大伴家持
〔張り扇一擲!〕
神護景雲4年西暦770年の、ようやく日の暮れた、ある初秋の宵のこと。庵にたたずむ則子の耳に遠く馬のいななきが聞こえ、ややあって庵に近づく人の足音が聞こえてまいります。あたりには則子の人生の黄昏を告げるかのように、虫の音が寂し気に鳴り響いております。
「(戸を叩く音)婆殿、婆殿、おられるか」
「(やや間を置いて不審気に)どなたです?こんな夜遅く」
「私だ。家持だ。あなたにいい話を告げに来た。戸を開けて中に入れておくれ」
「え?若様?……はい、はい、ただ今すぐ……」
立てつけの悪くなった敷居を軋ませながら則子が戸を開けますと、そこには今は亡き旅人の息子、大伴家持の案内を乞う姿がありました。
「まあ、若様!なぜこのようなあばら家に……お呼びくださればこちらから参上いたしましたのに」
「(軽笑)相も変わらず若様とは。55の男をつかまえて。家来どもの手前もあるではないか(軽笑)。まあ、よい。それはさて置き、ちと訳ありでな。こちらの方が都合がいいのじゃ。悪い話ではない。とにかく中に入れておくれ」
「は、はい。でもこのようなむさくるしい所……あまりにも心苦しゅうございます」
「かまわぬ。とにかく中で……」と云ってどこか急ぐ風情の家持が後をふり返り、「お前たちは離れたところで控えておれ」とお付きの警護の兵2人に申し付けます。そのまま「では」とばかり招じ入れた則子がお茶の支度をしようとするのに「いやいや、お婆、構いますな。わけあって長居はできぬ。まずはこれへ」と則子を眼前に座らせます。
「実はな、お婆、急な話じゃが此度私に勅令が下りましてな、この10日の内に奈良に戻らねばなりませぬのじゃ」