第16話:硝煙の消えぬ夜
漆黒の六輪駆動車――ヴァルキリア号が、見慣れた拠点の洋館へと滑り込んだ。
タイヤが砂利を噛む音。エンジンの残響が止み、訪れる静寂 。
アルマラカンでの、あの焦げ付くような戦いが、ようやく一つの区切りを迎えたのだ。
「……着いた。ようやく、重圧から解放されるにゃ……」
車を降りるなり、アイリスが伸びをする。猫耳がパタパタと小刻みに震え、しなやかな尻尾が地面を軽く叩いた 。
だが、安堵に浸る俺たちの前に、その「門番」は仁王立ちで待っていた。
「……お帰りなさい、皆様。想定より遅い帰還ですね」
知的な眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせ、事務用のボードを手にしたモニカさんだ 。
彼女は一歩も動かず、埃にまみれた俺たちを見つめる。
「モニカ。ただいま戻ったわ。……さあ、早速だけど仕事の話よ」
ヒルデさんが優雅に、けれど一切の容赦なく、アルマラカンで奪い取った「汚れた帳簿」と「不当契約の束」を、モニカさんの腕にドサリと積み上げた 。
「これの精査、商会側の違法性の立証、そして新たな物流ルートのシミュレーション。……明日までに大枠を頼めるかしら?」
モニカさんの表情が、一瞬で「死んだ魚」を通り越して「虚無」になった。
「……団長。私があなたのことを『血も涙もない死の商人』と呼ぶのは、もはや比喩ではなく、単なる事実確認だと理解してください。異世界には過労死という言葉があるそうです! この量を一晩? あなたの血は何色ですか?」
眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、モニカさんは凄まじい勢いで毒を吐く 。
だが、彼女は帳簿の束の一番上――ヒルデさんがこっそり紛れ込ませていた「アルマラカン孤児院への寄付予約票」を目にすると、小さく鼻を鳴らした 。
「……。ふん、相変わらず利幅の計算を感情で狂わせる人ですね、あなたは。これでは私が裏で数字を合わせないと、ヴァルキリアは一週間で破産ですよ」
そう言って、彼女は呆れたような、けれどどこか嬉しそうな微笑を浮かべて、書類を抱えたまま事務室へと消えていった。企業戦士としての同族意識だろうか。俺も少し、胃が痛くなった。
◇
リビングに入ると、今度は「別の波」が俺を襲った。
「リクさん……っ!」
不意に、右腕に凄まじい重みがかかった。リディアだ 。
彼女は俺の服の裾を、今にも引きちぎらんばかりの勢いで掴み、俺の肩に顔を埋めている 。
「リディアさん? どうしたんだ、そんなに震えて」
「……。あなたがいない間、この拠点の座標は明らかに狂っていました。玄関からキッチンまでの距離が、日によって伸び縮みし、階段の段数は常に変動していました。世界が……世界が私を拒絶しようと、歪んでいたのです……!」
「……。いや、それ、単に迷子になってパニックになってただけだよね?」
「いいえ! 世界が歪んでいたのです! あなたという北極星がいなければ、私のコンパスは世界の果てまで迷走し、私はこの館のクローゼットの中で一生を終えるところでした……っ!」
大真面目な顔で、とんでもない迷子哲学を語るリディア。どうやら俺がいない数日間、彼女にとってこの洋館は「攻略不能なダンジョン」と化していたらしい。
「旦那ぁ! リディアばっかりずるいにゃ! 今日はアイリスが全力で旦那を温めてあげるにゃん!」
今度は左からアイリスが飛び込んできた。彼女は「にゃふん」と喉を鳴らしながら、俺の首筋に自分の頬をスリスリと擦り付けてくる 。
「故郷の平和を守ってくれたお礼に、アイリスの匂いをたっぷり付けてあげるにゃ。これで、どこに行っても旦那はアイリスのものだにゃん!」
「マーキングしないで! 俺、一応人間だから!」
「……。リク。……。うるさい。……。限界」
騒ぎを遮るように、ルナリアが俺の正面に立った。
彼女は眠たげな赤い瞳で俺をじっと見つめると、俺の腕をがぶりと噛むフリをした 。
「……。胃袋が、宇宙。……。肉。あと、口の中でとろけて、一瞬で糖分に変わる甘いやつ。……。今すぐ。……。でないと、リクの指、食べる。……。まずは人差し指から」
「わかった、わかったから! 今すぐキッチンに立つから待ってくれ!」
一方、リビングの隅ではレイナさんが自分の巨大な盾を愛おしそうに磨いていた。
「リク殿! 見てくれ、この凹み! 商会の私兵たちの弾丸が、こんなにも激しく私を愛してくれたのだ! ……。ああ、この傷を直すための修理費を見て、モニカさんがどんな冷たい視線を投げかけてくれるか……今から楽しみでならない……っ!」
……。ヴァルキリアのメンバーは、やっぱりどこか……というか、根本的に狂っている。
