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第24話:ガラスの壁

 出発前の一幕。


「リクさん、精霊たちが道を示しています。スラムへの最短ルートは――こちらです」


 弓を手にしたリディアが、朗々と宣言した。

 その瞳には迷いがない。精霊との調和を取り戻した狙撃手の足取りは堂々としていた。

 三歩。


「……逆だ」


 俺はリディアの肩を掴んで、百八十度回転させた。


「え……? 精霊たちは確かにこちらだと……」


「精霊の声は正確なんだろうよ。お前の身体が、その声を左右反転で受信してるだけだ」


「そ、そんなことは……つまりこの街の地形そのものが、私の感覚に対して反転して存在して……」


「街は動かない」


 リディアは納得いかない顔をしたが、大人しく俺の後についてきた。弓を握っている間、感覚も判断力も超一流。ただし内蔵の方位磁石だけが、絶望的に狂っている。



 結界の外に出た瞬間、肌を焼く熱と、砂埃に混じった腐った水の匂いが同時に襲いかかった。


 一歩。

 たった一歩で、世界が変わった。


 冷却結界の青白い膜を越えた途端、気温が十度以上跳ね上がる。昨夜「ガラスの壁」と呼んだ境界線を、今度は内側から外側へ踏み越えた形だ。背後を振り返れば、透明な壁の向こうに涼しげな街並みが見える。同じ都市の、同じ空の下。なのに、こちら側には太陽が容赦なく肌を灼いていた。


 前世で真夏のデータセンター移設作業を思い出す。空調の効いた部屋から搬出口に出た瞬間、眼鏡が曇って何も見えなくなったあの感覚。ただし今回は、曇るのが眼鏡ではなく世界観の方だ。


「……リクさん。次の角を左です。その先の路地を抜けてください」


 リディアが弓を構えたまま、的確に先導してくれた。

 さっきの方向音痴が嘘のように、弓を持つリディアは別人だ。足取りに迷いがなく、視線が真っ直ぐ前を向いている。精霊と繋がっている時の彼女には、「世界が歪む」余地がない。


 モニカは結界内に残っている。バシール・クルナズ軍需局長とのアポ取りと、昨夜発見した弾薬規格データの精査。「現場を見てきてください。数字だけでは見えないものがあるはずです」と言った彼女の目は、いつもの分析者の冷静さとは違う、切実な光を帯びていた。


 ――渇きの外縁ドライ・エッジ


 スラムは、結界のぎりぎり外側にへばりついていた。

 青い光のドームが「あと数メートル」に見える。手を伸ばせば届きそうな距離に、涼しい世界がある。なのに、その中に入る権利を持たない人々が、灼熱の砂の上で暮らしている。


 配給の列が見えた。老人、女性、子供。全員が資源割当証を握りしめている。列の端に、証を持たない者たちが座り込んでいた。配給係は彼らの存在を、文字通り見ていない。視線が素通りする。透明にされた人間。


(……前世の派遣社員は、社食のカードが使えなかった。正社員とカードの色が違うだけで、同じ入口なのに弾かれる。ここでは、ランクが足りないから水が飲めない)


 最悪に合理的な地獄だ。

 列の脇を通り過ぎる時、小さな女の子と目が合った。干からびた唇が何かを言いかけて、すぐに閉じた。割当証を持たない子供は、声を上げることすら許されていないのだ。


 リディアの足が、ふと止まった。


「……この先は、精霊たちが黙っています」


「黙ってる?」


「怒りでも、悲しみでもなく……ただ、沈黙しているのです。それが一番、怖いのです」


 精霊すら言葉を失う場所。

 俺たちは、その沈黙の中に足を踏み入れた。



 路地裏に入った瞬間、気配が変わった。


 正面ではなく、左右と後方。三方向から、小さな足音が壁を這うように近づいてくる。

 《マッピング》には表示されていた。人数は六。全員、子供だ。


 物乞いではなかった。

 こちらを取り囲んだ子供たちの目は、鋭い。品定めしている。こいつから何が取れるか、どこまで踏み込めるか。前世のキャッチセールスの若者より、よほど目が据わっている。少なくとも、あの子たちは「お兄さん今暇?」とは聞いてこない。


