2-11 竹光に月は映らず
貧乏暮らしで日々をやり過ごす浪人は、鴉に食われかけた小蛇を助ける。帰宅した長屋では女ばかりを食う「鬼」が近隣に現れたと騒ぎになっていた。頼りにされるも浪人は刀を質に入れており、腰に帯びたのは竹光のみ。そこへ実際に鬼が襲来。女達が血を流し叫ぶ中、浪人は竹光を手に捨て身で立ちはだかる。しかし鬼を相手に竹光で何ができる。そう思った瞬間、竹光が脈打ち白い女が現れる。「その竹光は鬼を斬れます」女の言葉通り、浪人は死闘の末に鬼の首を討つ。後の処理を役人へ任せ、瀕死の女の安否を確かめた浪人は白い女と向かい合う。自らを助けられた小蛇と名乗り、恩返しのため人の姿で共に暮らすと云う白い女。波乱を予感しつつも、浪人は静かにその開始を受け入れるのだった。
そんな小蛇を食ろうても腹の足しにもならんだろうに。
浪人が見るともなしに視線を流した先、糸切れのように細く頼りない白蛇の頭を咥えた鴉がぶんと首を振り回す。飲み込まれまいと必死に尻尾を振りたくる白蛇の腹のあたりに爪を立てんとする鴉に向かい、なんの同情心からか小石を放る。広げた羽の付け根に当たりぎゃっと一声鳴いた鴉はくちばしから獲物を取り落とし、その隙にするすると草場の合間を縫って白蛇が消えてゆく姿を見送ると、浪人は尚もぎゃあぎゃあと不平を漏らすかのように羽ばたく鴉に向かって「あんな小蛇、見逃してやれ」とうそぶいた。
尻でいいだけ温めた石垣からよっこらせと腰を上げると、その拍子に浪人の腹がきゅうと鳴る。懐から取り出した薄っぺらな財布に何も入っていないことを確かめ、浪人は空きっ腹をなだめ歩き出した。頼りなく縮こまった背を、かま首をもたげた小蛇がじっと睨めつけるのを全く気付く素振りもなく。
足を引きずり長屋に戻れば、井戸端に集まる女達の姿があった。素通りするつもりだった浪人は、目が合った女に仕方なくひょいと首だけで会釈する。女はそのまま行き過ぎようとする浪人の袖を引き足止めると口角に泡を飛ばした。
「ちょっとお侍さん聞きましたか?」
女の勢いに身をのけぞらせ避けた浪人は問い返す。
「な、なんの話であろうか」
それを切っ掛けに女達が口々に唾を飛ばす。
「向こう三町の長屋に鬼が出たんですってよぉ」
「長唄の指南をやってた後家さんが食われたって」
「この前は川沿いに夜鷹の頭だけが落ちてたとか」
「おお怖、おお怖」
ぶるりと己の両肩を抱き身を震わす女達を目の端に、浪人は無精髭の顎を撫でつけた。
「鬼、ねぇ」
噂は浪人の耳にも届いていた。そいつは女ばかりを狙って食い散らすと。歯形から見るに獣の類いではないと。最初の犠牲が出たのは確か雪解けの頃。吉原から足抜けした女郎が胴体だけ食われた姿でうち捨てられていた。一緒に逃げたはずの間夫には食われた跡はなく、ただ首を捻じ切られていたと云う。
「女ばかりを食う鬼、か」
その呟きに女達が「恐ろしや」と浪人に詰め寄る。
「お侍さん、鬼退治をしちゃくれませんかねぇ」
「この長屋にも女は住んでおります」
「その腰のもので鬼を斬ってくださいまし」
どうか、どうかと手を合わせられ浪人はへの字に口を曲げた。斬ろうにも竹光では鬼は斬れまい。食うに困り質入れした刀はとっくに流れていた。武士の魂はたったふた月ほどで食い詰めてしまった。そんなことはおくびにも出せぬが。浪人は咳払いをひとつ、女達を見回しもっともらしく眉間に皺を寄せた。
「まぁなんだ。日暮れにはできるだけ外を出歩かぬように」
云いかけた言葉は木戸を破る轟音に遮られた。ぎょっと首をすくめ音の方を振り向く女達、その隙間から浪人は見た。逢魔が時のやけに朱い空を背に、蓬髪から二本の角をそそり立たせた異形の姿を。長屋の屋根を頭ひとつ越える体躯。赤黒い肌にぼろ布を纏っただけの筋骨。成る程その腕ならば人の首など簡単に捻じ切れるであろうと妙に感心した浪人の耳に、つんざく悲鳴が刺さった。
「ひぃ、ひぃぃいっ!」
「おさむらいさまっ、おさむらいさまっ!」
恐怖と涙に顔を強張らせる女達。それに気付いた鬼がにんまりと唇をめくり黒ずんだ牙を剥き出した。どれから食ってやろうか、そう見えた。一歩後ずさり、浪人は刀にやりかけ手を止めた。なまくらどころか竹で何ができようか。生唾を飲み浪人は女達の前に出た。
「早う逃げろ!」
