2-21 カノジョの妺は小悪魔
写真サークルの飲み会で息苦しくなり、店の外へ逃げた大学1年・佐伯陽介。体型への劣等感で押し潰されそうな彼に声をかけたのは、静かで控えめな同級生・藤原里奈だった。優しさに救われた陽介は、彼女と少しずつ距離を縮めていく。
しかし、里奈には高校生の妹・咲がいる。恋愛相談に乗ってくれる頼れる存在のはずが——
胸の奥では、陽介への特別な想いをそっと隠していた。
“優しさ”から始まった恋は、妹の“揺さぶり”で静かに動き出す。
写真サークルのコンパ。1年生は必修らしく、狭い店内に大勢の人が詰め込まれていた。
笑い声と食器の音が混ざる空気が、どうにも苦手だ。胸のあたりがざわついて、呼吸が浅くなっていく。
早めに食事だけ済ませると、僕は逃げるように席を立った。トイレに寄ったあと、そのまま店の外に出る。
夜風が頬に当たって、ようやく少し落ち着いた。
——そのとき。
入口のドアが開き、同じ一年の女の人が出てきた。
「……あれ、佐伯くん。外にいたんだ?」
藤原里奈。
細身で、落ち着いた雰囲気の子だ。
声をかけてもらえたことが嬉しいのに、素直に受け取れない自分がいる。
返事をしたあとも、胸の奥が少しざわついていた。
——こんなとき、いつも思い出してしまう。
僕は太っている。
鏡を見るたびに分かるし、写真に写った自分を見ると、正直ちょっと落ち込む。
まわりの男子みたいに細かったり、背が高かったりもしない。
だから、誰かに見られるのが苦手だ。
とくに、綺麗な子の前だと。
里奈さんみたいな、控えめだけど整った雰囲気の子は、僕とは“違う場所の人”だって、ずっと思っていた。
声をかけられた瞬間も、『なんで僕なんかに?』という言葉が頭をかすめて、返事が遅れた。
「ちょっと……苦しくて」
返事をすると、里奈さんはふわっと柔らかく笑った。
「私も。人多いとちょっと疲れちゃって」
意外だった。
胸の奥に張りついていたものが、ほんの少しほどけていく。
自分ひとりだけじゃないんだ、って。
「里奈さんって落ち着いてるから、そうは見えなかった」
「そう見えるだけだよ。全然そんなことない」
肩をすくめて笑う仕草は、柔らかく、あたたかかった。
冷たい夜風の中なのに、空気がどこか和らいだ気がした。
——一人でいるより、呼吸が楽だ。
それに気づくのが少し怖くて、でも嬉しくて、そっと息を吐いた。
その日から、写真サークルの帰りはよく里奈さんと同じ電車で帰るようになった。
路線が同じで、最寄り駅も近いから。
ただ隣に立って帰るだけの時間が、静かに心地よかった。
少しずつ話すようになって、笑うタイミングも自然に合うようになって、近すぎず、遠すぎない距離がちょうど良かった。
そんな帰り道のある日のこと。
朝の天気予報は「くもり」だったのに、帰りの電車の中で雨が降り出した。
「傘忘れちゃった……」
里奈さんは傘を持ってきていなかった。
「折りたたみなら持ってるから、貸すよ。返してくれれば」
「でも、佐伯くんは?」
「え、あ……そっか——」
「私は平気。走れば10分だし」
駅を降りると、さっきより雨脚は強くなっていた。
『10分走る』で済む雨じゃない。
それでも里奈さんは笑って、大丈夫と言う。
僕は降りた。
相合い傘を期待したわけじゃない。
ただ——里奈さんが濡れるのが、なんとなく嫌だった。
それだけは胸のどこかで、はっきりしていた。
「僕が送るよ。ほら、雨すごいし」
一瞬、里奈さんのまつげが揺れた。
「え、そう。なんかごめんね。でも……ありがとう」
“ごめんね”よりも“ありがとう”のほうが、ほんのわずかに強かった。
そのバランスが、自分でも驚くほど嬉しくて、息をひとつのみ込んだ。
二人で傘を差して歩き出したときだった。
駅へ向かう歩道の向こう側で、ふと視線を感じた。
電柱のそばに、女子高生の誰かが立っている。
制服のスカートが風に揺れた気がした——
けれど、僕がそちらを向いた瞬間、その影はすぐに歩き出して雑踏へ紛れた。
気のせいか、と自分でも思う。あんなに人が多いのだから。
駅から家までの道は、店もほとんどなくて静かだ。
藤原家は、そんな少し田舎のほうにあった。
藤原家の玄関先。「じゃあ、またね」と向きを変えようとした瞬間——
パシッ、と軽い音。
傘の柄が、左肩をそっと押し止めていた。
勢いではない。引き留めようとするみたいに、迷いのある力で。
振り返ると、里奈さんが傘を横にしたまま、息を飲んだように立っていた。
「佐伯くん……左肩、びしょびしょだよ」
叱るでも笑うでもなくて、ただ純粋に心配してくれる声。
太っている僕の肩が傘に入りきらなかったのだろう。
その事実を思うと情けなくて、視線が落ちた。
「タオル取ってくるから、上がってよ」
