第9話:キャラメルの夜
夜の劇場は、まるで記憶の残骸だった。
照明の落ちた舞台、破れかけの赤い幕、ホコリをかぶった観客席。
——そこで、老いた男が一人、スポットライトのない舞台の中央で座っていた。
「来たか、魔女よ」
その声にはかすれと風格があった。
彼の名は南条 獅堂。
かつて“最後の名優”とまで称えられた男。
だが今や、名前を覚えている者も少ない。
魔女は幕間のように、静かに歩を進めた。
「あなたが、依頼人ね。記憶を……捨てたいの?」
老人は、わずかに笑った。
「いや。最後の一夜だけでいい。舞台に立った、あの一夜の記憶を——君に、渡したい」
黒猫が魔女の肩で囁く。
「にゃ? それって“忘れたい”んじゃないのかにゃ?」
「……きっと、“残したい”記憶なのよ。誰かに、ちゃんと託したいの」
魔女は静かに頷いた。
老人は、ぽつりと語り始めた。
「俳優という生き方は、実に孤独でね。
演じて、演じて、観客に拍手されて、それでも“本当の自分”は誰なのかわからなくなる。
だから私は、“誰かの心に残る役”だけを演じてきた」
魔女は問う。
「それなのに、なぜ……その最後の舞台を“記憶から手放したい”の?」
老人の目が細められた。
「……その舞台で、私は自分の“本当の素顔”を、初めてさらけ出してしまった。
私が演じてきたのは、誇り高い将軍でも、高貴な詩人でもない。
——ただの、弱く、ずるく、誰かに憧れた“南条獅堂”という人間だった」
「それを、観客に……?」
「いや。観客などいなかった。
あれは、最後の夜。劇場が取り壊される前、誰もいない舞台で私は、一人芝居をしたんだ。
誰にも見せなかった、本当の私を」
彼の胸元から、小さな紙の包みが差し出される。
そこには、手作りのキャラメルがいくつか入っていた。
「舞台が終わったあと、誰かが楽屋にこれを置いていった。
名前もなかった。だが……きっと、それは“誰かの共鳴”だったんだ」
彼は目を閉じ、かすかに震える声で言った。
「その記憶が……重すぎるんだ。誇りと、弱さと、寂しさが詰まっていて。
だから、誰かに……君に、引き受けてほしい」
魔女は無言でうなずき、彼の記憶に触れた。
——無人の舞台。
緞帳が開き、誰も見ていないはずの劇場に向かって彼は演じる。
若かりしころの栄光、仲間との確執、愛した女優、そして父に見てもらえなかった過去。
全てを吐き出すように、静かに、けれど全力で演じきった一夜。
その舞台は、空っぽだったはずなのに、どこか温かかった。
記憶の光が、淡い琥珀色に変わり、ゆっくりと魔女の掌の中で形を成す。
——キャラメル。
とろける甘さと、焦げた香り。
それは、誇りと哀しみの味だった。
老人は、目を伏せてつぶやいた。
「ありがとう。……君に、観客になってもらえて、よかった」
その瞬間、魔女の目に、ひと雫だけ光るものが滲んだ。
帰り道。
瓶の中のキャラメルを一粒、口に運ぶ。
「……少し、涙の味がするわね」
黒猫が静かに言った。
「それでも、少しだけあったかいにゃ」
瓶には、こう記された。
《記憶番号0791:南条獅堂/最後の独演/キャラメル》