2-18 蒼天の羊人某
その男、異形
然れども性は柔和で寡黙、世俗の欲には頓着せず
ただ、ひとたび悪を前にすれば闇に亀裂を走らせ疾風のごとくなぎ倒せり
請われてもかたくなに自らの氏素性を明かさず
彼去りし後、人々ただ羊人某と伝えたり――
天保末期、中山道三十六番目の宿場町である宮ノ越宿に現れたのは羊頭の侍だった。
電気羊、木曽路に降臨!
晩秋の木曽路。カラスの止まった柿の木の前を胴深の編み笠で頭部をすっぽり覆った一人の旅人が、暮れる陽に背中を押されるように足早に通り過ぎていく。
薄汚れた茶色のぶっさき羽織に深緑の野袴、おそらくその旅装からして武士であろう。ただ変わっているのはその男の得物の位置であった。普通は腰から下げる刀が、なんと襟首の後ろから柄だけが突き出ているのである。
宿場町のはずれで男は足を止めた。目の前には一軒の古びた居酒屋の灯が道を照らしており、中からは賑やかな笑い声と、陽気な三味線の音が響いてくる。
編み笠の男はしばらく思案していたが、腹の虫が鳴く声を聞くと小さなため息とともに店の戸に手をかけた。
「いらっしゃいませ」
しゃがれてはいるが陽気な声が飛ぶ。声の主、お銚子を運ぶ白髪の店主はのぞき込む編み笠の男を見てにこやかに会釈をした。
店内はざらりといっぱいであった。地元の客が多いのか、どの席も新参の客などには目もくれず盛り上がっている。
「席はあいているか?」
「ええ、隅っこでよろしければお武家様」
「おい、おめえらちょっと詰めろ」
店主が頼む前に、常連らしき数人がお銚子や皿を持って立ち上がり編み笠の男のために席を開けた。店主が空いた台の上をさっと拭く。
男は開けられた席に座ると、おもむろに編み傘を脱いだ。
そのとたん。一段高い台に座っていた三味線弾きの若い娘の手が止まった。
そしてたまたま男のほうを向いた者が目をむいて口をぽかんと開ける。それに気づいて視線を追った者がまた言葉を失う――で店の中は徐々に音を失っていった。
し……ん。
彼らの視線の先には、襟元から溢れんばかりの白い巻き毛に覆われた獣の頭があった。
「お、お武家様。何をお持ちしましょうか」
凍り付いた顔に無理やり笑みを浮かべ、曲げた腰をがくがくと震わせた店主が前掛けを両手で握りしめて尋ねる。
こんな反応は慣れているのか、男は意に介した様子もなく横一文字の瞳で柱に貼られた品書きに目をやった。
「では熱燗を1本と何か安手の肴を一品見繕ってくれ」
「今日はふろふき大根がお勧めです。当家特製の味噌でお召し上がりください」
男は黙ってうなずく。
やがて運ばれてきた熱燗をうまそうにすすると男は目を細めて
「めえ」
と低い声でつぶやいた。
そして、湯気の上がる大根に箸を向ける。良く煮込まれた大根は柔らかく、山吹色の味噌を乗せると彼の黒い鼻先に芳香が立ち上った。
「うまいでしょ。この味噌は蒸し大豆を使った極上品――」
「おい。よせって小助」
丸い眼鏡をかけた小男が片手に徳利を持って、裾を引っ張る仲間を振り払いながら近寄ってきた。見れば真っ赤な顔をしている。小助と呼ばれた男は酔いの勢いに任せて獣頭の男の前に腰を下ろした。
「旦那、ま、一杯」
小助は男のお猪口に酒を注ぐ。
「かたじけない」
軽く頭を下げると男はお猪口の酒をあおった。
「旦那、そのかぶり物は羊でしょ。俺、江戸から来たんですけど、見世物の羊を源内先生が描いた絵を見たことがあるんです。ねえ、ちょっとだけでいいから俺にかぶらせてもらえませんか」
好奇心が先に立つのか、周りがドン引きしているのにも気付かず小助は男の頭に抱きついてぐいっ、と引っ張る。
「やめんか。お武家様になんてことを」
真っ青になった店主が慌てて小助を引きはがす。
が、すでに小助の手は男の頭から離れており、彼らは一緒になってひっくり返った。
小助は唇を震わせながら硬直していたが、一呼吸すると店内に響き渡る声で叫んだ。
「か、かぶり物じゃねえ。ほ、本物だああ。こいつ羊の化けもん……羊人だっ」
店にいた者たちはいっせいに立ち上がり、不気味な羊人から少しでも離れようと店の隅に逃げる。
それを見た羊頭の侍は静かに立ち上がった。
「おやじ、美味かったぞ。騒がせてすまなかった」
ちゃりん、と銭が重なる音が店の中に響き渡った。
「お、お待ちください。こ、小助っ、なんてことを言うんだ。お武家様は静かに酒を飲んでおられただけじゃないか、お手打ちになってもおかしくないところをこの方は見逃してくださったんだぞ。失礼をお詫びしろ」
血相を変えた店主から怒鳴られて我に返った小助は青い顔になって土間に手をついて頭を下げる。
「も、申し訳ございませんっ」
