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2-12 幽境のリストランテ

どうしても勝てない兄がいた。

学業優秀、性格温厚、推薦の先は引く手あまた。ただひとつの欠点は「味音痴」――

だから俺は隠れた。料理上手な友人と共に、食の世界へ逃げ込んだ。


そこでも俺は勝てなかった。

友は常に俺の前を行った。どれだけ本や動画で勉強しても、追いついたと思った頃、あいつは数歩先にいた。早くおいでと手招きしていた。数歩が無限遠だった。


だから俺は島根(ふるさと)を捨てた。全てから逃げた。

専門学校で必死に学び、名店で修業を積み、東京に己の店を持ち、全ては過去となった――はずだった。



突如届いた旧友の訃報。山中での事故死だったという。

弔いに戻れば、寂れた町に満ちるのは澱みきった悪意ばかり。

息苦しさから逃げるように、思い出の高原に向かった。

清らかな御来光を背に、薄雪の上で佇んでいたのは死んだはずの――


俺は、まだ知らなかった。

それが、地獄の饗宴の始まりなのだとは。

 はじめに声を上げたのは、珍しくアキラの方だった。


「すごい。本当に金色の海みたい」


 少しだけひんやりした初夏の風が山上から吹き渡ると、百合に似た山吹色の花々が一斉に揺れた。高原に波が立った。確かに、そこに海があった。

 何を言えばいいのか迷う。場にぴったりの喩えを、先に言われてしまった。こいつよりは気の利いたことを言わなけりゃ――口ごもる俺の前で、アキラはイズモキスゲの花へ手を伸ばした。白い指が茎に触りかけたところで、後ろから兄貴の声が飛んだ。


「花を摘んではいけないよ。かわいそうだろう」


 手が止まる。振り向いたアキラは、恥ずかしそうに大きな目を伏せた。少々茶色がかった癖のある髪が、高原の風にかすかに揺れる。


「ごめんなさい、実範(みつのり)さん。もうしません」

「わかってくれればいいんだよ。アキラくんは優しいね」


 兄貴に肩を叩かれ、アキラは頬をほんのり赤く染めた。物言いも仕草も、小五にしては少々ガキっぽい。俺と違って、大人っぽく見られたい気持ちはないんだろう。

 そう思った瞬間、俺の腹が不意に鳴った。兄貴とアキラが揃って笑った。顔が熱い。恥ずかしい。


「みんな、お弁当にしよう?」

「そうだね、そろそろ昼時だ」


 兄貴がレジャーシートを出してきた。手近な土に敷き、皆で腰を下ろす。

 アキラが背からリュックを下ろした。出てきた包み三つに、思わず身を乗り出す。


「焦らなくても、お弁当は逃げないよ?」


 ふたりが笑う。ますます恥ずかしい。けど仕方ない、アキラの弁当なんだから。

 弁当の蓋を開ければ、周りに負けない彩りの花が、小さな箱の中に咲き誇っていた。ご飯はたっぷりの錦糸卵で覆われて、上には細く切られた緑が綺麗に散っている。仕切りを挟んで、分厚い卵焼きが三巻き。橙色が鮮やかな刻み人参。

 箱の中が黄色、いや金色に輝いている。正直、母さんのよりおいしそうだ。母さん、料理は決して下手じゃないんだが。


「黄色のお花に合わせようと思って」


 恥ずかしそうにアキラはうつむいた。まだ小五なのに、アキラはひとりで料理が作れる。どころか、並の大人より確実に上手い。栄養素やその他の知識がさっぱりだから、家庭科の点はとれてないみたいだが、実技なら先生とさえ互角かもしれない。そのアキラが、今日は三人分の弁当を作ってくれた。


「いただきます!」


 高原の真ん中、中学生ひとりと小学生ふたりの声が、そよ風に吹き散らされる。

 箸を手に取り、卵焼きと刻みにんじんを口に運んだ。相変わらず、びっくりするくらいおいしい。卵は甘くてふわふわだし、にんじんもただ刻んだだけじゃない。しっかり炒めてあるみたいで、甘辛い醤油の味が、香ばしい油になじんでいる。


「相変わらず、アキラの飯はめっちゃおいしいな! 特にこのにんじん、甘いのと辛いのが混ざってすごく美味い」

「軽く炒めて、醤油とみりんで味を付けただけだよ」

「簡単なのをおいしくするのが難しいんだと思うぜ。アキラはもっと自信持っていいぞ、間違いなくうちの母さんより美味い」

「ヒロ」


 兄貴の声が低くなった。


「母さんのご飯もおいしいじゃないか。誰かを褒めるのに誰かを貶すのはよくないぞ」


 しぶしぶ黙れば、兄貴は無言でまた箸を動かし始めた。まずそうには食べていないが、特段嬉しそうにも見えない。これだけ美味い弁当に、兄貴は何も思わないんだろうか。うちのご飯との違いも、もしかすると、兄貴はわかってないんだろうか。

 まあ、兄貴のことだ。脳味噌は全部勉強用なんだろう。

 実範兄貴は間違いなく、俺たちと頭の造りが違う。小学校での成績は常に学年トップ、担任から国立大付属中の受験を勧められてあっさり合格、今は中学でも最上位をキープし続けてるらしい。俺たちとは別世界の話だ。

 俺たちとアキラ、家は隣同士。親たちもよく話をする。だから嫌でも、隣家の褒め言葉は漏れ聞こえてくる。


(実範くんは出来が良くて、本当にうらやましい)

(うちのアキラも、せめて実範くんの半分くらいには、賢ければよかったのに)