でも、このカオスな空気に触れて、俺の心のどこかが「ああ、帰ってきたんだな」と安堵していた 。
◇
賑やかな宴――という名の、俺の「連続調理マラソン」が終わり、夜が更けた。
満腹になった団員たちがそれぞれの部屋で夢の中へ落ちた頃、俺は喉の渇きを覚えて、キッチンへ降りた。
照明を落とした室内。窓から差し込む青白い月光が、床に長い影を作っている。
そこで一人、テーブルについている人影があった。
「……団長?」
ヒルデさんだった 。
彼女は白い将校コートを椅子に掛け、黒い軍服姿のまま、冷めた紅茶のカップをじっと見つめていた。
昼間の圧倒的なカリスマのオーラは消え、少しだけ肩を落としたその背中は、驚くほど華奢で、小さく見えた 。
「リク……。起こしてしまったかしら?」
「いえ。……。ヒルデさんは寝ないんですか?」
俺が隣の椅子を引くと、ヒルデさんは力なく微笑んだ 。
「……。ええ。……。実を言うとね、私、この商売を始めてから……あまりよく眠れないの」
彼女の指先が、わずかに震えているのが見えた 。
魔導リボルバーを握り、数キロ先の機能を撃ち抜くときには、あんなに安定していた彼女の指が、今は、たかだか数百グラムのティーカップをまともに持てずにカチカチと音を立てている 。
「勝ったのに、疲れた顔をしてますね」
「……。そうね。……。勝つたびに、誰かが泣き、誰かが死ぬ。……。たとえそれが平和のための均衡であっても、私が人殺しの道具を売っている事実に変わりはないもの」
ヒルデさんは月光を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「私の故郷はね、かつて平和な小国だったわ。……。でも、ある時、帝国が銃を開発した。彼らは交易のために、旧式の銃を安値でバラ撒いたの」
紅茶の湯気が、彼女の紫の瞳を曇らせる。
「その銃の脅威に対抗するために、昨日までクワを握っていた隣人たちが、今日は銃を握り、口径の規格すら知らないまま、ただ引き金を引くことを覚えた。……。数ヶ月よ。たった数ヶ月で、私の故郷は紛争地に変えられたわ」
彼女の声が、微かに震える。
「目の前でね、父も母も……撃たれたの。……。銃が悪いんじゃない。無秩序に、悪意を持って流れる銃が、世界を殺すのよ。……。だから私は決めた。……。私がこの世界の銃の流れをすべて支配してやるって」
彼女は、自分に言い聞かせるように言葉を続けた 。
「世界で一番嫌いな『武器商人』になって、平和を買い取ってやる。……。笑っちゃうでしょう? 誰よりも武器を憎んでいるのに、私の手は、もう二度と洗えないほど硝煙で汚れているんだから」
彼女はそう言って、自嘲気味に目を伏せた 。
その横顔には、10代の少女が背負うにはあまりに重すぎる、冷徹な孤独が刻まれていた 。
前の世界での俺は、システムの歯車として磨り潰される同僚を、ただ黙って見ていることしかできなかった。誰も救えず、自分も壊れて、逃げるようにこの世界へ来た。
でも、今は違う。
「……向こう側の景色を、俺も一緒に見ますよ。団長」
俺は立ち上がり、彼女の華奢な肩を、背後からそっと抱きしめた 。
「……! ……リク……?」
「団長が背負っているものの重さは、俺には測りきれません。……。でも、俺には分かります。団長のその判断があったから、アルマラカンの子供たちは今日、自分の家で眠れているんです」
腕の中に伝わる彼女の体温 。それは驚くほど熱く、そして、壊れそうなほど小刻みに震えていた 。
俺はさらに力を込めて、その細い体を包み込む。
「あなたは死の商人なんかじゃない。……。誰よりも優しくて、不器用な……未来の担い手です」
「……。う、嘘よ……。私は……、私は、もっと冷酷な……っ……」
「嘘じゃありません。……。あなたが眠れない夜は、俺が隣にいます……。だから、大丈夫ですよ。ヒルデさん」
その瞬間、彼女を支えていた最後の「鎧」が、音を立てて崩れ去った 。
「……っ……、ぅ……あぁ……っ……」
ヒルデさんは俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き始めた 。
軍服の胸元が、彼女の涙で濡れていく。
硝煙の匂いではない、彼女自身の甘い、けれどどこか懐かしい香りが俺の鼻腔を満たした 。
どれほどの時間、そうしていたのか。
やがて泣き疲れた彼女は、俺の胸の中で、静かに寝息を立て始めた。
俺は彼女を横抱きに抱え上げると、そっと二階の寝室へと運ぶ。
ヒルデさんの寝室は、アンティーク家具の落ち着いた木の香りと、微かに残る魔導銃のオイルの匂いが混じり合い、そして可愛らしい人形が並んでいた 。
その夜、ベッドに横たわった彼女は俺の手を離そうとせず、子供のようにギュッと握りしめていた。




