第6話:ラムネの音
蝉の声が遠くで鳴いていた。
街の端、打ち捨てられた空き地の片隅に、少年がひとりしゃがみ込んでいる。
炎天下の中、汗ひとつかいていないその姿は、まるで「ここ」に属していないようだった。
魔女は近づいて声をかける。
「あなたが“手紙”を出したのね?」
少年は、無言のままこちらを見た。
目は虚ろで、焦点が合っていない。
カバンの中から黒猫が顔を出すと、ふっと言った。
「魔女さま、この子……“記憶を失ってる”にゃ。自分が誰かも、わかってないにゃ」
少年は、自分の名前を知らない。
住んでいる場所も、家族も、夏がどこから来てどこへ行くのかもわからない。
だが、ひとつだけ覚えていることがあると、ぽつりと語った。
「……お祭り、だった気がする。
ラムネの音と、誰かの笑い声。
だけど、その顔が思い出せない」
それは、かろうじて残された、夏の残響だった。
魔女はそっと膝をつき、少年の額に触れた。
「わたしは“記憶を消す”魔女。……でも、今日は“記憶を探しに来た”の」
少年の脳裏に、封じられた記憶の光がかすかに瞬いた。
魔女はその光をひと粒ずつ、丁寧に拾い集めていく。
……夕暮れの神社、屋台の灯り、浴衣姿の少女。
手をつないで、走って、笑って。
ラムネ瓶をふたりで持って、ビー玉の音に耳を澄ませていた——
だが、そこから先の記憶が“黒く染まって”いた。
何かが起きた。
けれど、それを思い出すことはできない。
「……記憶の“穴”だにゃ。本人が封じたがってる部分が、黒く欠けてるにゃ」
魔女は、そっと瞳を閉じた。
「なら、その手前だけを拾おう。……いちばん、幸せだった時間を」
記憶の光が瓶の中へと流れ込む。
そして、そこに現れたのは、淡い水色のラムネ玉だった。
夏の空のような透明感。
ビー玉のようにきらきらと反射する、失われた笑顔の記憶。
魔女は、そっとそれを封じた。
少年は、記憶の一部を取り戻したように、静かに言った。
「……ありがとう。
名前は、まだ思い出せないけど……誰かを好きだった気がする。とても、大切だった」
「それで、充分よ。思い出さない優しさも、あるわ」
魔女は微笑み、彼にひとつの瓶を差し出した。
「あなたの心が、どうしても知りたくなったとき——この瓶を開けて。
でも、もし何も知らずに前に進みたいなら、ずっと閉じていてもいいわ」
少年は、小さく頷いた。
瓶を胸元に抱えて、ひとことだけ言った。
「また、会えるかな」
魔女は、何も言わず、静かに背を向けた。
だがその背中は、どこか温かく見えた。
帰り道、魔女は瓶のひと粒を取り出し、舐めるように味わった。
「……甘くて、少しだけしょっぱい」
黒猫が言った。
「それは、たぶん“涙の味”にゃ」
瓶には、こう記されていた。
《記憶番号0788:不明/夏祭りの微笑み/ラムネ》
(第6話・了)