 謙遜の皮を被った本音は、俺にも刺さる。父さんも母さんも、表立って口に出しはしない。けれどきっと、考えていることは同じだろうから。

 ああ、兄貴のことを考えると気が滅入る。今は弁当に集中しよう。

 金色の錦糸卵に覆われたご飯を一口食べると、ふわりとした甘味が口の中に広がった。子供向けの卵焼きにありがちなしつこさが、全然ない。


「すごいな、ご飯の卵、甘いのにベタベタしてない。この緑色のさくさくと、とっても合ってる」


 声に出して褒めれば、遠慮がちなアキラの声が応える。


「細切りのサヤエンドウだよ。家にちょうどあったから」

「そっか。めっちゃおいしい」


 ふたり笑い合う。

 兄貴は、相変わらず黙々と食べ続けている。不満そうにも嬉しそうにも見えない。


「ヒロにおいしいって言ってもらうのが、僕はいちばん嬉しいよ」


 アキラの言葉に手が止まる。「ヒロに」と、今、アキラは確かに言った。

 お互い確かに、知っているのだ。兄貴はなにもわかっていない。

 この味の、この笑顔の値打ちに、兄貴は気がついていない。


「欲しい時はいつでも言ってね。なんでも作ってあげるから」


 朗らかに笑うアキラの目は、確かに、俺だけに向いている。


「それは悪いよ、アキラくん。僕たちと君とは違う家の子だし、いつまでも一緒にはいられない」


 兄貴の言葉。県外高への進学が頭にあるんだろう。けどな兄貴、アキラはたぶん、あんたには言ってない。

 アキラは俺から視線を外した。兄貴を見る口元に、決然とした覚悟の色があった。


「いいですよ、それでも。ヒロが、たとえどこへ行ったって――」


 覚悟の瞳が、俺を見据えた。


「――ここのお花が、毎年咲くみたいに。僕はいつまでも待ってますから」


 アキラの背で、イズモキスゲの黄金の海が、静かに波を打っていた。



 スマホから、無機質なアラーム音が鳴っている。半ば無意識に、停止ボタンをタップする。『2025/12/26 08:30』の文字が、液晶に白く浮かんでいる。

 布団に戻りそうになる身体を、強靭なる意志の力で引き起こし、遮光カーテンを開けた。

 窓の外に、見慣れた高円寺の街並が見える。雑居ビルを覆う雲間から、不意に一条の光が差し、部屋の隅にかかった額縁を照らし出した。『湾岸調理師専門学校 卒業証書』――舌打ちしている自分に気付き、首を振る。

 あれから十五年以上。俺はあいつに追いつけたのか。

 あいつの影響で、なんとなく始めた料理。はじめのうちは楽しかった。不格好に煮崩れた芋も、不揃いなキャベツの千切りも、あいつは笑って見守ってくれた。

 けれど初心者を越し、本格的に包丁を握り始めてから――


「いいかげん、忘れろ」


 自らに向けて吐き捨てた。

 何もかも昔の話だ。高校卒業後は東京の専門学校へ通い、卒業後はイタリアンの名店で修業をし、いまや自分の店まで持てた。努力は実ったのだ。あとは大切な顧客へ、出資してくれた家族へ、恩を返すだけ。後ろを振り向く暇などない。

 首を振りつつスマホを手に取る。ショートメッセージの着信が二件あった。古い方は昨夜一時過ぎ。電話帳に登録のない番号からだった。


『ヒロへ ぼくをたすけにきてください アキラ』


 背筋が冷えた。「アキラ」の名には何人も心当たりがある。だが俺を「ヒロ」と呼ぶのは、家族以外ではただひとり。実家のある故郷――島根県黄菅(きすげ)町にいるはずの、坂山明良(あきら)だけのはずだ。

 なぜだ。あいつには、俺の今の番号を教えていないはずだ。

 薄ら寒いものを感じつつ、次のメッセージを開く。今朝七時半頃、実家の兄貴からだった。


『ヒロへ 隣のアキラくんが亡くなった。線香を上げに帰ってこい。 実範』


 危うくスマホを取り落としかけた。

 即座に電話をかけた。兄貴はワンコールで出た。


「アキラの奴、死んだのか」


 自分の声が、うわずっているのがわかった。


「山道を車で走るうち、谷に落ちたらしい」


 兄貴の声は、表向きは落ち着いているようだった。

 続く言葉に、俺の心臓は凍りついた。


「三日くらい前から、行方がわからなかったそうだ。亡くなったのは二十四日か二十五日だと警察は言っている。クリスマスに気の毒なことだ」


 待ってくれ。なら、さっき届いたショートメッセージは何なんだ。質の悪いスパムか。それとも――

 言葉を失う俺へ、兄貴はさらに続けた。


「ヒロ。アキラくんは、お前の帰りをずっと待っていた。お前が帰ってきたら、絶対おいしいと言ってもらうんだ、と、料理修業をずっと続けていた……どうして帰ってこなかった」

「それ、は」


 返す言葉がない。怖かったのだと、今更言えようはずもない。

 修業を積んだ俺の味を、あっさりあいつは打ち負かすんじゃないか。俺はまた、才覚の違いに打ちのめされるんじゃないか――

 そんな恐れがあったなどと、言えるはずがない。専門学校の学費を、店の開業資金を、援助してくれた親や兄貴の前で。


「せめて線香はあげてやれ。なにもかも、もう遅いが……せめてもの償いだ」


 兄貴の声に、有無を言わさぬ圧がある。

 店が忙しいとも、言えそうにない。年末は二十九日から休業予定だとは、調べられればすぐバレる。言い逃れは、できそうにない。


「ああ……たまには、家にも顔を見せなきゃならねえしな」


 電話は、兄貴の方から切れた。深い溜息と共に、ベッドへ腰を下ろす。

 鮮やかなイズモキスゲの花々と、あどけない笑顔とが、一瞬脳裏を過って消えた。

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