第2話:ビスケットのぬくもり
午前0時を過ぎたころ、空気がひんやりと澄んでくる。
その瞬間、魔女の机の上に、ふっと一通の手紙が現れた。
白い封筒には何も書かれておらず、誰にも見られていなかったはずの室内に、確かに届いていた。
魔女はその封を切ると、淡くため息をついた。
「……また“家族の記憶”ね。最近、こういう依頼が多い」
カバンの中から、黒猫が眠たげな顔で這い出てきた。
「人間の“あったかい記憶”ってのは、消したいようで消したくないにゃ。矛盾してるにゃ」
「矛盾してるからこそ、誰かの手を借りて忘れたくなるのよ」
魔女は便箋に目を落とし、差出人の名前を確かめた。
「依頼人は……“奏太”。小学生?」
翌日、魔女は町の小さな公園に立っていた。
ブランコの揺れる音が風に乗って響く。落ち葉が足元をかすめ、冬の気配が近いことを告げていた。
ベンチに座る男の子は、ランドセルを横に置いて黙って空を見ていた。
魔女が近づくと、彼は少しだけ警戒したような顔をした。
「……お姉さんが、“忘れさせてくれる人”?」
「ええ。奏太くんの書いた手紙、ちゃんと届いたよ」
奏太は視線を落とし、足をぶらぶらと揺らした。
「僕、ママのこと、忘れたい。……もういないから」
魔女は静かにうなずく。
「奏太くんにとって、それは痛み?」
「うん。でも、あったかいのもあるから……ごちゃごちゃしてて、苦しい。泣きたくなる。わけもなく怒っちゃうんだ」
魔女は、ゆっくりと彼の横に腰を下ろした。
奏太の母親は、数か月前に事故で亡くなっていた。
それ以来、奏太は心を閉ざし、父親とも会話が少なくなったという。
夜になると、母が作ってくれたビスケットの香りが記憶の底から立ち上り、どうしようもなく涙が出てくるのだと、彼はぽつりぽつりと話した。
「消えちゃったのに、匂いだけが残ってて……苦しくなるんだ」
魔女は、少年の頭をそっと撫でた。
「それはね、記憶がまだ“生きてる”ってことだよ。だから、お願いする前にもう一度だけ聞くね。……本当に、忘れたい?」
奏太は迷った。そして、ほんの少し泣きそうになりながら、口を開いた。
「……忘れたくない。でも、覚えてるのも苦しい。……だから、消してほしい」
魔女は彼の前にひざまずき、目の高さを合わせた。
「わかったわ、奏太くん。あなたの痛み、私が引き受ける」
彼女の指先が、少年の額にそっと触れた瞬間——
やわらかな光が、ふわりと立ちのぼった。
それはほんのりと焼きたてのビスケットの香りが混じる、あたたかな金色だった。
母の声。手。優しい叱り方。台所の湯気。膝の上。
それらがひとつひとつ、魔女の手の中へと集まっていく。
ガラス瓶の中に収まったその記憶は、丸くて、やさしい色合いのビスケットに姿を変えていた。
「終わったよ。もう奏太くんは、ママの記憶を思い出せない。でも、心は軽くなるはず」
奏太はしばらく黙っていたが、やがて「……ありがとう」と小さく呟いた。
その声は、かすかに震えていた。
「本当に、全部……忘れちゃったんだよね?」
「ええ、でも、ほんの少しだけ“あたたかさ”が残る。何かを忘れてしまった寂しさだけが、時々、奏太くんの胸をくすぐるだろうね」
魔女が言うと、奏太はなぜか鼻をすすった。
「……なんで涙が出るんだろ。何も悲しいことなんて、ないのに」
夜、魔女は灯りの消えた部屋の中で、ビスケットの瓶を手に取った。
「……これは優しい記憶ね」
「にゃ。なんかホロホロしてるにゃ」
黒猫が瓶の中を覗き込み、丸いお菓子にそっと手を伸ばす。
魔女は瓶に、丁寧にラベルを貼った。
《記憶番号 0785:小学四年生・奏太・母の面影》
——消えた記憶の一部は、こうして魔女のもとに留まり続ける。
けれど、魔女自身もまた、奏太の名を明日には忘れてしまう。
「……私も、誰かを忘れたんだろうか」
魔女はそう呟きながら、ビスケットのかけらを一口かじった。
優しい甘さに、どうしようもなく、涙が出そうになる。
(第2話・了)
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