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2-01 私はあなたの“遺族”です

「――葬式を前提に、結婚してくれませんか?」


真冬の路上。

路上生活者の女・ユキは、旺志郎と名乗る紳士にいきなり求婚された。


胡散臭い旺志郎に疑いの目を向けるユキは「戸籍がないから結婚できない」と彼を追い払おうとする。しかし、旺志郎はあっさりと「戸籍さえ用意すれば結婚してくださるのですね?」と言うのだった。ユキは動揺しつつも、普通の暮らしへの切望で心が揺れてしまう。


葬式を前提にした結婚。その条件は二つだけ。


――ひとつ。旺志郎の遺産は、すべて放棄すること。

――ふたつ。旺志郎が死ぬまで、旺志郎に愛されること。


不可解な条件を突きつけられたユキと、謎めいた態度ばかりの旺志郎。

葬式(ルビ:終わり)に向かう二人の結婚生活が、今はじまる――。


「葬式を前提に、結婚してくれませんか?」

「――はぁ?」


 真冬で、深夜だった。

 コンビニから漏れる光を浴びながら、あたしはアスファルトの上で横になっていた。


 ぎろり、と声の主を睨み上げる。びゅう、と冷たい風が鳴り、布団代わりに巻き付けた新聞紙がばさばさと靡いた。


 ――誰だ、この不審者。いや、不審者はあたしか。

 こちとら路上生活者だ。避けられ、鼻をつままれることはあれど、話しかけられることなんてない。ましていきなり「結婚してくれ」と言われるなど。


 睨む視線に力を込め、低く囁く。


「……誰、あんた。からかってんの」

「篠宮旺志郎と申します。私は至って本気ですよ」


 胡散臭い紳士――旺志郎とやらは、柔らかく微笑んだ。

 歳の頃は四十半ばくらいだろうか。白髪交じりの髪を撫でつけた、いわゆるイケオジというやつ。身なりはいい。高そうなコートの袖口から、青いダイヤのカフスが覗いていた。


「はっ、ふざけんな。こちとら金持ちの道楽に付き合う暇は――」


 そこまで言った瞬間、ぐぅ、と腹が鳴る。かっと頬が熱くなり、旺志郎が目を丸くした。目をそらすあたしに、旺志郎が微笑んでコンビニを指し示す。


「急な話で困惑されたと思います。よろしければ、お食事でもしながらお話を」


 それはまるで高級フレンチにでも誘うような、馬鹿丁寧な口調だった。



     ※



 ガラス越し、蛍光灯の明かりで照らされた、コンビニの駐車場。車止めに腰を下ろして、あたしはガツガツとピザまんを口に押し込んでいた。


 旺志郎はというと、微笑ましい目であたしを見つめている。なんとも胡散臭い表情だ。


「……あんだよ」

「いえ、美味しそうに食べるな、と思いまして」

「正直に言えよ。意地汚いって」


 旺志郎は無言で微笑む。嘘くさい笑みだった。


「私と結婚したら、美味しい食事も、ベッドもお風呂も、いくらでも用意して差し上げますよ」

「まだその寝言言ってんのか」


 ピザまんの最後を口に押し込む。咀嚼しながらファミチキの封を破った。噛みつく。二日ぶりの食事はうまい。


「こんなボロ雑巾みてぇな女と結婚って、何が望みだ」


 奢られた者の礼儀として、一応尋ねておく。旺志郎はあたしを見つめたまま、小さく笑った。


「貴女には、私の“遺族”になってもらいたいのです。どうも私は、もうじき死ぬらしいので」

「……は?」


 なんでもないことのように言われて、思わず手が止まる。旺志郎はただにっこりと微笑んだ。

 ファミチキを握りしめたまま、恐る恐る尋ねる。


「あんた……病気、とか?」

「いいえ」

「じゃあ、自殺したい……とか」

「それも違います」

「じゃあ……なんだよ」


 病気でもない、自殺の予定もない。だったらなんで死期がわかるんだ。


「お嬢さん」


 旺志郎が笑う。目尻に柔らかく皺が寄って、穏やかな声が静かに告げた。


「――世の中には、知らないほうがいいこともありますよ」

「っ……!」


 うっそりと微笑む男の、穏やかな口調。その裏にぞっとするような凄みを感じて、ぞわりと背筋が寒くなった。


(これ……どう考えてもヤベェ案件じゃん……)


『もうじき死ぬから、結婚して遺族になってほしい』


 どう考えても、異常極まりない申し出だ。絶対に裏がある。受けることはできない。適当に躱して、逃げるしかないだろう。


 冷や汗が流れる。脂まみれの親指を舐めて、あたしは逃げるように言った。


「悪ぃけど、無理だ。あたし、戸籍使えないから」

「――ほう?」

「……色々事情があってな。だから、結婚はできない」


 旺志郎の目が、すうっと細くなる。怖いくらい静かな目で見つめられ、ぞくりと背筋が寒くなった。旺志郎が、小さく微笑む。


「つまり――戸籍さえ用意すれば、結婚していただけるのですね?」

「――へっ?」


 なにを言ってるんだこいつは。


「いや、戸籍なんて、そんなポンと出せるもんじゃ……」

「できますよ」

「えっ」

「できます。貴女が、真にそれを望むなら」

「いや、えっと……」


 戸惑うあたしに、旺志郎は怖いくらい完璧な笑みを向けた。


「もう一度申し上げます。美味しい食事も、ベッドもお風呂も、それから戸籍も。なにもかもご用意いたします。ですから――葬式を前提に、結婚してくれませんか?」

「っ……」


 ――この男は本気だ。目を見ればわかる。


 人の良さそうな目元。整った顔立ち。品のいい立ち姿。高級な身なり。だけどその裏側に、なにか底冷えのするものを隠している、明らかに尋常でない男。


 旺志郎が、あたしに手を差し伸べる。


「迷うのはわかります。どう考えても怪しい話ですからね。ただ、考えてみてください。これは契約結婚なのです。私は契約を完璧に履行する。一度、条件だけでも確認してみてはいかがですか」