もつれた足と抜けた腰でそろそろと距離を取る女達を背に庇い、鬼と対峙する。獲物との間の邪魔者を、鬼はビードロの眼で睨めつけた。低く唸りが鬼の喉を鳴らす。ぎちりと握られた拳が振るわれ長屋の薄い壁を粉砕した。ばきばきと鳴る板きれの断末魔に女達の悲鳴が重なる。木っ端を頭に肩に積もらせ、それでも浪人は鬼から眼を離さない。騒ぎを聞きつけた同心が駆けつけるまであとどれくらいだろう。鬼の口の端からぼたぼたと唾液が流れ落ちる。その醜悪な様に吐き気を覚えながらも、浪人は背に女達を庇い続けた。やがて痺れを切らし鬼がぐっと腰を落とした。来る。そう思う間もなくほんのひと飛びで距離を詰めた鬼が女のひとりへと爪を伸ばす。ぎゃあと悲鳴。切り裂かれた着物から覗く女の白い背。ざくりと食い込む爪。歪に盛り上がる肉と脂肪。もんどり打ち地に伏せる女の背からじゃぶじゃぶと流れる血。ぎゃあぎゃあと泣き喚くところを見ると致命傷ではないらしい。浪人はべろりと唇を舐め、鬼へと叫ぶ。
「待て待て待て!」
女が他の者の手で向こうに引きずられてゆくのを確かめ、浪人は足下の木っ端を鬼へと投げつけた。ちらりと鬼が浪人を睨めつける。
「貴様の相手はこの儂だ!」
まるで舌打ちでもしそうな人間くさい表情。鬼が真っ向から浪人を見た。女を食らう前に邪魔者を片付けようと算段したのか。女郎と共にいた間夫もそうして首を捻じ切られたのか。浪人はぶるりと震えた。素直に首をやるつもりもないが。どしんと鬼の裸足が浪人へと一歩を詰めた。細く残る陽を退けるように空に浮かぶ月。鬼の夜目がどれほど利くかわからぬが、明らかに不利。早鐘の様に鳴る心の臓を宥め賺し、浪人はそろりと竹光に手を掛けた。薄っぺらな竹ではほんの一撃も与えられぬだろう。思えばつまらぬ人生だった。最期に人助けを成して死ねるのなら面目は保たれよう。受け入れるつもりの浪人の手の中で、どくりと竹光が蠢いた。
「ひっ!」
情けない声が漏れ出るも視線は鬼を捉えたまま、浪人は竹光を鞘の上から確かめる。弾力とざらりとした触感。まるで鱗のような。柄を握ってみれば妙に手に馴染む。はて、竹光とはこんな心地であったか。そう首を傾げる浪人の耳に、ふいに声が届いた。
「斬れますよ。ぬし様の竹光は鬼斬りにございます」。
場にそぐわぬ涼やかな調子。視線の先、鬼のその向こうに妙齢の女がいた。白い髪に白い着物。現世のものとは思えぬ風貌のその女に、鬼は気付いていないようだった。浪人は鬼への注意を逸らすことなく女に問う。
「斬れる……とは?」
「言葉の通りにございます」
人のものとは思えぬ眼差しが、真っ直ぐに浪人を射貫いた。ほんの一瞬、そちらに視線を奪われた隙を見逃すほど鬼も無能ではない。ぐるると喉を鳴らし振りかぶった拳を浪人へと叩き下ろした。考えるよりも速く、浪人の手の中で竹光が跳ねた。己を抜け。そう汲み取った。白刃一閃。横薙ぎに振るった竹光は竹のそれでなく、鱗のような刃文に月明かりを映しぬるりときらめいた。刹那、ぶしゅりと音を立て鬼の手首から先がどす黒い血を滴らせながら落ちた。
「き、きれた!」
浪人の言葉は鬼の咆哮にかき消される。苦痛と、怒りと、苛立ちと。鬼は牙を剥き浪人へと残った方の腕を振るった。二撃目、今度は自身の意思でもって浪人は脇に構える。右上からの拳を紙一重で躱し手首へと刃を突き立てた。何の抵抗もなく、豆腐でも切るかのような手応え。だが鬼の手はぼとりと落ちた。両手先の失われた腕を目の先まで持ち上げ、鬼が瞬きする。身の上に起こったことを理解できないといった様子で。
「は、ははっ! 斬れる! 斬れるぞ!」
浪人は強張った頬で笑った。腕にそこそこの覚えがある身。斬れる刀さえあれば倒せぬまでも退けるくらいはできるであろう。両手先からぼたぼたと血を流し、怒り心頭といった形相の鬼が浪人を睨む。腰を落とし構えを解かぬまま浪人が鬼を嘲る。
「どうした、手が無くば何もできんか?」
挑発に乗り鬼が浪人へと駆けた。蹴り出された足を伏せて躱す。均衡を失いぐらりと傾く鬼。手首の先が無く身を支えることもできず膝をつき上体を倒す隙を見逃さず、浪人は跳ねた。手の中の刃が白く発光する。蓬髪に覆われたうなじの骨を、まるで魚のそれの如くぽきりと斬る。ずぶずぶと肉に埋まる刃。声を出す間も与えず、鬼の首は落ちた。
「お見事でございます」
白い女が、のぼり立ての月の下で縦長の瞳孔を煌めかせた。
駆けつけた同心達に後の処理を任せ、傷を負った女の無事を確かめ、浪人は狭い自室で白い女と向き合う。
「わたくしは、昼間お助けいただいた白蛇にございます。ご恩をお返ししたい思いのあまり、人に化けて参りました」
浪人の脳裏に、鴉に飲まれかけていた小蛇が思い出された。
「あの時の。で、これもお主の技か?」
傍らの、今はすっかり竹光へと戻った刀をぽんと叩き問うと、白蛇はにっこりと口の端を持ち上げた。
「あやかしは、あやかしの加護で斬れまする故」
あやかしの加護。口中でその意味を確かめるように呟くと、浪人は白蛇へと頭を下げた。
「儂は志摩三郎と申す」
「小雨とお呼びくださいませ」
美しく笑む小雨。だがこの同居が決して楽しいだけのものでは無いことを、志摩は何かしらの勘で察し深く息を吐いた。明かり障子から刺す月だけが、それを見ていた。





