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 ルカは疲れたな、と窓を見つめて思った。中庭に植えられた雑木は、伸びすぎた枝をついこの間ちょん切られ、せっかく肉をつけた枝の年輪を晒し、黙って立っていた。無邪気な小鳥が暢気に羽根を休め、囀ずっては飛んでいく。その拍子に揺れる緑が、どこか気だるげに見えた。ちょっと放っておいてくれないか。耳をすませば、そんな声が聞こえるような気がした。

 ふと、葉と葉の奥に鳥がいたことに気がついた。緑色の、いや、まるで羽根の代わりに葉そのものを纏ったような鳥がひっそりと佇んでいた。思わずじっと見つめる。羽根には葉脈までしっかりとある――あれは間違いなく葉っぱだ。葉っぱが羽根の奇妙な鳥がそこにいた。羽は無惨にも虫に食われたように穴がそこら中にあいていた。

「先生、次の患者さん待ってますよ」

 はっと我に帰れば白いカーテンから、看護婦が新たなカルテを押し付けきた。「今日は忙しいんですから、ぱっぱっと終わらせてくださいな」というお小言も添えて。振り返れば奇妙な鳥はいなくなっていた。

 休日の病院は朝からごった返していた。労働者や子ども、学生が押し掛け、看護婦はちょこまかと二十日鼠のように走り回っていた。今月は質の悪い風邪が流行っていて、どこの病院も診療所も混んでいるらしい。いったいあと何人診たら終わるのだろう。

 ルカは疲れたな、とため息をついた。上からは数をこなせと急き立てられ、一人一人じっくり診察する時間がなく、患者は不安な顔をしたままカーテンから去っていく。しかし医師が5人しかいない救急外来、あとが詰まって診療時間内に終わらない。

 書き終えたカルテと交換し新たな患者を呼ぶよう指示を出す。時計を見れば午後3時。あと2時間、あと2時間と呪文のように繰り返し、その顔にいつものように笑顔を貼り付ける。

「やぁ、ロッテンマイヤーさん。今日は如何しましたか?」

 老婆の肩で耳の生えたふわふわな毛玉が跳ねた。ぎょっと瞬きをすればすぐに消える。ルカは眉間を揉んだ。どうやら本格的に疲れているらしかった。



* * *



 急患のおかげで二時間の残業終え、疲労を抱えた体を引きずり、ルカは安アパートの自室に戻り、シャワーを浴びる。

 学生時代から住み込み、8年になる部屋はルカの唯一の楽園だった。同僚たちは収入が安定すると早々に自分たちの新しい城を構えた。結婚し、子どもまでいる同僚も少なくない。

 ルカの部屋は狭い。狭いキッチンに、バスルーム、寝るための部屋が一つ。ベッドとテーブルセット、クローゼットと本棚を置けばもういっぱいだ。欲を言えばもう一つ本棚を置けるスペースが欲しいが、それだけだ。手を伸ばして少し余るくらいのこの広さをルカは気に入っていた。それにこの狭い部屋でももて余すようなずぼらな性格では、さらに広い部屋などゴミ屋敷にしかねなかった。部屋の隅では積み本が崩れ、ベッドには脱ぎ捨てた服が丸まっていた。部屋を掃除しに来てくれていた彼女とは一ヶ月前に別れてしまっていた。

 体を拭き、部屋着を着て少し休むつもりでベッドに仰向けになる。今日は母親の誕生日だった。わざわざ郊外の町まで祝いに行かなくてはならなかった。でないと暇を持て余す母親がねちねちと文句を言うためだけにこちらに出向いて来かねない。

 少し休むつもりがうとうと微睡み、疲れと睡魔が手を取り意識を拐っていく。

 懐かしい夢を見た。幼少に暮らした、田舎の夢だ。

 夕暮れの広い空、様々な植物が植えられた広い庭、その中にある素朴な家。ポーチで大きな白い犬が居眠りをし、黒猫が檻の鶏を驚かす。頭の上を灰の鳩と飛んだ。

 幼いルカは誰かの後ろをちょこまかとついていった。柔らかい色の茶色の髪、濃い緑の長いカーディガン。一人っ子だったルカが兄と慕った人物だった。名前を確か、アルと言う。彼は村の高台で独りでのんびりと暮らしていた。村の子どもとは相容れなかったルカは毎日高台の家に駆けていった。

 ルカ。アルがルカを呼び、庭隅を白い指で指した。不思議な声だった。アル自身から発せられるのではなく、何故か周囲から響いてくる。見て、狸がいます。

 指のさす方向を追うと狸が茂みから顔を出していた。見つけられたのが予想外だったのか、片足を上げて固まっている。

 おいで。アルがしゃがみこんで、狸に向かって手を伸ばした。狸が釣られたように一歩踏み出す――――ワンッ!


「う、わっ」

 跳ね起きると外は真っ暗だった。近所の犬が喧しく吠えたてる。あそこの犬は誰にでも吠える。家の前を誰かが通ったのだろう。

 時計を見て、しまったとルカは顔をしかめた。9時半を過ぎていた。一休みのつもりが2時間も寝入ってしまったらしい。家族揃ってとりましょうと言っていたディナーはもう終わっているころだ。

 ルカはとりあえず普段着に着替え、綺麗にラッピングされた贈り物を手に車に乗り込む。勤務先の病院は近いし、都市部は交通網が発達しているため車に乗る必要はなかったが、休日には都会を離れ、郊外に出ることの多いルカには車は便利なものだった。おかげで母親には年老いた父の代わりによく手伝いに呼び出されるのだが。そこだけが失敗だった。

 ルカの両親の家は郊外の街にある。そこで父は現役で開業医をやっていた。母親は近所のリーダー格となり、街を回しているらしい。医者、医者の妻というだけで人々の尊敬を集めるもので、田舎に行けば行くほど地位が上がるものらしかった。


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