2-22 夜を吸い、羽虫を喰らう
渡戸堀中学校に通う堤結愛(13)は、自宅のトイレで違法薬物らしきものを発見する。
誰が、どういう経緯で持ち込んだものかわからない。
怖いものを遠くへやってしまいたい。
安全が欲しい。
誰かに守られていたい。
心細さに押しつぶされそうな結愛の頭に浮かぶのは、冴えない国語教師・葛原範保の姿だった。
堤と葛原の二人には、学外の意外な場所での接点があった。
渡戸堀の繁華街にある噴水公園、流洲フラワーパーク。
深夜若者の集まる通称フラパ界隈を巡るダーク青春ミステリー。
繁華街の中心にある流洲フラワーパークを出て坂を上ると、街灯はまばらになり街の雰囲気がガラリと変わった。
「今日、私、先生のことを待ってたんだ。なんでかわかる?」
沈黙。
「私には、先生しかいないの」
信じられる人が、信じてくれる人が。
私はポケットから出した小袋を手のひらに包み込み、先生の手に押し付けた。
「うちのトイレの棚に隠されてた。中にラムネみたいなのが入ってる。お願い。先生、一緒に……」
フラパにはいろんな子がいるとわかってる。こんなことくらいでは誰も、驚かないのかもしれない。
でも、蒼たちには知られたくなかった。どうしても。
*
ほんの数分前まで、私たちは真っ白な光の中にいた。
多くの子どもたちが家族の時間を過ごす頃、渡戸堀の繁華街にあるフラパの噴水前で私たちは集まる。約束があるわけでもないのに、まるで街灯に吸い寄せられる羽虫のように、ひとり、またひとりと明るい場所に姿を現す。
私は頬に張り付く髪を耳にかけ、暑い時期はいいと思う。虫が鬱陶しいけれど、八時近くになってもまだ夜は始まったばかりという顔をしているから。ひとなかに紛れていても許される、気がする。
それでも十時、十一時を過ぎると、周囲の私たちを見る目は厳しくなる。体型か。顔立ちか。よくわからない何かが、夜にそぐわない存在だと浮き上がらせてしまうらしい。
私たちここにいるだけ。ただいたいだけ。別に何もしてない。騒いだり、迷惑かけることなんか何も。なのに。
早く大人になりたい。街に溶け込んでいられる大人に。どこにでも行ける大人に。
どこにいても誰にも咎められない自由が、誰にもなんにも怯えなくて済むだけの力が、安心でわずかでもつながりを感じられる居場所が、今すぐに欲しかった。
「堤」
背後から呼びかける低く湿度を帯びた声に、私の胸はじわあっと熱くなった。
振り返るとスーツに着られているかのような華奢な男が、四角い黒縁のメガネを光らせている。
「おかえり、先生〜♡」
私は両手を広げて立ち上がり、先生の肩にしなだれかかった。スマホを手に座り込んでいた数名が目で挨拶し、画面に視線を戻す。彼は葛原範保。私の通う渡戸中の国語教師だ。
「ノリヤス。今日も遅いっすね。やっぱ教員ってブラックなんすか」
市内の名門高校に通う蒼が伸びをして立ち上がった。彼の方がずっと肉付きがよく、先生より頭ひとつ分は背が高い。
二つの影を眺め、それでもなぜか蒼は子どもで、先生は大人だとわかる気がした。まるでラベルを貼ってあるみたいに。
「さっきそこで食べてきたところだ。蒼たちは何か食べたかい」
「これからみんなでコンカフェに……」
「先生がなんの用」
蒼の発言を遮り、メンバーのSNSから今日初めてここに辿り着いた女の子が先生に向けてスマホを構えた。
「警戒しなくていいよ。私の……うちの中学の先生だけど、ちゃんと話を聞いてくれるし、説教したりしないから」
私は心の中で、もう一度、ワタシのセンセイと言いなおす。
彼は私の特別。世界でたった一人の信用できる大人だ。
先生は彼女の足元に置かれた大きなボストンバッグを覗き込んだ。
「ずいぶんな大荷物だ。しばらくこの辺にいるつもりなの」
「は? なんって? 誰かわかった?」
彼女はスマホを向けたまま冷笑し、メンバーをぐるりと見回した。
先生は眉を下げた弱々しい顔で苦笑する。
私は先生を守るようにぎゅっと腕にしがみつき、無言で彼女を睨みつけた。
先生は陰気でボソボソ喋るから、授業中もよくこうしたからかいにあった。
でも、ここにいるメンバーはそんなことで笑ったりしない人たちだと思ってた。
だって私たちきっと、人と分かち合えない何かがあった。話しても通じない場所にいた。笑われるのが、拒否されるのが、線を引かれるのが怖くて、それでもどこかに分かち合える場所があると信じてた。
だからここに辿り着いたんじゃないの。違うの?