「……おまえ。軍の犬か。商人のネズミか」


 輪の中心にいた少年が、声を上げた。

 痩せた身体。日焼けした肌に泥がこびりついた頬。だが、目だけが異様に強い光を放っている。


 昨夜、結界の外でうずくまっていた子供。泥水を啜っていた、あの小さな背中の持ち主だ。


「どっちでもない。傭兵だ」


「同じだよ。金で動く大人だろ。……大人は、うそつきだ」


 短く、真っ直ぐに刺してくる言葉だった。

 子供の口から出たとは思えない、研ぎ澄まされた敵意。


 俺は腰の水筒を外し、少年の前に差し出した。


「喉、乾いてるだろ。飲め」


 少年の手が伸び――

 次の瞬間、水筒が地面に叩きつけられた。


 ゴンッ、と鈍い音が路地裏に響く。水が砂に吸い込まれ、一瞬で消える。灼熱の大地が、一滴も残さず飲み干した。


「いらない。施しで生きるのは、犬だけだ」


 後ろで子供たちが緊張する。だが少年は微動だにしない。あの歳で群れのリーダーを張っている。施しを受ければ対等な関係は崩れる。それを本能的に理解している子供だ。


「……リクさん」


 リディアが小声で呼んだ。弓を持った手が、地面を指している。


「この地面の下、数メートルのところに水脈があります。精霊たちが教えてくれました。……ただ、誰も掘り方を知らないのです」


 水脈。

 俺は少年を見た。


「なら、取引だ」


「……は?」


「水をやるんじゃない。水の場所を教える。掘るのは、お前たちだ」


 少年の目が、初めて揺れた。

 警戒と、困惑と、そして――ほんの一瞬だけ、期待。


「……場所だけ? 見返りは?」


「明日もここに来る。この街の地図を教えてくれ。配給のルート、裏の物流……俺には見えない、お前たちだけの地図を」


 《マッピング》は建物と人の位置を映す。だが、関係性までは映らない。金の流れ、恩義の流れ、恐怖の流れ。それはこの街で生きている人間にしか見えない。


 少年は長い間、俺の目を見つめていた。


「……嘘ついたら、殺す」


「子供が物騒なこと言うな」


「本気だよ」


 そう言って少年は背を向けた。子分たちに何か小声で囁く。聞き取れたのは一言だけ。


「……水脈の場所、覚えとけ」


 小さな背中が路地裏の影に消えていく。

 振り返りは、しなかった。



「リクさん、帰路はこちらです。バザールを抜けるのが最短だと、精霊たちが」


 リディアが自信に満ちた足取りで歩き出した。精霊との調和が続いている証拠に、その瞳は澄んでいる。

 十分後。


「到着しました。こちらがバザールの――あれ」


 目の前にあったのは、バザールではなく鍛冶ギルドの裏口だった。


「……精霊は確かに、人が多く集まり活気のある場所だと……」


「鍛冶ギルドは確かに活気があるな。方向が九十度ずれてるだけで」


「つまりこの建物が、私たちが歩いている間に移動した可能性が――」


「建物は動かない」


 結局、俺の《マッピング》で軌道修正してバザールに辿り着いた。

 香辛料と革と熱した金属の匂いが渦を巻く市場の雑踏を抜けていると、背後から声がかかった。


「……あなたが、ヴァルキリアのリクさんね」


 振り返ると、フードを深く被った女性が日除けの影に立っていた。顔の半分は隠れているが、覗く口元には上品な微笑みが浮かんでいる。


「アルマラカンで、あの商人たちの首輪を外したという。……ふふ、それは"美しい"仕事だわ」


「……あんた、誰だ」


「ミリアム・ナフィーサ。七賢者の末席を汚す者よ」


 七賢者。この街の最高意思決定機関。その一人が、スラム帰りの傭兵に声をかけてくる。

 前世なら、大臣が居酒屋で派遣社員に接触するようなものだ。何かが、おかしい。


「単刀直入に言うわ。……あなたの力が、必要なの」


 ミリアムがフードの下から、切実な目を覗かせた。


「七賢者会議で、軍拡派を止めたい。サーリムの論理は完璧よ。数字の上では、軍拡は正しい。予算、雇用、安全保障……全ての数字が、彼を支持している」


「なら、数字で戦えばいい」


「数字が映さないものがあるのよ。結界の外で渇いている子供たちの顔を、帳簿は記録してくれないもの」


 その言葉が、さっきのスラムの光景と重なった。配給の列。透明にされた人々。砂に消えた水。


「……まだ、この街の形が見えていない。判断するのは、全部見てからだ」


「ええ、それでいいわ。……慎重な方は、嫌いじゃないかしら」


 ミリアムが踵を返しかけて、ふと振り向いた。


「……あなたが会った子供。あの子の名前は、カイ」


 心臓が跳ねた。何故、この人があの子を知っている。


「……あの子にだけは、嘘をつかないであげて」


 フードの影が雑踏に溶けて消えた。

 七賢者が、スラムの子供の名前を知っている。保守派の賢者と、結界の外の子供が繋がっている。


 ……この街の「見えない地図」は、想像以上に複雑だ。



 結界を戻った。


 一歩で、灼熱が嘘のように消える。涼しい風が頬を撫で、青白い光が世界を包み込んだ。同じ都市の、同じ空。なのに、温度も、匂いも、人の目の色も、何もかもが違う。


 ガラスの壁。

 結界は透明だ。向こう側が見える。手を伸ばせば触れられそうな距離に、涼しい世界がある。なのに、その壁一枚の向こうで、子供たちが砂の上で眠っている。


 工房に戻り、俺は窓辺に立って《マッピング》を開いた。

 結界の内側に密集する青い世界。外側に広がる灼熱の闇。その境界線上に、昼間記録したデータが淡く残っている。配給の列、路地裏の子供たち、地下水脈の位置。

 そして――さっきカイがいた場所を、俺は意識的にマーキングしていた。微かな光点が、地図の上で静かに点滅している。


「……この街には、二つの地図がある」


 結界の内と外。帳簿に載る世界と、載らない世界。

 その両方を重ねた時に、初めてこの街の本当の形が見えるはずだ。


 もう一度、あの路地裏を訪ねよう。

 あの子が教えてくれる「見えない地図」が、きっと鍵になる。

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