第8話:ゼリービーンズと約束の箱
雨が降る日だった。
ぽつぽつとした静かな水音の中、魔女は古い木造の病院を訪れていた。
依頼は「ある少女」から届いていた。
差出人の名は、葵。
封筒に添えられていたのは、小さな折り紙と、虹色のゼリービーンズがひとつ。
「妹に、私のことを“忘れさせて”ください。
私のいない未来を、笑って生きていけるように」
病室には、二人の少女がいた。
ひとりはベッドの上。顔色の悪い、細い体の少女。
もうひとりは窓際に立ち、魔女を出迎えた、元気そうな子。
どちらが依頼人か、一目ではわからなかった。
だが魔女は、目を細めて言った。
「……あなたが、“葵”ね?」
「うん。あたしが姉の葵。ベッドにいるのは、妹の灯」
黒猫が驚いてひげをぴくりと揺らす。
「にゃっ!? 元気なのが姉にゃ?」
魔女は静かに頷いた。
「本当は、どっちが姉でどっちが妹かなんて、あたしたちにもよくわからなかったんだ」
葵はそう言って微笑んだ。
「でも、先に“さよなら”するほうが姉だって、なんとなく思ってた」
生まれつきの心臓病。
葵は幼い頃から入退院を繰り返し、もう長くはないと知らされていた。
灯はそんな姉にずっと寄り添い、二人だけの「世界」を築いてきた。
「……灯は、きっと立ち止まっちゃう。
あたしがいなくなったら、全部止まってしまうくらい、あたしのことを大事にしてる。
だから、忘れてあげてほしいんだ」
葵は懐から、小さな木箱を取り出した。
「これは、“約束の箱”。あたしたちが一緒に詰めてきた、大切な記憶たち」
箱の中には、手紙、小さな写真、ビー玉、ボタン、そしてカラフルなゼリービーンズ。
「これ、全部“共有してる記憶”なの。これを、妹からだけ消してほしい」
魔女は戸惑いを覚えた。
片側だけの記憶消去。
それは、記憶魔術の中でもとくに繊細で、心の深い層に触れる行為だった。
「……片方だけが覚えていて、片方だけが忘れても、きっと“何か”は残るわ」
「それでいいの。ほんの少し、残響があれば。
あたしのことは“誰かと一緒に笑っていた気がする”くらいの記憶になれば、それでいいの」
葵は、妹の灯の額にそっと口づけをして、魔女に向き直った。
「——お願い。あの子の未来を、軽くしてあげて」
魔女は灯の額に指先を添えた。
記憶の世界にそっと入る。
そこは、遊園地の観覧車。
おそろいのランドセル。
退院祝いのケーキ。
日記を交互に書いたノート。
笑い声と、雨上がりの匂い。
ひとつずつ、ゼリービーンズのような光が浮かび上がり、魔女の手に集まっていく。
灯の頬に、一筋の涙が流れた。
でも、それは“誰かを思い出して泣く涙”ではなく、
“なにかを見送った”後の、ぽっかりと空いた感情の空白だった。
「……うん。夢、見てた気がする。
誰かといっしょに、ずっと笑ってたような……。でも、誰だったか、もう思い出せないや」
魔女はただ、「よかったね」と微笑んだ。
葵は、その様子を見届けると、魔女に深く礼をした。
「ありがとう。あたしは、あの子の笑顔を覚えていられる。
それで、充分幸せだから」
魔女は瓶に封じたゼリービーンズを見つめる。
カラフルで、小さくて、甘い香り。
でも、舌に乗せると、ほんのり涙の味がした。
黒猫がつぶやく。
「これが、誰かのための“記憶の贈りもの”にゃ……」
瓶には、こう記された。
《記憶番号0790:灯の記憶より/双子の姉妹の約束/ゼリービーンズ》
(第8話・了)