蒼が彼女を落ち着かせようと両手を胸の前に広げる。
「まあまあ、いいから録画止めろ。この人も常連なんだ。大丈夫だから」
「常連? 単なる見回りじゃん。なーんか失望した。ヌエさんに会いたくて来たけど……フラパ界隈もこんなもんか」
「気持ちはわかる。大人って子どもが従ってさえいれば満足だもんな。何を感じていようが無関心で。でも……」
彼女は突如ひきつけるように笑い、蒼を挑発する。
「あんたになにがわかんの。優・等・生」
綺麗な身なりで、育ちの良さそうな話し方をする蒼が鼻につくのは、なんとなくわかる。
私は先生の腕を引いた。先生という異物がこのトラブルの原因だ。
「行きたいところがあるの。先生、付き合ってよ」
「堤。わかったから、ちょっと離れようか」
「あはっ。誤解されたら困るもんね? センセ。じゃあみんな、コンカフェ楽しんで」
蒼が「またな」と手をかざすと、座っていた数名も小さく手を振ってくれた。「案件じゃね?」なんて陰口も聞こえるけど、気にしない。
フラパを出て私たちは駅とは反対方向に伸びる坂道をずんずん登った。
「先生。お願い、助けて」
繋いだ手の中の袋から守って。
先生はちゃんとした大人だから、頼っても壊れないでしょう?
先生なら。
先生。私は子どもだけど、もう子どもじゃないよ。
夜、ママが仕事に出てる間、家でママの彼氏と二人になる。私はそれが怖いからフラパにいるの。完全下校時刻まで部室でだべった後は、渡戸堀スクエアの綺麗なトイレで着替えて人と会い、時間を潰す。
界隈の子と一緒なら平気だ。部屋に鍵をし、トイレに出るのも怖い気持ちでいるよりずっと安心で、安全なの。フラパ周辺は明るくて、清潔で、みんなといれば、何も怖くない。
フラパで何度も声をかけられるうち、私は先生にそう打ち明けていた。
先生は、ここは堤に必要な場所なんだなって言ってくれたんだ。
私にはよくわからないけど、きっといろいろと働きかけてくれていたんだと思う。
危ないことがないように。
だからずっと信じてたんだよ。先生。
あの袋を隠したのは男か、もしかするとママなのかもしれない。
私たち、ここにいるだけ。悪いことなんて何もないと胸を張っていたかった。黒いものを持ち込んで、後ろめたくなりたくない。私の居場所を、壊したくないから。
俯いて私の手を握り返す先生の指が、親指の付け根を優しくさする。
「先生。家が怖いよ。フラパが危ないって言うんだったらさ、学校を貸してくれたらいいのに。保健室で寝て起きて、お風呂はプールでなんとかしてさ。家庭科室があるからご飯だって作れるし、みんなで綺麗に掃除もするから。寝袋かなんかを持ち込んで、先生も一緒に泊まって? 大人がいれば安全でしょ」
ぼろぼろ泣きながら、夢のようなことを口走る私に、先生は「そうだなあ、そうだなあ。そうできたらいいのになあ」と繰り返した。
「どうしてダメなの? 私たち、ちゃんと助け合えるよ。開けといてくれたらいいだけじゃん。先生がいてくれたらさ」
無茶なことはわかりきっていた。フラパにはキレやすい子がいるのも知っているし、リスカやODをやめられない子もいる。落ち着いて見える蒼だって、崩壊したのを見たことがある。私自身、十分脆い。しっかりして見えても私たちはみんなどこか弱っていた。
どんなに平和を望んでも、そればっかりじゃいられない。それに先生は、先生だけどただの人で、私たち子どものためだけに生きてるんじゃない。わかってるけど。
先生は私の指をさすり上げ、信じられない提案をした。
「いいかい、堤。手の中のものは元の場所に戻しておくんだ」
「……な、んで? 無理だよ! 話したよね。私が家で、何をされたか。アイツが、私に……それなのに、なんで? 信じてないの? もしも家の中で使われたら? 無理やり飲まされるかもしれないのに? ヤダヤダ。怖い、怖いよっ」
先生は、泣き崩れる私の頭を空いた手で抱き寄せる。
「怖いのはわかるよ。でも相手に持ち出したことを気づかれるのが何より危険だ。堤にとって一番いい方法を考えたい。証拠として写真に実物と置き場所を記録しておきなさい。必ずなんとかするから。……先生を頼ったのはいい判断だったよ」
赤ん坊にするように背中をトントン叩き、先生は私の手に袋を握らせる。
どうしてだろう。状況は何も変わっていないのに、私は……安堵していた。
「わかった。言うとおりにする。だから、絶対、絶対助けてよ。先生」
私には先生しかいない。
……先生がいてくれるなら、私は——。
*
アパートの玄関扉を開けると真っ暗で、私はほっと息をついた。
トイレに鍵をし、スマホを構えて小袋の中身を写真に撮る。元の場所に押し込む。
家の中にアレがある、のかもしれない。
私はそれが死ぬほど怖い。
二人であのまま坂を抜け、人気のない河川敷まで歩いて、一緒に埋めたいと願ってた。川に投げ入れるのでもいい。怖いものを家の外に出して、消したかった。
警察は嫌。あの人たちは先生とは違う。フラパは悪。子どもは家や、学校にいれば安全。押し込んで、それで解決だと思ってる。話なんか聞いてくれない。
それにもしもアレのせいで、ママが連れて行かれてしまったら? 私のせいで、ママが。
私の心は引き裂かれ、ぐちゃぐちゃだった。
ひたすら誰かに頼りたくて、逃げたくて、硬く目を瞑っていた。
なにも見えていなかったんだ。
私は大人を信じていた。この頃までは。