「条件、って……」


 旺志郎は笑う。なんの害もなさそうな顔で。


「貴女に人並みの――いえ、それ以上の暮らしをさせて差し上げます。さらに私は、決して貴女に危害を与えません。貴女の嫌がることはしないと約束します」

「……それを、どうやって信用しろって言うんだよ」

「契約書ならいくらでも用意いたします」

「紙キレなんか信用できねえ」

「だったら、人質を預けましょう。何人殺してくださっても構いませんよ」

「っ……!」


 なんの躊躇もない声だった。どこにも嘘のない声音、それが逆に、ひどく恐ろしい。旺志郎が微笑む。


「女性の身で路上暮らしは酷でしょう? 飢えも寒さも身の危険もある。望んでこの暮らしをしているなら良いですが、どうも貴女はそうではなさそうだ」

「っ、それは……」


 その通りだった。

 人並みの暮らし。路地裏から眺める、大通りの景色。湿ってない寝床、腐ってない食事、あたしがいくら求めても、手に入らなかったもの。


(っ……)


 背後で、コンビニの自動ドアが開いた。塾帰りらしい高校生たちが、笑いさざめきながら歩いていく。そのビニール袋には肉まんや菓子が詰まっていて、彼らはこれから、暖かい家に帰るのだろう。当たり前のように。


(――あたし、は……)


 どうしようもない憧憬が、喉の奥をひりつかせる。さっき食べたばかりのファミチキの濃い味が、未練となってじくじくと胃の腑を疼かせる。


(そうだ……いざとなったら、戸籍だけもらって逃げりゃいい……)


 おずおずと旺志郎を見上げる。差し伸べられた手。青いダイヤのカフスが、コンビニの明かりで光っている。


 戸籍だけでいい。真っ当な身分さえあれば、この生活から脱出できる。身分証だけ手に入れて、後のことはそれから考えれば――。


 こんなことを思った時点で、あたしはもうこの男の術中に嵌っていたのだろう。


「……条件は?」


 震えながら囁いた言葉に、旺志郎はにんまりと笑った。


「条件は二つです」


 警戒もあらわなあたしの前に、旺志郎はすっと指を立てる。


「ひとつ。私の死後、遺産はすべて放棄すること。

 ふたつ。私が死ぬまで、私に愛されること。

 ――以上です」


「……は?」

 遺産の放棄はわかるけど……愛されることって、なんだ、それは。


 困惑のあまり眉を寄せる。しかし、旺志郎が嘘をついている様子はなかった。これでも長年ホームレスをやっている。嘘吐きを見極める目はあるつもりだった。


 そのあたしの勘が言っている。

 この男は嘘をついていない。

 ただし――とびっきりの、やばい奴だ。


 ぞくり、と背が震えた。

 遺産についてはまだいい。あげると言われるほうが怖いからだ。

 だが、問題はもう一つの条件。


「……愛されるって、なに。ダッチワイフにでもすんのか」

「まさか。貴女が望まない限り、爪の先すら触れません。私はただ、お嬢さんを大切にしたいだけですよ。この上なく、ね」


 胡散臭い笑みだが、その言葉に嘘はない。この男は本気で、あたしを溺愛するつもりだ。

 だからこそ、ものすごく気味が悪かった。


 底冷えのする恐ろしさと、目の前にぶら下げられた“普通の暮らし”というエサに、ぐわんぐわんと心が揺れる。


「じゃあ……あんたが死んだ後、あたしはどうなる」

「好きに生きてくださって構いません。戸籍はそのまま差し上げます」

「でも……」


 未だに躊躇しているあたしに、旺志郎は小さく息をついた。

 そして、ずい、と顔を近づけてくる。整った容貌からは、深いコロンの匂いがした。


「いいですか。私の死後、貴女は自分の足でどこへでも行ける。どこででも働ける。何をしても構わないし、理不尽に排斥されることもない。努力が正しく報われる“普通の社会”に、貴女を帰して差し上げる――そう言っているのです」

「っ……」


 努力が、正当に報われる世界。

 理不尽に奪われずに済む世界。

 生きるだけで顔を背けられる、そんなことのない世界。


「っ……ほんとうに……?」


 呼びかける声が震えた。旺志郎が、にっこりと頷く。


「私は嘘はつきません。

 ですから――私の“遺族”になってくださいますか?」


 ゆっくりと、手を差し伸べられる。革手袋の、大きな男の手。

 あたしは震えながら、恐る恐る指先を持ち上げて――


「……わかった。あたし、あんたの〝遺族〟になる」


 そうっと、旺志郎の手を取った。


「よろしい。葬儀まで、どうぞよろしくお願いします――私の妻君」


 旺志郎が、うっとりと笑う。ぎゅう、と革手袋の手に力がこもった。びくりと手を引きたくなるのを、必死で耐える。


 かくして――あたしの『葬式を前提とした結婚生活』が始まったのだった。

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