第10話:綿菓子の風景
その夢は、いつも“甘いにおい”から始まる。
焼けた日差し、祭囃子、風に乗る笑い声。
小さな手が、誰かの指を握っている。
その指は、あたたかくて、細くて、でもしっかりとした力があった。
少女は、ひとつだけ知っていた。
——この手を、絶対に離してはいけない。
けれど、夢の終わりはいつも同じだった。
「……お母さん……!」
指が、すり抜ける。
風が、すべてをさらっていく。
残されたのは、ピンク色の綿菓子だけ。
「魔女さま。にゃー、また“あの夢”にゃ?」
カバンの中から黒猫が顔を出し、心配そうに見上げた。
魔女はしばらく何も言わなかった。
そして静かに呟いた。
「……この夢、たぶん“私の記憶”よ」
「でも魔女さま、過去を全部失ってるはずじゃ……?」
「奪われたんじゃない。きっと——自分で封じたのよ」
魔女は立ち上がり、机の引き出しを開いた。
そこには、一本の封のされていない封筒がある。
差出人の名は、ない。
だが中には、わずかに色褪せた一枚の絵。
小さな子供の描いた、母と手をつなぐ女の子の絵だった。
「……これだけは、なぜか手放せないの」
魔女は決意する。
「私は他人の記憶ばかり集めてきた。けれど、そろそろ……自分の“失ったもの”にも向き合わなきゃいけないのかもしれない」
「記憶を戻すってことにゃ? でも……戻すって、怖くないにゃ?」
魔女は微笑んだ。
「怖いわ。でも、それ以上に——知りたいの。“あの人”の名前を」
魔女は封筒を胸に抱え、記憶の瓶が並ぶ棚の前に立った。
その中に、綿菓子のようにふわふわとした光を放つ瓶がひとつあった。
まるで夢の断片が、そこに結晶化しているようだった。
そっと瓶のふたを開ける。
風がふわりと吹き抜けた。
遠い夏の匂い。指先に残るぬくもり。少女の泣き声。
そして、誰かの歌うような声——
「わたしの娘はね、世界でいちばん、優しい子になるのよ」
「……お母さん……」
魔女の頬に、知らず涙が伝った。
記憶は完全ではない。
けれど、“失った”のではないという確信だけはあった。
自分で、閉じたのだ。守るために。忘れることで、進むために。
黒猫が言った。
「魔女さま。ひとつだけ、はっきりしたことがあるにゃ」
「何?」
「魔女さまは、“記憶を食べて生きる魔女”じゃにゃい。
“誰かの痛みを抱きしめて、一緒に歩く魔女”にゃ」
魔女は涙を拭い、微笑んだ。
「ありがとう。……その言葉、どこかのお母さんも言ってくれた気がする」
瓶には、こう記された。
《記憶番号0001:不明/少女と母の手/綿菓子》




