頬に流れる則子の涙
えー、ともかく、則子の前で為介の名を、また為介の前で母という言葉をはっきりと云い、互いが母子であることを明言してみせる高嗣。家持からの言伝をまったく顧みない、則子・為介への老婆心とも思えるほどのそのはからいに則子は深く感謝しつつ、手水舎よりいま一献の水をば柄杓に取って、我が子為介へとささげるのでありました。折りしも、いずこより来たりしものか一羽のほととぎすが樫の大木に来、とまりまして、その当て字のごとく「帰るにしかず、帰るに如かず」とでも云っているような、切なげな声で鳴き出しました。誰が誰に向って「帰ったほうがよい」すなわち「帰って来て」と云っているのでしょうか。我が身の男であることを、またすでに元服の身であることを恥じて口には出さなかったものの、全身で自分にそう云っていたかつての、幼き日の為介の姿が、そのたよりなげな顔が、この時則子の脳裏にありありとよみがえりました。はからずも思はずも、ひとすじの涙が則子のほおを伝って流れ落ちます。こらえてもこらえてもこらえ切れぬひとすじの涙、それこそが則子の為介に対する何よりの想いを明かしていました。がしかし、それを隠すように袖口でぬぐいつつ、そのかわりに、いまは石上家家令にまでなってくれた、艱難辛苦の末の我が子の晴れ姿を祝すような、はればれとした笑顔を浮かべては柄杓をば為介に捧げるのでありました。ところが、その肝心の為介の足が凍りついたように動きません。母のもとへと進み出ません。眼前の則子の涙にいち早く気づき、深く胸を打たれていた高嗣が忌々しげに為介をふり返ります。ついにこらえ切れず老いの細身をかくしゃく気にふるわすと為介のうしろへと廻ってその背をば押すのでありました。尋常ならぬその光景を見つめる村長始め一同は静まり返り言葉もありません。はたや為介のふるまいやいかに、その心根やいかに…