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第12話:マドレーヌの揺りかご

 魔女の元に、古びた紙の手紙が届いた。

 上品な筆跡で、短くこう書かれていた。


 「お願いがあります。

  “わたしの初恋”を、マドレーヌにしていただけませんか?」


 差出人は、山崎 澄江やまざき・すみえ

 小さな港町で一人暮らしをしている老婦人だった。


 家の扉を開けたとき、魔女は一瞬、時間が巻き戻ったような感覚を覚えた。

 玄関には淡いラベンダーの香り。

 棚の上には、年季の入った手作りのマドレーヌの型が飾られていた。


 「まあまあ……こんなに早く来てくださって。お茶でもいかが?」


 澄江は柔らかく笑い、テーブルに銀のポットを置いた。

 黒猫はすぐに膝の上を陣取り、満足そうに鳴く。


 「……初恋を忘れるなんて、寂しくないのですか?」


 魔女の問いに、澄江は少し目を細めた。


 「いいえ。寂しいの。でも、残しておいても誰にも渡せない想いなら、風にしてしまった方がいいと思ったのよ」


 澄江の語る物語は、戦後の混乱の中のほんの短い時間だった。


 澄江は学生時代、疎開先の村で出会った青年——

 年上の絵描きに、恋をした。


 彼はいつも汚れた画帳を抱え、無口で、でもとても優しかった。


 ある日、澄江が焼きたてのマドレーヌを渡した時、彼は初めて笑ってくれた。

 それが、彼と交わした唯一の笑顔の記憶だった。


 「でも、その後、彼は突然いなくなってしまったの。

  誰にも告げず、まるで、煙のように……」


 澄江は、老いた指で一枚の絵を差し出した。

 スケッチブックから切り取られたそれは、若き日の澄江の横顔だった。


 「これ、見つけたのは戦後すぐ。私に何も言えなかったのね……きっと」


 魔女はそっと手を伸ばした。

 記憶の中に入ると、そこには静かな色彩が広がっていた。


 薄曇りの空。

 土の匂い。

 手渡したマドレーヌ。

 目を細めて笑う彼の横顔。


 その一瞬だけが、記憶の中で、まるで揺りかごのように温かく揺れていた。


 記憶が、柔らかな黄金の光になって、魔女の掌の上に落ちる。

 ふっくらと丸い形に固まり、それはマドレーヌへと変わっていく。


 「……これで、よかったのでしょうか?」


 魔女が尋ねると、澄江はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりとつぶやいた。


 「ううん。……やっぱり少しだけ、寂しいわね。でも、

  私の胸の中でしか眠っていなかった彼を、

  誰かと共有できた気がして、ちょっとだけ救われたの」


 帰り道。

 魔女は、瓶に収められたマドレーヌを見つめながら言った。


 「……この記憶は、“失われた愛”なんかじゃない。

  ちゃんと、誰かを温めてきた、生きた愛だわ」


 黒猫が目を細めて言う。


 「ふわふわしてるけど、芯が強いにゃ。

  マドレーヌって、記憶の“余韻”の形にぴったりにゃ」


 瓶には、こう記された。


 《記憶番号0793:澄江/初恋の笑顔/マドレーヌ》



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