「お武家様、もうお代はいただきませんからお詫びにもっと温かいものを召し上がっていってください。お客様に不快な思いをさせたまま帰したとあっちゃあ、この宮ノ越宿で三代続く老舗の名折れです。さ、お美代もなにか弾いとくれ。皆の衆も、腰かけた、腰かけた」
三味線の流れる中、店主は羊頭の男の腕にしがみつくようにして席につかせると急いで料理を運ばせる。
人々もざわめきながらそれぞれの席に戻っていった。
羊頭の男の前には次々と店主ご自慢の料理と酒が並ぶ。
「私だけでは食えぬ。小助、手伝ってくれ」
侍の誘いに恐る恐る寄ってきた小助は、今度は侍から酒を勧められる。知らず知らずのうちに異形の侍の周りには近所の町人たちの輪ができて、店はさらに賑やかになった。
「で、どちらに行かれるんで」
「実は人を探しているのだ」
羊頭の侍が懐に手を入れた時。
ガラリ。
無遠慮に開け放たれた戸から突然冷たい風が吹き込んだ。
「おい、お前ら席を開けろ」
はだけた胸から江戸で流行りのサボテンの入れ墨を覗かせたゲジゲジ眉の男を先頭に、数人の男がずかずかと店に入ってくる。そして席を立たない客の首根っこをつかんで土間に勢いよくたたきつけた。額から血を流した客は、悲鳴を上げて店から転がるように逃げていく。
「酒だ。早くしろ」
慌てて店主が飛び出してきた。
「狼藉はおやめください、ここは皆が楽しむ場所なんですよ」
「ふん、俺様を誰だと思ってるんだ。サボテン一家のトゲジ様にたてつく――」
男はふとしゃべるのを止めて、こちらをじっと見つめている羊頭の男に目を向けた。
「なんでえ、この薄気味悪い化けもんはよ。おめえ、侍かぁ。薄汚れた着物を着やがって、おおかた藩から追放された食い詰め浪人だろう」
罵っても侍が乗ってこないのを見ると、入れ墨の男は立ち上って刀の鞘で羊頭を小突いた。
しかし、侍は微動だにせず一文字の瞳でじっとならず者を見つめるのみ。
「ちぇっ、すかしやがって」
「おやめください。さ、熱燗を――」
「うるせえ、じじい」
机の上に乗せられた徳利をつかむと、いきなり男は店主の顔にぶっかけた。
「おい」
羊頭の侍が立ち上がる。
「表に出ろ」
「な、なんでえ。やろうってのか」
「お、お武家様、おやめください」
袂を引く主人に、羊頭の男は心配ないとばかりにうなずいた。
「おい、景気がいいのをやれ」
入れ墨の男が三味線を持ったお美代に小銭を投げつける。
開け放たれた居酒屋の戸から漏れる光を頼りにサボテン一家の男どもと羊頭の侍が対峙した。
店の中からは勇壮な三味線の音が流れ出す。
「けもの頭を血祭りにしろ。酒のつまみにしてやる」
トゲジの声にサボテン一家の男たちがギラギラ光る抜き身を勢いよく振り上げる。
それとは対照的に、暗闇の中にたたずんだ羊頭の侍は無言で襟の後ろに刺した得物の束を握った。
あたりにヴィーンという静かな音が響く。
その音を聞くと、羊人は得物をゆっくりと引き抜いた。それは刀でなく、柄のついた黒い棒であった。
振り上げた棒から天空に向かって、網の目に似た蒼白い亀裂が広がる。
同時に周囲がまばゆく輝き、その光は瞬く間に男の持つ棒に収束した。
「手品師か、お前はっ」
叫びながら切りかかった一番手の男は、蒼白く光る棒が触れるか触れないかのうちに硬直し地面に倒れ込む。煙の上がる男の頭は爆発したかのように毛が逆立っていた。
「ええい、この化けもんめ」
切りかかる次の男。だが、羊人の棒に触れると跳ね上がってあっけなく地面に転がる。
「エ、エレキテルだっ」居酒屋の中から小助が叫ぶ。「出島の異人さんが言ってた。毛皮とええっと何だったかな、新しく発見された何かをこすり合わせるとエレキテルが出てビリっとするんだ」
羊人は立て続けに男どもを倒すが、そのたびに棒が輝きを失っていった。
「なんでえ、こんなビリビリ。へでもねえ」
最後に片袖を脱いで派手なサボテンの入れ墨を露わにしたトゲジが切りかかった時には、棒は光沢のあるただの棒に戻っていた。
「こっちの番だぜ、覚悟しやがれ」
さすがにこの男、子分を従えるだけある。実戦で培われた荒々しい剣技は意表を突く太刀筋を描き、羊頭の侍は防戦一方のまま追い詰められる。刃が羊頭ぎりぎりを通過し、空中に白い毛が舞い上がった。
その時。風上に立った羊人の背後から風がひゅう、と吹き付ける。
顔に降りかかった毛を払おうと、入れ墨の男の刀が一瞬止まった。
羊人はその隙を逃さなかった。腕をまくり、白い毛の上でうなりを上げて回転する黒い棒をしごく。
振り下ろされる刀。すんでのところで彼は輝きを取り戻した棒でがっちりと受け止めた。
棒から刀へ蒼い光が流れ込み、激しい音と火花が上がる。
トゲジは脳天から煙を上げて道に倒れ込んだ。
「めえ」
羊頭の侍は肩で息をしながら、ヒビの入った黒い棒に目をやる。
それはゴムを硫黄で架橋反応させた、後世エボナイトと呼ばれる物質で作られたものであった。





