第7話 奈落の母コラナヴァ
奈落の底に口を開けた《ヘル=カタコンベ》は、プレイヤーたちの間でも悪名高きフィールドだった。音も光も吸い込むような深黒の洞窟。中に入れば、すぐに“記憶”が曖昧になるという。
「このダンジョン……本当に、死者の気配がある」
薄闇に包まれた空間を進みながら、イリスは自然と肩に力が入るのを感じていた。だが、隣を歩く宗一郎の足取りは、驚くほど穏やかで揺るがない。まるで、そこが道場の廊下ででもあるかのように。
「……先生。怖くないんですか?」
「怖くない、ではない。怖れを“流している”だけじゃ」
そう言って宗一郎は、ひとつ深く息を吐く。その気配が、まるで結界のように空間の澱みを和らげていく。
やがて、最奥の広間にたどり着いた。
そこにいたのは──無数のプレイヤーの亡骸で構成された、異形の存在。
《五災》第三体、《奈落の母コラナヴァ》。
巨大な胎のような肉塊から、腕や顔や足が幾重にも伸びていた。歪み、絡まり、なおも蠢くその体は、倒されたプレイヤーたちの“記憶”と“怨念”を栄養にしているという。
「おかえり……おかえりなさい……」
コラナヴァの声が響いた。まるで母が我が子を抱こうとするように、腐敗した腕が伸びてくる。
「違う……これは、愛じゃない」
イリスは魔法を詠唱しかけた──が、宗一郎が手で制した。
「まだじゃ。“気”を通せ」
「でも、あれは……!」
「魔で断てば、記憶は残る。だが、気で流せば、成仏させることもできる」
宗一郎はそっと一歩踏み出し、手を前に出した。虚空に向けて、静かに「礼」を取る。
すると、コラナヴァの無数の眼が、わずかに和らいだように見えた。
「……どうして、拒まないの」
「憎しみの流れは、止めてはならぬ。受け止め、導く。合気とは、そういうものじゃ」
宗一郎の“気”が、コラナヴァの中に流れ込んでいく。母なる存在の“痛み”と“執着”を、ただ黙って受け止めるように。
だが、次の瞬間──
「だまされるな! あれは偽物だ!」
突如、コラナヴァの肉体から、別の声が響いた。それはかつてこのゲーム内でイリスが倒した、旧知のライバル、レイガだった。彼の姿が、肉塊の一部から浮かび上がっている。
「えっ……レイガ!?」
「おまえのせいで、俺は死んだ! その力……魔法のすべてが憎い!」
コラナヴァはプレイヤーの記憶を“模写”し、情を揺さぶることで自壊させる“心攻撃”を行ってくるのだった。
イリスは咄嗟に詠唱しそうになる……だが、踏みとどまった。
──これは幻影。私の記憶が作った、呪縛。
震える指を組み、深く、ゆっくりと息を吸う。
「……私のせいじゃない。あなたが選んだ道で、あなたが散っただけ。私は……それでも、前に進む」
その瞬間、イリスの魔力が、初めて“気”と共鳴した。
彼女の周囲に漂う魔法書が、音もなく開き──静かに、光を放つ。
「《光円・導の舞》──」
それは、敵を焼く魔法ではなかった。悲しみを包み、光に還す術式。コラナヴァの無数の顔に、ひとつずつ微笑が浮かぶ。
やがて、母なる胎は、静かに崩れていった。
宗一郎が呟く。
「……よく、気を通したな。今のは、おぬしの心が“流れ”を導いたのじゃ」
イリスは、涙を拭きながら微笑んだ。
「……わかる気がします。魔法は、“壊す”ものじゃない。“還す”ものにもなれるんだって」
宗一郎は小さく頷いた。
こうして、《五災》第三体は封印され、紫のローブの少女は、また一歩、合気の“心”へと近づいていった。
──そして次なる災厄が、空に現れる。
《爆雷天グロズマ・ザーン》。雷の竜が、大気を震わせて、彼らを待っていた。




