――壊れるまで使い捨てにされてた」
ローラの目がオイルの光で濡れていた。涙じゃない、と本人は言うだろう。だが俺には分かる。あれは、自分の「もう一つの未来」を見た人間の顔だ。
「ボウズ」
ローラが真っ直ぐこちらを見た。
「あたしは――あいつを止めたい。壊すんじゃなく」
拳が、作業台を叩いた。
「……道具を泣かせてる奴が、もう一人いたんだ」
道具を泣かせるな。
ローラがサフィアに叫んだ言葉だ。あの時は弟子に向けられていた。今、同じ言葉が、敵であるはずのヤセルにも向けられている。ローラにとって、技術者が壊れることは、道具が泣くのと同じなのだ。
「……了解だ。壊さずに止める。約束する」
ローラは何も言わなかった。ただ、部品を両手で包むように握ったまま、小さく頷いた。
◇
工房の隅で、リディアが弓を壁に立てかけていた。そしてベッドの上に置いてあったアステリズムを手に取る。
その瞬間だった。
リディアの瞳から「冴え」がすうっと引いた。ラシードの前で真っ直ぐ歩いていた背筋がわずかに揺らぎ、足元がおぼつかなくなる。精霊の声が、銃を手にした瞬間に消えたのだ。
「……あれ。出口は……どちらでしょう」
「正面だ。一つしかない」
いつもの方向音痴。だが今日は、リディアの表情が違った。笑っていない。
「……リクさん」
リディアが、アステリズムを両手で握りしめたまま窓の外を見つめていた。
「今日は弓で歩き、素手でも歩きました。精霊が道を教えてくれて、水脈を示してくれて……武器を全て置いた時は、自分の足だけで迷わずに歩けました。世界が、正しく見えたのです」
「……ああ」
「でも弓だけでは、皆さんを守れません。この銃がなければ、遠くの敵を撃てない。私の居場所は、この引き金の向こう側にもあるのです」
リディアの指が、銃身を静かに撫でた。
「……どちらの私が、本当の私なのでしょう」
弓を持てば世界が見える。銃を持てば世界を守れる。素手なら自分の足で歩ける。だが、全部を同時には選べない。
ラシードの声が頭の中で反響した。「自立か、依存か」。
「……両方だろ」
リディアが顔を上げた。
「迷ってる自分も含めて、お前はお前だ。弓のお前も、銃のお前も、方向音痴のお前も。……全部、リディアだ」
リディアは何も言わなかった。ただ、アステリズムを胸に抱いたまま、小さく頷いた。
その答えは、リディアに言ったのか。それとも、自分自身に言い聞かせたのか。
――多分、両方だ。
◇
夜。
窓辺に立ち、《マッピング》を開いた。
結界の内側。いつもの青い点が静かに灯っている。宿営地の仲間たち、巡回する治安局の兵士、工房のオマル。
だが。
赤い点が、動いている。
ゼロ・ヴァスの行動パターンではない。あいつらは整備施設や部品庫を狙う。住民を巻き込まないのがポリシーだ。
今、目の前の赤い点は――民間の居住区に向かっている。
しかも動きが妙に統制されている。バラバラに動くテロリストではなく、隊列を組んでいる。まるで――訓練された兵士のように。
リディアが隣に立った。弓もアステリズムも持っていない。素手のまま、マッピングの光を見つめている。
「……リクさん。この点は、おかしいです」
「ああ。分かってる」
赤い点が、ゆっくりと、嫌な方向に動いている。
「……何かが、おかしい」
ラシードの声が頭の中で響く。
「ヤセルは、もう止まれないところまで来ている」。
だが、この動きはヤセルでもない。
赤い点の動きのパターンを分析する。ゼロ・ヴァスのものではない。もっと統制されていて、もっと――
鳥肌が立った。
この動き方は、テロリストじゃない。軍だ。
まだ確証はない。だが、嫌な予感が背筋を這い上がってくる。
明日。この街で何かが起きる。
結界の内側で、涼しい風が吹いている。
だがその風の中に、硝煙の匂いが混じり始めている。まだ誰にも見えない、嵐の前触れだ。




