第15話:通行証と規格
夜明け前の風は、港の硝煙を薄く引き伸ばしながら、川面へと流していった。
ミラド港の外れ。焚き火のそばに毛布が並べられ、その上に小さな塊がいくつも丸まっている。
狼人族の子供たちだ。
泣き声は、もう大きくない。
代わりに、息を吸うたびに喉がひくつく音とか、毛布の縁を千切りそうなほど握りしめる指の動きとか――声にならない恐怖が、耳に刺さる。
「……しー。大丈夫だ。ここはもう、安全だよ」
俺は、一番近くで震えていた子の頭を撫でた。
それが“正解”かどうかは分からない。ブラック企業で同僚が心を病んで壊れていくとき、俺は何もできなかった。
マニュアル通りの慰めの言葉なんて、後から自分を殴りたくなるだけだと知っている。
「……リク。お肉、焼く?」
隣でルナリアが、子供たちに毛布を掛け直しながら小声で聞いた。いつもの眠たげな声なのに、その瞳だけが冷たく冴えている。
「子供たちが落ち着いたらな。今は、温かい水とスープだ」
「……ん。……わかった。……私、火の番。……ルナリア・クッキング」
ルナリアは無表情のまま、器用に火をおこし始めた。
アイリスは子供たちの間を静かに歩き、故郷の言葉で短い歌を口ずさんでいた。それは通訳でも慰めでもない、ただ“帰る場所の音”だ。そのメロディに誘われるように、泣き止む子が増えていく。
少し離れた場所では、レイナさんが盾を膝に置き、弾痕のついた表面を布で拭いていた。
いつもなら「ああ……この凹みが……っ!」と恍惚の表情を浮かべる場面だが、今は違う。碧い瞳にあるのは、静かな護衛の顔。彼女もまた、この不当な現実に憤っているのだ。
「リク。少し、いいかしら」
ヒルデさんが、俺を呼んだ。
夜明け前の薄紫の空の下。白い将校コートを羽織った彼女は、血と泥に汚れた港でも、月下美人のように凛として見えた。
けれど、その紫の瞳は、いつもより深い疲れを隠していた。彼女の手には、採掘場から奪い取った帳簿と、押収した商会の印章(徴収印)がある。
「救出は成功。港の物流も一つは潰したわ。……でも、これで終わりじゃない」
「……今のままじゃ再発しますよね。別の檻が、別の場所で作られる」
「ええ」
ヒルデさんは、淡々と肯定した。でも、その声は冷たいだけじゃない。どこか、自分自身の不甲斐なさを噛みしめているように聞こえた。
「武器を売れば均衡は作れる……ずっと、そう思っていた。けれど、このアルマラカンは、均衡以前に“首輪”を付けられているのよ。通行証。弾薬規格。債務担保。そして、恐怖を煽る噂。全部が鎖なの。この国を裏で操り、血を吸い続けてきたシンラク商連合……奴らが仕掛けたこのシステムを壊さない限り、平和なんて土台から崩れるわ」
彼女は帳簿の一頁を、細い指で強く弾いた。
そのとき、背後で苦悶の声がした。
担架の上で、ガルム族長が治療を受けていた。肩を撃たれ、自慢の毛並みは血で黒く固まっている。
だが、その目は死んでいない。彼は、族長としての「面子」を捨てた代償に、戦士としての「誇り」を取り戻していた。
「……部族会議を、開きましょう」
ヒルデさんが、決然と言った。
「この国が、自分の首輪を自分で外すための会議よ。私が“ルール”を売り、彼らが“自律”でそれを買う……」
「団長……」
「子供が泣く市場なんて、私の美学に反するわ。……リク。あなたの《マッピング》で、周辺の安全を確保しなさい。……私の背中は預けるわよ」
ヒルデさんは、前を見据えたまま、視線だけを俺に向けた。
「……預けられる側は、胃が痛いんですが」
「胃が痛いのは、責任ある仕事を任されている証拠よ」
彼女はふっと笑い、俺の襟元を軽く正した。その指先が一瞬だけ俺の喉元に触れ、ひやりとした冷たさと、微かな震えが伝わってきた。
「……リク。……あなたが隣で頷いてくれるだけで、私は……私を、見失わずに済む」
◇
翌日、アルマラカンの首都グラウルの外縁。
巨大な「大水門」の広場で、緊急の部族会議が開かれた。
俺は《マッピング》を起動し、透過地図を視界に重ねる。
「……。虎人族、熊人族、豹人族、兎耳族、犬人族、狼人族……。他部族含め全部揃ってます。でも、空気は最悪だ」
「想定内よ、リク。不信感こそが、商会の最大の武器だったんだから」
祭壇の上に、ガルムが立った。片腕を吊り、包帯姿の痛々しい姿だが、その存在感は圧倒的だった。
「……。聞け、同胞たちよ!」
ガルムの声が、広場に反響する。
「俺は狼人族のガルムだ。港で暴れ、商会の荷を奪った……。裏切り者と呼びたければ呼べ。だが、子供を売ってまで守る面子なんぞ、俺は要らん!!」
怒号とざわめきが上がる。虎族の戦士が立ち上がり、槍を叩きつけた。
「狼が吠えるな! 貴様のせいで補給が止まればどうする!」
「補給!? 笑わせるな、そんなものは首輪の鎖だ!」
ガルムが、ヒルデから預かった帳簿を地面に投げ捨てた。
「商会は、俺たちに銃を売る裏で、自分たちの子供を奴隷として売っていただんだぞ……。それが、あんたたちは良しとするのか!?」
