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第12話:空っぽの檻

 狼人族の集落――それは切り立った崖の上に築かれた、古びた石造りの要塞だった。


 谷を見下ろすようにそびえる城壁。狭い門。外周に巡らされた見張り台。

 ただの村じゃない。ここは「攻められること」を前提に、牙を研ぎながら生き残ってきた者たちの巣だ。


 門前で、灰色の毛並みの長老たちが俺たちを睨む。

 背後の若い戦士たちは剥き出しの歯を隠そうともせず、銃口をこちらに向けたまま、彫像のように動かない。


 ――普通なら、ここで攻撃されて終わりだ。

 余所者が、しかも硝煙の匂いを撒き散らしながらやってきた。


 話を聞くどころか、門の外で「射撃訓練の的」にされても不思議じゃない。

 その“本来の結末”を無理やりねじ曲げているのが―― アイリスだった。


「……ガルム族長に、話は通してあるにゃ。今日は喧嘩しに来たんじゃないにゃん」


 彼女は一歩、門の前に出る。両手は見える位置に。尻尾を低く垂らし、耳を伏せる。

 猫の軽薄さを消し、獣人社会の礼儀に寄せた、隙のない所作だ。


「“食料と薬”を売りに来たにゃん」


 長老たちの目が、さらに険しく細くなる。

 「薬」と「食料」。


 それは今の彼らにとって、喉から手が出るほど欲しくて、同時に、死ぬほど恐ろしい言葉だ。

 毒かもしれない。罠かもしれない。

 だからこそ、本来なら受け取らない。


「三日前、ここの見回りの若い衆に、アイリスが“先に”渡してあるにゃ。配ったのはパンと包帯。……だから、今日は“同じもの”を持ってきたにゃ」


 ――根回し。

 彼女は独りでここへ入り、最小限の物資を渡し、最小限の借りを作っていたのだ。


 “恩”じゃない。“信頼”ですらない。

 ただ、「今すぐ撃ち殺すには惜しいかもしれない」という、一ミリの余地を残すための、ぎりぎりの一手。


 ヒルデさんが、重厚な荷箱を開ける。

 並ぶのは医療キットと保存食。包帯、止血剤、強力な抗生剤。高カロリーの乾パン。


 ヒルデさんの差し出した品を、長老のひとりが奪い取るようにして唸る。

 疑いは消えない。だが――耳は、確かに開いた。


「……入れ」


 短い命令。

 銃口はまだ下がらない。だが、門が重い音を立てて開いた。


 俺は、止めていた息を静かに吐き出した。

 アイリスがいなければ、ここには辿り着けなかった。



 砦の中に一歩踏み込んだ瞬間、俺は違和感に胃が冷えた。

 静かすぎる。

 広い中庭に立っているのは、武器を持った壮年の男女ばかりだ。


 子供がいない。

 若い女の姿も、ほとんどない。

 “戦う者”だけが剥き出しで残された、不自然な要塞。生活の気配だけが、ごっそりと抜け落ちている。


「……攫われたにゃ」


 アイリスの声が、地べたを這うように低かった。

 狼人族の族長――ガルムが現れた。


 巨躯の狼。顔中に刻まれた古い傷。鋭い、だがどこか疲弊した瞳。

 彼は拳を血が滲むほど握り込み、吐き出すように言った。


「夜になると、消える。女と子供が。中央に助けを求めても、『自分たちでなんとかしろ』と。――我らは、捨てられたのだ」


 俺の胸の奥が、冷たく締まった。

 憎しみが燃料になり、恐怖が通貨になり、武器が商品になって――。

 最後に、人間が商品になる。


「誰に攫われた?」


 俺の問いに、ガルムの声が震えた。


「獣人だ。だが奴らは、見たこともない『新しい銃』を持っていた」


 背筋がぞわりとした。

 ヒルデさんの目が細くなる。


 怒りではない。あれは――純粋な嫌悪だ。

 彼女は平和を望む。だからこそ、現実的な均衡を売る。

 それなのに、目の前にあるのは武器よりずっと汚い“商売”だった。



 アイリスが、静かに一歩下がった。そして、砦の影から滑り出る。

 最初からそこに“いなかった”みたいに、気配を霧のように消して。


「旦那。……こっち」


 砦の裏手。彼女の声は小さく、けれど鉄のように硬かった。


「砦に来る前に、あちこち話を聞いて回ったにゃ。わだちの深さ、見張りの交代の癖。……全部、同じ方向だったにゃ。ここから北に三キロ。古い採掘場の跡地だにゃん。……風下で、泣き声がしたにゃ」


