第2話:『神の目』の初仕事
巨大な六輪駆動車が、乾いた音を立てて荒野を突き進む。
車窓の向こう、遠くにそびえる山々の端には教国の白い尖塔が、その反対側には帝国の黒い煙突群がうっすらと見えていた。
ここは、複数の勢力が複雑に絡み合う境界線。
この世界の「常識」が通じない、無法の荒野だ。
「……着いたわ。ここが私たちの拠点の一つよ」
ヒルデさんに促され、俺は車を降りた。
目の前に立つのは、かつての貴族が隠居にでも使っていそうな、古びた、けれど品のある石造りの洋館だった。
手入れの行き届いた庭園と、歴史を感じさせる重厚な外壁。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間、鼻を突いたのは――生活臭ではない。
重々しい金属の響きと、焦げ付いたような硝煙の匂いだった。
「外見はただの館だけど、地下と倉庫にはノルディア帝国製の小銃や、調整待ちの黒色火薬が山ほどあるわ。ここは私たちの『商品庫』でもあるのよ」
ヒルデさんは軍服のコートを脱ぎながら、艶やかに微笑んだ。
彼女の紫の瞳が、薄暗い廊下で妖しく光る。
視界の端、真っ白な廊下には無機質なアサルトライフルが整然と並べられていた。
魔法の杖よりも、ずっと冷たく、効率的に命を奪うために特化した道具たちだ。
「……歩いた……死ぬ……。リク、はやく、ごはん……」
後ろを歩いていたルナリアが、玄関ホールにある大きな革張りソファへ、糸の切れた人形のように沈没した。
透明感のある水色の髪が、だらしなくソファから零れている。
その姿からは、かつてS級冒険者として名を馳せた覇気なんて、微塵も感じられない。
「……ルナリア、まだ仕事中よ」
「休憩、大事……。リク、約束、した。……オムライス。……ケチャップ多め」
ルナリアは虚無感を漂わせる赤い瞳で俺をじっと見つめ、俺の服の裾をギュッと掴んで離さない。
放っておけば、そのまま消えてしまいそうな危うさがあった。
「わかった、わかったから。……ヒルデさん、ちなみに他の団員の方たちは?」
「みんなはそれぞれ別の任務中よ。帝国にカスタマイズ品の受け取りに出向いたりしているわ。戻るのは数日後になるかしら」
ヒルデさんはそう言って、優雅な足取りで執務室へと消えていった。
◇
キッチンを借りた俺は、包丁を握っていた。
前世の社畜時代、唯一の生きている実感を得られるのが自炊だった。
深夜二時、冷えた台所で卵を焼く時だけが、自分が「システムの一部」ではなく「人間」であると実感できる唯一の時間だったんだ。
ボウルの中で卵を解く。
カチャカチャという、規則正しい金属音。
――その瞬間だった。
脳内に、パッと透過型の立体マップが広がった。
自分を中心に半径数キロ。視界の通らない壁の向こうまで、手に取るように把握できる。
そこには――館を囲む防風林の影に、「5つの赤い点」が浮かんでいた。
「……っ!」
指先が凍りつく。
赤い点はまだ300メートル先。だが、その動きはあまりに統制されていた。
三角形の先端(視線)を館に固定したまま、遮蔽物を渡り歩くプロの歩法。
殺すためだけに調律された、暗殺者の動きだ。
心臓の鼓動が耳元で暴れ出す。俺はキッチンから飛び出した。
「ヒルデさん、敵です! 北側の防風林から5人、接近中。……今の速度なら、あと3分で裏口に到達します!」
俺の声に、ヒルデさんの表情から一瞬で余裕が消え、紫の瞳が鋭く細められた。
「……あら、思ったより早かったわね」
彼女は慌てる様子もなく、傍らに立てかけてあったタクティカル・ヘッドセットを俺に放り投げた。
「ルナリア、仕事よ。――リク、あなたの『眼』で、彼女を導きなさい」
ソファで溶けていたルナリアが、ふらりと立ち上がる。
その瞬間、彼女の瞳から眠気が消え、代わりに剥き出しの刃物のような鋭い殺気が宿った。
その変貌ぶりに、俺の肌が粟立つ。
◇
俺はキッチンの床に膝をつき、マップを睨みつけた。
喉が渇き、胃の奥が不快に冷える感覚。だが、マップ上の「赤い点」は残酷なほど鮮明だ。
ヘッドセットの向こうからは、ルナリアの低く、透き通った声が聞こえる。
『……ルナリア、位置についた。リク、指示を』
「……了解。右側の納屋へ。敵の先鋒がそこを壁にする。……あと10秒。角に来る、待ち伏せて」
俺の言葉に合わせて、マップ上の青い点が静かに移動する。
敵の暗殺者は、角の向こうに「死神」が立っていることなど露ほども思っていない。
三角形の向きが、完全にルナリアから逸れた。
「……3、2、1、今!」
『……了解』
――シュッ!