「いいよ、そこまでしてもらうのは」
「両親いないし、今は私だけだから。大丈夫」
無理強いじゃない。
“心配だから来てほしい”という柔らかい押し方。
断る方が失礼な気がして、「……じゃあ、少しだけ」と答えると、里奈さんはほっと息をついた。
玄関の段差を上がると、足の先からじわっと暖かさが戻ってくる。
外の雨音が、扉一枚で遠い世界になった。
「そこに座ってて。すぐタオル持ってくるから」
そう言って里奈さんは廊下へ消えた。
ほんの1分も経たないうちに、里奈さんがタオルを持って戻ってくる。
小走りで、少し息を弾ませながら。
「はい、どうぞ。風邪ひかないように」
差し出されたタオルは、ふわっと柔軟剤の匂いがした。
雨で冷え切っていた体に、それだけでじんわり沁みる。
「ありがとう。助かるよ」
タオルで肩を押さえていると、里奈さんは窓の外に目を向けて、小さく息をもらした。
「雨、まだやまないね……寒いよね。よかったら、少しだけ上がっていって。ココア、作るから」
「ココア?」
「うん。牛乳で作るやつ。あったかいし、風邪ひきにくいから」
視線は合わせてこないのに、言葉の端々に気遣いがにじんでいた。
「迷惑じゃない?」
そう口にした瞬間、里奈さんはかぶせるように——でも小さな声で言った。
「迷惑じゃないよ。……いてほしいの」
それはほんの1秒で、すぐに照れたように視線をそらして、
「あ、あの……濡れたままじゃ体冷えるからって意味で、その……!」
里奈さんは慌てたように言い直す。
僕の返事は、さっきより自然に出た。
「じゃあ……少しだけ。ココア、飲ませてもらうよ」
「……うん!」
ソファをすすめられたけれど、濡れたまま座るのは気が引けて、僕はテーブルの椅子に腰を下ろした。
ちらりとこちらを見た里奈さんは、何も言わずに微笑んで、キッチンへ消えた。
「へぇ〜、あなたが“お姉ちゃんの彼氏”ってわけ?」
背後から伸びてきた声に、思わず肩が跳ねた。
振り向くと、高校の制服を着た少女が、ドアにもたれて上目遣いでこちらを覗き込んでいた。
黒髪のポニーテール。
上目遣いで、口の端だけを上げるようにニヤッと笑っている。
「駅の前で見かけたときから気になってたの。ほら、お姉ちゃんと一緒に歩いてた人がいたから」
駅へ向かう歩道の向こう側で感じた視線。
あれは、たぶん——この子だったんだ。
少女はにやにやしたまま、わざとゆっくり歩いてテーブルのほうへ近づいてくる。
「ねぇ、“お姉ちゃんの彼氏”なんでしょ? それとも違うの?」
完全にからかう口調なのに、目だけはじっと僕を観察している。
「佐伯陽介……写真サークルで……」
「ふーん。思ったより優しそう。……てか、お姉ちゃん、こういうタイプいけるんだ?」
初対面なのに遠慮ゼロの口調で、くすっと意地悪く笑う。
「あ、あの……君は?」
「私? 妹の、咲」
「咲さん?」
「咲でいいって。どうせすぐ名前呼ぶ仲になるんだし」
「えっ!?」
「冗談冗談。……でもさ——」
咲は椅子の背もたれ越しに、ひょいっと僕に顔を近づけてくる。
距離が一気にゼロに近づいて、息が詰まる。
「ねぇ陽介くん。お姉ちゃんとは、どこまで進んでんの?」
「ど、どこまでって……!」
「手くらい、つないだ? まさか、まだ?」
その“まさか”がグサッと刺さる。
言葉に詰まる僕を見て、咲はくすっと笑った。
「うわ、図星かぁ〜。ちょっと可愛いんだけど」
「か、からかわないでください……」
「からかってないよ? むしろ応援してるの。——ほら、ああ見えてお姉ちゃん、すっごく奥手だから」
咲は椅子に腰を下ろして、足をぶらぶらさせながら言う。
リズムを取るみたいに靴の先が揺れて、余裕たっぷりの態度が隠しきれていない。
「だからさ陽介くん。リードしてあげなよ。お姉ちゃん、待ってるよ?」
「……待ってる、んですか?」
「んー、確実にね。女の子の気持ちは、同じ女の子がいちばん分かるの」
にこっと無邪気に笑う咲。
その笑顔の裏に小悪魔的な策略が隠れている気がして、僕はますます落ち着かなくなる。
そんな空気を切り裂くように、キッチンから里奈さんの声がした。
「咲? おかえり。……佐伯くんを困らせてないよね?」
「えー? 困らせてないよ。ちょっと背中押しただけ〜。ね、陽介くん?」
名前を呼ばれるだけで心臓が跳ねる。
咲はウインクをひとつ寄こして、ひょいっと立ち上がった。
「じゃ、続きはまた今度。——陽介くん、お姉ちゃんのこと……お願いね?」
茶化すように言ったのか、真面目なのか判別できない声だった。
そのまま階段を軽い足取りで駆け上がっていく。
去っていく足音が遠のくにつれて、胸の鼓動だけが逆に強くなっていくのがわかった。
——藤原咲。
この妹……たぶん、想像以上に手強い。





