第17話:砂漠の鼓動
「……おはようございます、リクさん。現実に、おかえりなさい」
リビングの扉を開けた瞬間、眼鏡の奥で冷徹な光を放つモニカさんの瞳と衝突した。
その手には、鈍器と見紛うばかりの厚みを持った書類束。
「おはよう、モニカさん。……その、手に持ってる不穏な塊は何かな?」
「何、と言われましても。アルマラカン事後処理報告書に決まっているでしょう。あと、ルナリアが食べた高級プリンの領収書と、レイナさんが悦びのあまり破壊した備品の修理見積もりです」
「……。心臓に悪いから、朝一番で見せないでくれるかな」
ブラック企業時代、出社後すぐに「炎上案件の進捗、まとめておいたから」と上司にファイルを投げつけられたあの感覚。
異世界に来ても、この絶望からは逃れられないらしい。
キッチンでは、まだ半分夢の中を漂っているようなルナリアが、椅子に深く沈没していた。
「……リク。……重力、昨日より、五倍……。……シーツが、私を離してくれない……」
「それは単に二度寝したいだけだろ。ほら、朝飯だ。今日はトーストと、ちょっと良いベーコンを焼いたぞ」
「……。ベーコン。……。一歩だけ、意識の表層まで、浮上する……」
そんな賑やかな朝の風景。かつての俺には想像もできなかった、騒がしくて温かい時間。
だが、その空気はヒルデさんがリビングに足を踏み入れた瞬間に、凛としたプロのそれに切り替わった。
「おはよう、みんな。――モニカ、アルマラカンの分析、出たかしら?」
「ええ。……。正直に言って、あまり休暇を楽しめるような内容ではありませんね」
モニカさんが机の上に、一枚の戦略地図と物流フローチャートを広げた。
◇
「アルマラカンの国有化。これにより、シンラク商連合は南方の主要な収益源を一つ失いました」
モニカさんの指が、地図上のアルマラカンから、西に位置する砂漠の国『ルズマール魔導国』へと移動する。
「ですが、シンラクのようなハイエナが、ただ黙って引き下がるはずがありません。……。見てください。シンラクの物流拠点からルズマールへ、異常な量の弾薬と精密部品が流れ始めています」
「ルズマール。……。帝国の技術を模倣している、あの砂漠の国ね」
ヒルデさんの紫の瞳が、鋭く細められた。
「ええ。アルマラカンで失敗した『恐怖による武器販売』。シンラクは、そのターゲットを完全にルズマールに絞ったようです。……。ルズマール国内では、反体制組織『ゼロ・ヴァス』によるテロが頻発しています。テロの対策として軍が焦って兵器を買い揃え、そのしわ寄せで民衆が飢え、さらにテロが加速する……」
「典型的な悪循環ね」
ヒルデさんが冷たく言い放つ。
その言葉の裏には、同じ武器商人として、そのやり口を「美しくない」と断じる嫌悪が滲んでいた。
「アルマラカンの平和はまだ、薄氷の上に立っているわ。ルズマールでの火種がアルマラカンへ飛び火すれば、私たちが築いた均衡は一瞬で崩れ去る……」
ヒルデさんは、俺を真っ直ぐに見つめた。
「リク。……。このまま事態を静観するのは、商人としても、ヴァルキリアとしても不利益が大きすぎるわ。……。ルズマールへ行きましょう」
「……。商談、ですか?」
「ええ。……。ルズマールの軍拡の状況を調査し、私たちの『均衡』を売り込むのよ。……。潜入調査と、直接交渉。二面作戦になるわ」
◇
拠点のロビー。
出立の準備を整える俺の前に、ヒルデさんが立った。
「……。リク、分かっているわね。私は今回、この拠点に残るわ」
「……。団長が留守番、ですか?」
「アルマラカンの連邦政府との国有化に関する政治折衝。そして、商連合からの法的・経済的嫌がらせへの対処。……。これらは私がここで睨みを利かせていないと、一週間でひっくり返されるわ」
彼女は少しだけ悔しそうに、けれど誇らしげに胸を張った。
「今回のメンバーは、リク。あなたと、モニカ。そして護衛としてリディアよ」
「私が、リクさんの監視役……失礼、現場の管理を拝命しました」
モニカさんが、事務用ボードを脇に抱えて一礼する。その隣では、リディアが既に自分の背丈ほどもあるライフルバッグを担ぎ、どこか不安げに俺の服の裾をチラチラと見ていた。
「……。リク、さん。……。砂漠でも、私の手を離さないでくださいね。……。砂の粒子が、世界を……世界を塗りつぶし、私の座標を狂わせようとする予感がします……」
「大丈夫だよ、リディアさん。まだ砂漠どころか玄関も出てないから」
いつもの光景。
だが、見送るヒルデさんの瞳には、いつもの余裕とは違う、微かな揺らぎがあった。
「現場の判断は、すべてリク。指揮官であるあなたに任せるわ。……。あなたは私の『目』なのだから」
「……。了解です、団長。……。雑用係の出張としては、少し遠出になりますが……完璧にこなしてみせますよ」
俺の言葉に、ヒルデさんは満足そうに微笑み、俺の肩をポンと叩いた。
「ええ。期待しているわ。……」