短い風切り音。
ルナリアが角を曲まがると同時に放たれた、無音の抜刀。
敵は銃を構える暇さえなく、喉を裂かれ、音もなく崩れ落ちた。
一歩、一閃、そして沈黙。
マップ上の赤い点が、ぷつりと消滅した。
「次、裏口の扉横に2人! ルナリアさん、テラスの柵を飛び越えて、そのまま背後へ!」
青い点が、物理法則を無視したような速度で移動する。
俺の指示で「敵の視線」が外れる瞬間を突く彼女は、もはや回避不能な災害だった。
ザシュッ、ザシュッ!
さらに2つの赤い点が、重なり合うようにして消えた。
一方的な殺戮だ。
マップという「全知」を得た「実行兵器」は、戦場においてこれほどまでに理不尽な暴力となるのか。
「残りは北西の生垣。……逃げようとしてる。回り込んで!」
ルナリアの動きに迷いはない。
彼女は俺の声を自分の感覚のように受け入れ、最短距離で敵を追い詰めていく。
逃げ惑う赤い点。それを冷徹に塗りつぶす青い点。
よし、これで全員――。
そう安堵しかけた、その時だった。
マップの端。
館から500メートルほど離れた丘に、孤立した一つの点が浮かび上がった。
その三角形の先端が、壁や窓を透過して、無防備にリビングの窓際に立つヒルデさんを真っ直ぐに捉えている。
「……っ、マズい! スナイパーだ!」
ドォォォォォンッ!!
大気を震わせる爆音。
「ヒルデさん、伏せてええええええ!!」
俺は思考よりも先に身体を動かし、リビングのヒルデさんに飛びかかった。
彼女の細い腰を抱き寄せ、床へと押し倒す。
――シュッ!
突き飛ばした数センチ横を、弾丸が空気を切り裂いて通り過ぎた。
真空に触れたかのような錯覚。
窓ガラスが粉々に砕け散り、背後の高級家具に親指ほどの穴が穿たれる。
「はぁ、はぁ……っ!」
「……リク?」
俺は床に倒れ込んだヒルデさんを庇うように、その上に覆い被さっていた。
腕の中に感じる彼女の体温と、驚きに見開かれた紫の瞳。
ふわりと、硝煙の匂いに混じって、彼女の甘い香水の匂いが鼻を突いた。
普段の余裕に満ちた団長が見せた、一瞬の戸惑い。
「ルナリアさん! 10時方向、時計塔の二階!」
『……捉えた。……もう、逃がさない』
ルナリアの《縮地・零式》が炸裂する。
彼女の足元で石畳が爆ぜ、青い点がマップ上を跳んだ。
500メートルの距離を、彼女はわずか数瞬で詰め寄る。
直後、最後の赤い点が、プツリと消えた。
◇
静寂が戻った。
部屋には砕けた硝子と、火薬の香りが漂っている。
「……助かったわ、リク。まさか、あんな距離から狙われていたなんて」
俺の下で呆然としていたヒルデさんが、ようやく長い息を吐き出した。
彼女の頬が、わずかに赤らんでいる。俺は慌てて彼女から離れ、立ち上がった。
ルナリアが窓から音もなく戻ってくる。その刀には、一滴の血も付いていない。
「……恐らく雇われの暗殺者ね。私が新式の銃を仕入れているのが、気に入らない商売敵がいるみたい」
ヒルデさんが厳しい表情で遺留品を検分する。
だが、俺の胸にはそれ以上の、どろりとした重い感覚が沈殿していた。
(俺の指示で、人が死んだ……)
指先がかすかに痺れている。
罪悪感が、喉元までせり上がってくる。
「……リク」
震える俺の肩に、冷たい手が触れた。
ルナリアだ。
彼女は「死神」の表情を消し去り、いつもの、眠たげな瞳で俺をじっと見つめていた。
「……オムライス。……限界。……早く」
彼女の声は、どこまでも平坦で、日常的だった。
俺は、拍子抜けしたように溜息をついた。
この戦場のような日常の中で、彼女の「怠惰」だけが、俺を現実繋ぎ止めてくれる。
「……ああ、わかったよ。すぐ作る。ケチャップ多め、だったな」
震える手をエプロンで拭い、俺はキッチンへと戻った。
窓の向こう、荒野に日が沈んでいく。
この硝煙の匂いと、甘いケチャップの味が、俺の新しい日常の香りになりそうだった。




