第25話:帳簿は嘘をつかない
商談の朝。
モニカが書類を分類する手つきは、前世で見た監査法人の調査員を思い出させた。あの時は提出期限に追われて徹夜した書類が朝までに二回消えた。モニカなら一晩で国を三つ潰せる量の書類を仕上げるだろう。
「リクさん。本日の資料は三部構成です。第一部で提案、第二部でデータ提示、第三部で……」
「第三部で殴る、だろ?」
「品のない言い方をしないでください。第三部は"戦略的圧力の段階的適用"です」
「殴るのと何が違うんだ」
「言い方です」
モニカの眼鏡がきらりと光った。この人、表情は鉄壁だが会話の端々にキレが出る時がある。前世の経理部のエースが、ミスを指摘する時だけ生き生きしていたのを思い出す。
「あ、あの! 私も何かお手伝いできることは……!」
工房の入口から顔を覗かせたのは、ニコルだった。ジークフリートの護衛任務で先に庁舎に入るはずが、「モニカさんが大変そうだったので」と走ってきたらしい。
書類の束を受け取ろうとした瞬間、案の定、足がもつれた。
紙が、扇のように宙を舞った。
「……ニコルさん。お気持ちは嬉しいのですが、書類の並び順に意味がありますので」
モニカの声は穏やかだった。穏やかなのに、室温が三度下がった気がする。
「……全部、やり直しです」
「ひぅぅ……嫌いにならないでくださいぃ……!」
ニコルの目から大粒の涙が溢れる。モニカは無言で書類を拾い始めた。三十秒後には完璧な順番に再構成されていた。
(……やっぱりこの人、前世なら経理部長まで行ける器だ)
◇
高級な香木の匂いが、鼻腔を撫でた。
冷却結界が二重に張られた応接室は、外の灼熱が嘘のような完璧な室温に保たれている。磨き上げられた大理石のテーブル。壁には砂漠の風景画。置かれたカップから立ち上る茶の湯気が、乱れもなく真っ直ぐに昇っている。
前世のプレゼン前を思い出す。取引先の会議室に通された時、コーヒーの匂いと室温で相手の「格」が分かった。冷房が効きすぎている部屋ほど、居座る気がない。ここは快適すぎる。長引かせる気はある――その分だけ、こちらの提案に興味があるということだ。
「いやぁ、ヴァルキリアさん。アルマラカンでの実績は聞いておりますよ」
軍需局長バシール・クルナズは、太い指で茶菓子を摘みながら笑った。
ふくよかな体型。人当たりのいい笑顔。だが目の奥の温度が、笑顔と一致していない。声が暖かいのに、目が冷たい。前世ではこういう人間を「調整型」と呼んだ。自分では手を汚さず、調整の名のもとに利権を回す人種だ。
「……で、今回はルズマールに何を"売って"くださるのですか?」
隣のモニカが、静かに提案書をテーブルに置いた。
「開放型弾薬規格の導入、整備体制の標準化、そして物流の第三者監査スキームです。弊社はアルマラカンで同様の枠組みを構築し、港湾管理局の調達効率を三十七パーセント改善しました」
モニカの声には一切の感情がない。数字だけを並べる。それが彼女の戦い方だ。
「規格の統一……ですか。いやぁ、素晴らしいご提案ですが、現行の調達体制で十分機能しておりましてね。例外を作ると、面倒なんですよ」
(……「面倒」は本音だ。現行体制=利権構造。変えたくないだけだ)
◇
「むしろ逆に、ヴァルキリアさんが我が軍需局の"推奨サプライヤー"として登録されてはいかがです?」
バシールが身を乗り出した。
「通行証もランクも上がりますよ。……水の配分も、変わりますしね」
飴と鞭。前世の悪質な元請けとそっくりだ。「うちの認定業者になれば仕事を回すよ」――その代わり、言いなりになれ。
「ありがたいお話ですが、お断りします」
モニカが即答した。眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
その仕草が出た時のモニカは、刃物を抜いた合図だ。
「……バシール局長。一つ、数字のお話をしてもよろしいですか」
「ええ、数字は大好きですよ」
「では遠慮なく」
モニカが二枚目の書類を出した。
昨日、カイが教えてくれた「見えない地図」。スラムの裏ルートを流れる物資の種類と量。あの子供は約束通り情報を持ってきた。水脈は掘れたか、と聞いたら「まだ途中だ」と睨まれた。取引相手として対等であろうとする子供。その情報をモニカが一晩かけて公式の帳簿データと突き合わせた結果が、この一枚に凝縮されている。
「過去二年間の弾薬調達量。公式の帳簿では規格Aが七割、規格Bが三割です」
「ええ、その通りです」
「しかし、実際に工房に届いた弾薬を分析すると――規格Aは四割。残りの三割は、規格が存在しない非公式品です」
モニカの指が、書類の数字を一つずつ叩いた。
「帳簿上は存在しない弾薬が、二年間にわたって安定供給されている。誰かが、意図的に規格外の弾薬を流し込んでいる」
バシールの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
だがすぐに取り繕う。この男の表情管理は一流だ。
「いやぁ……それは現場の管理ミスでは? 砂漠の物流は複雑でしてね」
