第1話:金平糖の涙
新しいシリーズを始めました。
お読みいただければ幸いです。
その町には、「記憶を忘れさせてくれる魔女」がいるという噂があった。
忘れたい思い出がある者は、宛名も住所も書かれていない手紙を夜空にかざし、願いを記す。ただそれだけで、封筒はふっと消えて、魔女のもとへと届くのだという。
そして今日もまた、一通の手紙が彼女の前に現れた。
「……恋の記憶、か」
少女の姿をした魔女は、白い指先で便箋を持ち上げ、静かに目を細めた。
彼女は小高い丘の上にある、何もなかったはずの草原にぽつんと現れた一軒家の中で、それを読んでいた。
夕暮れの風がカーテンを揺らし、ガラス瓶に詰められた色とりどりのお菓子が、かすかに光を弾いている。
カバンの中から、小さな黒猫がひょこりと顔を出した。
「また恋だにゃ。人間はほんと、恋と後悔ばっかりにゃ」
「でも、その分、綺麗な金平糖になるのよ。心が痛いほど、輝くもの」
魔女は微笑み、手紙の差出人が記した名を呟いた。
「——真琴、ね」
記憶の魔法を使うには、依頼人に直接会わなければならない。
町の駅前。制服姿の女子高生、真琴は、ぽつんとベンチに座っていた。胸の前で手をぎゅっと握りしめ、誰かを待っているようにも、何かを耐えているようにも見えた。
魔女は彼女の隣に座ると、そっと話しかけた。
「こんにちは。……恋を、忘れたいんだって?」
真琴は驚いたように顔を上げ、しかしすぐに泣きそうな目でうつむいた。
「……あなたが、魔女?」
「ええ、そうよ。あなたの記憶、いただきにきたの」
真琴の話は、静かに、しかし確かに魔女の胸に染み込んでいった。
彼女には付き合っていた相手がいた。優しくて、少し天然で、でもどこまでも真っ直ぐな人。
卒業を前に、将来の進路でぶつかり、別れることになった。
それが本当に正しかったのか、今でもわからない。けれど、日々の中でふとした瞬間に、彼の名前が浮かび、胸が痛む。
「忘れたくて、でも……怖いんです。本当に全部、いなくなっちゃうのが」
魔女は小さくうなずいた。
「痛みを消すには、思い出も消さないといけない。それでもいいの?」
真琴は震える指先で、頷いた。
魔女は彼女の額に手を添え、静かに囁いた。
「——甘く、痛い記憶よ。あなたの心から、ここへ来なさい」
次の瞬間、真琴の頭上から、金色の粒がこぼれ落ちる。
それは涙のようにきらめきながら、ふわりと宙に舞い、魔女の手の中に集まっていく。
魔女はその粒を一つひとつ、丁寧にガラス瓶に詰めていく。
やがて、瓶の中にはピンクと藍色が混じるような、ギザギザの金平糖がいくつも収まった。
それは——真琴の恋の記憶だった。
「……ありがとう。なんだか、すごく……静かです」
魔女の手を離れた真琴は、どこか空っぽの目で呟いた。
「そのうち、あなたはこの出会いのことも忘れる。でもね、それでいいの。心は痛まなくなるから」
「……そうなんですか」
真琴は小さく笑って、駅のほうへと歩き出した。
けれど、数歩進んだところで、ぽろりと涙をこぼした。
「……あれ? どうして……?」
魔女はただ、静かにそれを見送った。
カバンの中から、黒猫がにゅっと顔を出す。
「毎回思うけどにゃ、忘れたはずなのに、なんで泣くにゃ?」
「記憶は消えても、心のどこかに残響が残るのよ。形にならない、感情の余熱」
魔女は瓶をそっと棚に並べた。
金平糖の入った瓶には、小さなラベルが貼られている。
《記憶番号 0784:高校二年・真琴・失恋》
それは、この世に確かに存在した、かつての愛の証だった。
その夜、魔女はソファにもたれ、瓶を一つ取り出した。
そして、ひと粒だけ、金平糖を口に入れる。
甘い……けれど、どこかざらついていて、胸が苦しくなる味。
「……この味、知ってる気がする」
彼女は呟いた。
けれど、自分がなぜ涙をこぼしているのかは、わからなかった。
その涙もまた、いつか誰かの記憶になるのだろうか。
そうして今日もまた、「忘却の魔女」の夜は更けていく。
(第一話・了)
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