 ヒルデさんが、短く息を吐いた。


「行くわよ。武器を売る前に、嘘を止める。そして――泣いてる子を『回収』するわ」


 俺は《マッピング》を起動し直す。

 半径二、三キロ。採掘場は、ギリギリ範囲内だ。


 三次元の地形が頭の中に透けて立ち上がる。

 赤い点――約五十。配置は雑だが、逃げ場を塞ぐように散らばっている。


「配置、掴んだ。……敵は五十近い。練度はバラバラだ。正規兵じゃない。……金で買われた『雇われ』だな」


「なら、勝てるわ」


 ヒルデさんの言葉を合図に、部隊が動く。

 ルナリアが俺の裾を掴む。眠たげな声なのに、その指先はわずかに震えていた。


「……早く終わらせて。……子供が、泣いてるの、嫌い」



 採掘場跡は、崩れた柵と錆びた滑車が残るだけの死んだ場所だった。

 だが今は、そこに嫌な活気がある。


「行きます! リク殿、指示を!」


 レイナさんが盾を地面に突き立て、全魔力を練り上げる。


「《聖光の盾・最大出力》!!」


 キィィィィン! と大気が共鳴し、純白の障壁が広がる。


 そこへ、敵の斉射。


 ドガガガガガッ!


 銃声が山々に反響し、砂が跳ね、石礫が飛ぶ。

 だが、障壁の前に立つレイナさんは――不敵に笑っていた。


「さあ! 来い! 私の盾を、その安物の弾丸で汚してみなさい!」


「ルナリア、右の通路! 三、二、一――今、角を曲がる四人を叩け!」


「……了解」


 ルナリアの身体が、一瞬で景色に溶けて消えた。

 次の瞬間、右側の赤い点が四つ――まとめて消滅する。


 ヒルデさんは車上に立ち、黄金のリボルバーを構えた。

 狙うのは人ではない。後方の輸送馬車だ。


「逃げ道をなくす」


 バァンッ! バァンッ!


 放たれた魔導徹甲弾が、輸送馬車の車輪を正確に粉砕し、軸を折る。


「ルナリア、地下へ降りる階段だ! レイナさん、左へ半歩、射線を開けて!」


 戦闘は、一方的だった。

 だが、地下へ向かったルナリアから、通信機越しに短い声が入る。


『……着いた』


「救出できるか?」


 一拍。重い沈黙。


『……檻、空っぽ』


 ――え?

 俺の喉が、凍りついた。


『……縄の跡。……まだ新しい。……急いで運んだ匂い。……もう、いない』


 俺はマップを凝視する。

 檻の位置に赤い点はない。代わりに、地上の敵が慌てて逃げ始めようとしていた。


 俺たちは、残った敵を制圧した。

 地上に転がる豹の獣人を、レイナが乱暴に掴み上げる。


 痩せこけて、目は空洞のように虚無的だ。


「……子供たちはどこだ」


 豹は血を吐きながら、嘲笑うように言った。


「……売ったよ。……俺たちも、借金で村を潰された。商会のやつらが言ったんだ。『攫って連れてこい。そうすりゃ弾とパンをやる』ってな……」


 恨みより、救いようのない疲労に近い声だった。


 ヒルデさんが、崩れた小屋の中から一冊の帳簿を引きずり出してきた。


 搬入日、印章、数字。

 彼女は一枚だけ見て、静かに、けれど氷のような声で言った。


「……移送済みね。中継市場、そして港。……『次の積み荷』として」


 その指先が、わずかに震えている。

 怒り。そして、それ以上に嫌なもの――同じ「商人」という立場にいることへの、罪悪感に近い感情だ。


「売ったのね。もう、『商品』として」


 ルナリアが、空の檻の前でしゃがみ込んでいた。

 何もない。けれど、そこに確かにあったはずの、幼い温もりの気配だけが残っている。


「……嫌。こういうの、嫌い」


「……許さないにゃ」


 アイリスも歯を噛み締め、尻尾を怒りで震わせている。

 レイナさんは盾に手を置き、その碧い瞳から変態成分を完全に消し去っていた。


「……取り戻しましょう、団長」


 ヒルデさんは少しだけ目を閉じ、深く深呼吸した。

 それから、いつもの、冷徹で計算高い“女王の顔”に戻る。


「ええ……必ず……」

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