「管理ミスで、二年間、同じ比率のズレが続きますか?」
モニカの声が、一段低くなった。
「……偶然は一度です。二度目からは、意図です」
◇
間。
バシールの指が茶菓子の皿の縁をなぞっている。時間を稼いでいるのが分かった。
「もう一つ、よろしいですか」
モニカが三枚目の書類を出した。最後のカードだ。
「先日のテロ攻撃で押収した武器を、弊社の整備士が分析しました。シリアルナンバーを照合した結果――」
書類がバシールの前に滑る。
「ゼロ・ヴァスが使用していた旧式ライフルの製造番号が、ルズマール軍の正規在庫リストと一致しています」
室内の空気が、凍りついた。
冷却結界のせいではない。バシールの指が、茶碗の縁で止まった。窓の外では、相変わらず完璧な青空が広がっている。この部屋の中だけが、天気が変わった。
「テロリストが撃っていた銃は、元々この国の武器庫にあったものです」
モニカは眼鏡越しに、真っ直ぐバシールを見据えた。
「……この国は、自分の銃で自分の民を撃っている」
静寂。
香木の煙だけが、何事もなかったかのように真っ直ぐ昇っていく。
バシールは怒らなかった。
代わりに――笑った。今度は、目まで笑っている。声と目の温度が、初めて一致した。それが一番、怖かった。
「……いやぁ。なかなか優秀な事務官をお持ちですね」
バシールの声が、半音下がった。
「ですが、その証拠。もし外に漏れたら、この街は混乱しますよ? 国民の信頼が……」
「それは脅迫か?」
俺が口を開いた。
「いいえ。ご忠告ですよ」
バシールの笑顔が、仮面のように張りついたまま動かない。
「――この街の秩序を壊したいなら、どうぞ。ですが、結界が止まった時に一番先に死ぬのは、あなた方が守りたがっている"外側の人間"ですからね」
(……前世で不正を指摘した時と同じだ。「お前が騒ぐと会社が潰れるぞ」。内部告発者を黙らせる常套句。――だが俺は、もう会社員じゃない)
「忠告、感謝する」
立ち上がった。
「……だが俺は、秩序を壊しに来たんじゃない。秩序の"形"を変えに来た」
バシールは何も言わなかった。ただ、笑顔のまま茶を啜った。
その手が、微かに震えていた。
◇
廊下に出た瞬間だった。
「見事な商談でした」
壁にもたれた男が、爽やかな声で拍手した。
細身の長身。整った顔立ち。商人の服に身を包み、穏やかな笑みを浮かべている。だが、目が笑っていない。
バシールとは質が違う。あちらは声が暖かく目が冷たかった。こいつは全身が笑顔で覆われているのに、目の奥だけに底なしの暗さがある。
「ユアン・フェイロン。シンラク商会ルズマール支店長です。お噂はかねがね」
名前だけで分かる。こいつが、アームズ・サイクルのルズマール側の窓口だ。
「……ですが、"均衡"を壊した後の責任は誰が取るのでしょうね? アルマラカンのダーリヤさんも、お元気にしていますか?」
あの余裕は追い詰められた人間の顔じゃない。まだ手札があるやつの笑顔だ。
「元気だよ。お前の商会が首輪を外された後もな」
「それは何よりです。……契約は契約ですからね。どこの国であろうと」
すれ違った。背中に、温度のない視線を感じる。廊下に漂う消毒液の匂いが、急に冷たく感じた。
アルマラカンのダーリヤとは違う種類の敵だ。あちらは市場に巣食う蜘蛛だった。こいつは――市場そのものを設計する蜘蛛だ。
「――リク」
廊下の角から、ジークフリートが現れた。バシールの護衛任務で軍需局に来ていたらしい。腕組みしたまま、俺たちが出てきた部屋の方を顎で示す。
「あの男……笑顔の裏に人を道具にする匂いがする。お前の戦い方で追い詰められるのか?」
「数字で追い詰める。お前の拳では壊せない相手だ」
「フン。壊せない相手はいない。――だが、今は見物してやろう」
「お前に見物されると、審査員がいるプレゼンみたいで胃に来るんだが」
「知らん。腹の管理は自分でしろ」
◇
屋上。
砂漠に沈む夕日が、世界を赤く染めていた。熱風が頬を焼く。応接室の完璧な室温が、すでに遠い記憶のように感じる。
結界の青い膜の向こうに、スラムの灯りが瞬いている。あの灯りの下にカイがいる。水脈を掘り当てた子供たちが、今夜は少しだけ多く水を飲めているかもしれない。
自分の銃で自分の民を撃つ国。
帳簿を操作して利権を回す男。笑顔で「秩序」を盾にする脅迫。そして――笑顔の裏で、市場そのものを設計する蜘蛛。
この街の帳簿は、二つの嘘をついていた。
一つは弾薬の数。帳簿の数字と現場の弾が合わない。
もう一つは弾の出処。この国の武器庫から、この国を脅かす者の手に銃が渡っている。
病巣は、想像以上に深い。
だが、数字は嘘をつかなかった。
モニカの弾が、確実に一発、バシールに刺さった。あの手の震えが証拠だ。
明日。カイに約束した「もう一度来る」を果たす。
帳簿が映さない「もう一つの地図」の持ち主たちに――会いに行く。
結界の内側では、まだ涼しい風が吹いている。
この風が止まらぬうちに、この街の形を変えなければならない。




