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第5話:マドレーヌの約束

 夕暮れ時。古い郵便ポストの前に、魔女は立っていた。


 「……このあたり、もう何年も人が住んでいないはずだけれど」


 彼女の手には、くすんだ灰色の封筒が握られていた。

 それは、紙の質も書かれた文字も、まるで何十年も前のもののようだった。


 黒猫がカバンから顔を出し、首を傾げる。


 「これは……時間を越えて届いた手紙、にゃ?」


 「ええ、まるで時の澱みから掘り起こされたように……“過去の想い”ね」


 魔女は封を切ると、古びた文字が目に飛び込んできた。


 「——約束を守れなかった私を、許してほしい。

  でもその前に……あの人のことを、どうか、忘れさせてほしい」


 差出人の名は、「佐伯さえき 真理まり」。

 手紙の裏には、もう誰もいないはずの町の住所が書かれていた。


 魔女が向かったのは、瓦屋根の古びた一軒家。

 木戸を開けると、そこには白髪をまとめた老女が、小さなテーブルで紅茶を淹れていた。


 「……あなたが、魔女さん、ね」


 老女は魔女を見るなり、懐かしさと寂しさを滲ませた微笑を浮かべた。


 「ずっと……ずっと昔に出したつもりだったのに、届いたのね」


 魔女は頷いた。


 「記憶の願いは、時を越えても流れ着くわ」


 老女の語る記憶は、淡く、けれど確かに色づいていた。


 20代のころ、真理は小さな菓子屋を営んでいた。

 ある日、毎週決まってマドレーヌを買いにくる青年が現れる。

 彼は無口で、けれど毎回「美味しかった」とひと言だけ残して帰っていった。


 季節が巡るうち、彼らの間に言葉はなくても“通じ合うもの”が育っていた。

 けれど、ある日突然、彼は姿を消した。


 ——そして数年後、彼が“病で亡くなっていた”と知る。


 「最後まで、私は名前も知らなかったの。けれど、あの人は……私の春の光だった」


 声を震わせながら、真理は言った。


 「だから忘れたいの。でも、忘れたくないの。ずっと……私の中で、あの人はあの季節のままなの」


 魔女は、そっと彼女の手に触れた。


 「大丈夫。あなたの心が選んだ記憶だけを、私が受け取るわ」


 老女はそっと目を閉じ、頷いた。


 静かな魔法が発動した。


 陽だまりの匂い。温かな木漏れ日。店内に漂うマドレーヌの甘い香り。

 それらが光となって浮かび上がり、魔女の掌に吸い込まれていく。


 その粒たちは、ふっくらとした淡黄色のマドレーヌとなり、瓶の中に落ちていった。


 「終わったわ。あなたの記憶は、もう涙にならない」


 老女はゆっくりと目を開けた。どこか晴れやかな顔をしていた。


 「……あら、不思議。何か大切なことを、思い出さなきゃいけなかった気がするのに……涙も、出ないのね」


 「それでいいの。想いは形を変えて、あなたの中に残っているから」


 老女は小さく笑い、魔女に紅茶を注いだ。


 「お礼に、私の作ったマドレーヌ、持っていってちょうだい。焼きたてよ」


 帰り道。魔女は瓶を見つめながら、小さな一粒を口に運ぶ。


 ふわりと広がる、懐かしい香りとやさしい甘さ。


 「……こんな味、知っている気がする」


 黒猫が言った。


 「もしかして、魔女さまにも“名前も知らない人”がいたのかにゃ?」


 魔女は、返事をしなかった。

 ただ、その甘さに目を閉じて、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。


 瓶には、こう書かれていた。


 《記憶番号0787:佐伯 真理・春の面影・マドレーヌ》


(第5話・了)

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