場が静まり返る。そこへ、ヒルデさんが一歩前に出た。
「商人として、一つ提案をさせて」
彼女は、俺が前の世界で見てきた「悪質な下請けいじめ」の構造を、この世界の言葉で鮮やかに解体していった。
「第一の議題、通行証について。これからは、商会の『徴収印』を無効化します。代わりに、部族連盟による『連名印』を導入しなさい。議長、穀倉地帯の長、要衝を守る長の三者の印が揃わなければ、通行証は発行できない。一人の独走は許さない。けれど、一人の意向で物流が止まることもない」
それは、分散管理の考え方だ。一人が権限を握れば腐敗する。なら、監視し合う仕組みを作ればいい。
「第二の議題。弾薬と修理について。私たちヴァルキリアは、共通規格を定めます。修理技術は無償で公開。工房は部族混成で運営しなさい。……。弾が買えない銃を売るような真似は、私のプライドが許さないの」
「独占しないというのか!? 武器商人が!」
「独占するのは三流よ。……。私は、あなたたちが自力で立ち上がる姿に投資したいの」
◇
だが、そこへ広場の入り口から、よく通る爽やかな声が割り込んできた。
「おやおや、盛り上がっていますね。……。ですが、契約の履行は別問題ですよ」
姿を現したのは、シンラク商連合の使者だった。白い清潔な服を纏い、武装した用心棒を連れている。
「我々は正当な手続きで債務を貸し付けました。担保の差し押さえは正当な権利です。拒むというなら、アルマラカンは国際的な信用を失い、飢えることになりますよ?」
合法という盾を構えた、最悪の暴力。獣人たちは沈黙し、恐怖に顔を歪める。
「……。ヒルデさん」
「ええ。分かっているわ、リク」
ヒルデさんは、優雅に、使者の前に立った。
「契約の履行? 面白いことを言うわね。……。その『契約』、この国の言葉に正しく翻訳されていたかしら? 理解なき署名は詐欺よ。通訳を雇ったのは、あなたたちでしょう?」
「……何を仰る。不当な言い掛かりだ」
「言い掛かりかどうか、帳簿と照らし合わせましょうか。さらに商会には、選択肢を与えるわ」
彼女は指を立てた。
「一つ。重大な契約違反に基づく解除。二つ。運河・関所の国有化。公益のために運用権を国が取り戻す。……国有化よ」
その言葉に、使者の顔色が変わった。国有化。それは民間企業にとって死刑宣告に近い。
「だけど、国有化するとしても清算が必要ね。補償ゼロでの強制執行は次の火種になる。だから『差押え・相殺・再交渉』を提案するわ。商会が通行証を止めて作った損害、誘拐で生じた損害。それを“商会側の債務”として計上し、この国の人々の借金と相殺するの。……。国の喉元を担保にするような非人道的な契約は、そもそも公序良俗に反して無効よ」
理屈が通る。怖いほどに通る。数字で殴って、契約の形をした首輪を切るやり方だ。
「……。だが、商会が物流を握っている以上、こちらが切れば飢える。武器も弾も止まるぞ」
使者の必死の反論に、ヒルデさんは図面を広げた。
「だから代替物流よ。狼人族の地形と他部族の狩道を繋げば、商会のダムは無意味になる。弾薬規格を統一し、工房を自分たちで回せば、もうあなたたちに頼る必要はない。……。商会が怖いのは戦士じゃない。国としての自律よ」
この言葉で、広場の何かが変わった。
「……。ここまで話しても、反発は出る。だから今日決めるのは二つだけ。通行証の発行権を商会から取り戻すこと。そして、商会を“清算”のテーブルに着かせること。拒否すれば、その瞬間あなたたちは『取引相手』ではなく『侵略者』と見なされ、国有化が実行されるわ」
ヒルデさんの刃のような言葉が、使者を射抜く。ガルムが立ち上がり、広間を見回した。
「……。未来を守る。これが俺の決定だ。反対するなら、今ここで言え」
沈黙を破ったのは、豹族の長だった。
「……うちも子が攫われた。俺は……反対しない」
「通行証を商会に握られてる限り、いずれ死ぬ。賛成だ」
熊族、そして虎族までもが頷いた。
「商会への通行証権限付与は、これをもって停止する」
中央の使者が喉を鳴らしながら宣言した。ゆっくりと、でも確実に、首輪の金具が外れる音がした。
◇
会議が終わり、ガルムが外で立っていた。
「……商会は必ずまた来る。怒る。脅す。金を要求するぞ」
「その時は追い払うだけよ。自律したあなた達にならできるでしょ?」
ヒルデさんが淡々と答える。
「……ああ。他人に踊らされるのはもう終わりだ。子供達が泣かない未来をつくるために」
戦いは終わっていない。けれど、今日は確かに勝った。
銃で勝ったんじゃない。“ルール”を取り戻す一歩を踏み出したんだ。
「……。お腹空いた。……。お肉、二倍。……リク、作って」
「警護任務完遂です! ああ、盾の傷跡が勲章のように輝いて見えます……っ!」
「旦那、これで故郷も少しは呼吸できるにゃ」
それぞれの言葉。それぞれの日常。
「帰りましょう、団長。……。モニカさんの残業報告、怖いですけど」
「……。それだけが、この遠征最大の誤算ね」




