第18話:カヌレと記憶の泥棒
「……ない」
魔女は、いつものように記憶棚を点検していて、気づいた。
一本の瓶が消えていた。
番号札は《000》。
彼女が今まで誰にも見せたことのない、“最初の記憶菓子”だった。
黒猫がカバンから飛び出してきて言う。
「にゃ……番号ゼロって、魔女さまの……?」
瓶が収められていた場所には、一片の黒い羽根が落ちていた。
それを見た瞬間、魔女は一瞬だけ震えた。
「……まさか、“記憶泥棒”が動き出したの?」
その名は、協会でも数十年姿を見ていないとされる禁術使い。
他人の記憶菓子を盗み、自分のものに変えて“魔力”に変える外道の魔女。
協会の封筒が現れ、緊急連絡が届く。
《数件の魔女間で、記憶菓子の盗難が報告されました。犯人は“記憶泥棒”の可能性があります。》
《特に、魔女番号“E-1”のあなたには警戒を。》
《奪われた記憶に、“あなた自身の情報”が含まれている可能性があります。》
魔女は愕然とする。
E-1――それは、彼女の協会内のコードネーム。
だが、自分の“名前”は思い出せない。
そのすべてを、封じたのが瓶《000》の記憶だった。
「私……昔、自分の名前を、記憶から消したのよ。
自分を“魔女”にするために――全部、捧げた」
黒猫は言う。
「にゃぁ……その“誰か”を忘れることで魔女になった……って、そういうことだったにゃ?」
瓶《000》の記憶は、カヌレだった。
それは、幼い頃に自分で焼いた、
初めて誰かに「美味しい」と言ってもらった焼き菓子。
「誰に、あげたのか……それが、私の名前を知る手がかりだった」
黒猫が耳をぴくりと動かす。
「にゃ……! 魔力の気配! 西の森に、瓶の波動がある!」
魔女はすぐに魔法の家を閉じ、黒猫を肩に乗せて、森へと向かう。
夜の森。
そこには、黒いフードをかぶった人物がいた。
手には、魔女の瓶が握られている。
「懐かしい匂いだな、“E-1”。
……いや、“レイラ”。」
その名を聞いた瞬間、魔女の視界がぐらりと揺れる。
「その名前は――誰……?」
フードの男は笑った。
「忘れたままでいい。お前が“魔女”として生きていけるならな。
だがこの記憶、俺が喰わせてもらう。
魔女の最初の記憶は、強烈で、魔力の源だ」
魔女は手を振り上げ、詠唱する。
「……忘却の霧よ、奪うための手を拒め」
夜の森に、濃い霧が立ちこめる。
瓶を奪おうとする手が、瞬間的に燃え上がる。
男は悲鳴を上げ、瓶を落とす。
魔女はすかさず瓶をキャッチする。
「“私の記憶”は、他人に使わせない。
たとえ自分が思い出せなくても、私の大切な名前は、私だけのものよ」
瓶は、ほのかに光る。
中にあるのは、柔らかくてしっとりとした小さなカヌレ。
外の皮は固く、なかなか割れない。
けれど、内側は――確かに、甘かった。
魔女はそれを、今はまだ食べない。
瓶の中にそっと戻す。
「“レイラ”――もし、それが私の名前なら。
……もう一度、自分を取り戻したときに、呼ぶわ」
瓶には、こう記された。
《記憶番号000(再封印):?/始まりの味と名前の断片/カヌレ》