◇
その日の深夜。
出発を数時間後に控え、俺はなんとなく寝付けずにいた。
喉の渇きを潤そうとリビングへ降りると、バルコニーへ続く窓がわずかに開いており、夜風がカーテンを揺らしている。
そこには、一人で月を仰ぐヒルデの背中があった。
「……ヒルデ。まだ起きてたのか」
呼びかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。
振り返った彼女は、軍服のボタンを少し外し、いつもの『団長』としての鎧を少しだけ緩めているように見えた。
「リク……。ええ、少し、夜風に当たりたくなってね」
俺は彼女の隣に並び、手すりに手を置いた。
昨夜、俺の胸で子供のように泣きじゃくった彼女。その残り香が、まだ俺の記憶にこびりついている。
「寂しい、って顔をしてるぞ」
「……。生意気ね。私はヴァルキリアの団長よ。部下の出張を寂しがるなんて、商人の格が下がるわ」
そう言って彼女は強がってみせるが、その紫の瞳は揺れていた。
ヒルデは俺の右手をそっと取り、自分の両手で包み込んだ。
「……。気をつけて。ルズマールは、アルマラカンよりもずっと冷酷な国よ。数字と効率がすべてを支配し、そのこぼれ落ちた先にテロの火種が燻っている……」
「分かってる……」
「……必ず、無事で戻ってきなさい。……。あなたが隣にいてくれないと、私の不眠症がまた再発してしまいそうだわ」
「ああ。……。行ってくるよ、ヒルデ」
月光の下で交わした、短い約束。
彼女の華奢な背中を最後に見送った時、俺はこの場所を『家』として守り抜く決意を、改めて胸に刻んだ。
◇
そして翌朝。出発直前の装備チェックでのことだ。
「……。よし、弾薬、予備の魔晶石、保存食……。リディアさん、ライフルの調子はどうだ?」
俺の問いに、リディアさんは真面目な顔で、愛銃『アステリズム』を撫でながら答えた。
「問題ありません。……。この前、しっかりとメンテナンスを済ませましたから。……。動作は完璧、私の指先と完全に同期しています」
「この前? ……。ちなみに、それっていつのこと?」
「ええと……三ヶ月ほど前でしょうか」
「……。三ヶ月?」
俺は思わず耳を疑った。エルフの寿命が長いのは知っているが、機械のメンテナンス周期までエルフ時間で計算されてはたまらない。
「リディアさん。……。砂漠の砂は、どんな精密機械の隙間にも入り込むんだ。三ヶ月も放置してたら、一発撃っただけで作動不良を起こすんじゃない?」
「えっ!? ……。そんな。……。エルフにとっての三ヶ月は、人間にとっての三分ほどのはずです。……。世界が、また私を騙そうとしているのですか……?」
「世界は騙してないよ。単に時間感覚がポンコツなだけだ」
溜息をつく俺に、居合わせたモニカさんが補足した。
「……。だから言ったでしょう。現地には、ヴァルキリア専属の銃器整備士である『ローラ』が滞在しています。……。彼女に預ければ、リディアさんのポンコツな時間感覚もろとも、銃を叩き直してくれるはずです」
「ローラ、か……。ドワーフの『アネゴ』って聞いてるけど、まともな人だといいんだが」
「……。ヴァルキリアに『まともな人』がいると思っているなら、リクさん、あなたはまだこの組織の底知れぬ深淵を理解していませんね」
モニカさんの辛辣な一言に、俺は遠い目をした。
アルマラカンでのレイナさんを思い出す。……うん、モニカさんの言う通りだ。
◇
俺たちは、国境を越えるための『魔導輸送列車』に乗り込んだ。
石炭の煙ではなく、魔力の余剰熱が吐き出す青白い蒸気がホームを満たしている。
俺たちが陣取ったのは、物資輸送車両の隅にある簡素な客室だ。
「……。それにしても、警備が厳重すぎないか?」
列車の窓から外を覗くと、最新鋭の自動小銃を構えたルズマール治安局の兵士たちが、鋭い視線を周囲に走らせている。
乗客たちの顔も一様に暗く、ヒソヒソと交わされる会話からは「爆破」「ゼロ・ヴァス」といった不穏な単語が漏れ聞こえてくる。
「ルズマール国内のテロは、もはや日常の一部ですから。……。特に、この『資源輸送ルート』は彼らにとって絶好の標的です」
モニカさんが淡々と資料をめくりながら言う。
列車が重厚な駆動音を立てて動き出した。
次第に緑が消え、窓の外には果てしなく続く黄金の砂漠が広がり始める。
その地平線の先、陽炎のように揺れる空間の向こう側に、ルズマール全土を包み込む巨大な『冷却結界』の青白い輝きが見えた。
「……。マッピング、起動」
俺は脳内でスキルを走らせた。
視界に広がる透過地図。
列車が進むレールの先、砂漠の各所に点在する『赤い点』の群れ。
それは軍の拠点か、それとも――。
「……。どうやら、退屈な電車の旅にはなりそうにないな」
俺は、腰に下げた魔導双眼鏡を握りしめた。
二度目の人生、次なる戦場は――灼熱とシステムが支配する、砂漠の迷宮だ。




