千々に乱れる心
「そ、それはいかにもおおせの通りで。まろとても母への何の算段もなく当地へまいったわけではありません。それなりの銀子をたずさえ、またこの地での母への封戸の手筈をもなんとか図ろうと…」
「あな、かようなもの、まろがおまえに代って万事都合いたす。そうではなく、いったい何が則子殿にとって一の糧となるのか、おまえでなければ出来得ぬことは何か、それを聞いておるのじゃ」
そうこうするうちに平野神社まで一町ほどの距離へと近づいてまいりました。舎人からの注進もあり、高嗣はこう云って話をうち切ります。
「じゃが…いまはすべてをおまえにまかす。冠者のころに見も知らぬ他家にまいって、義理の兄弟たちの間で苦労をして来たおまえだ。まろは心を尽くしたが、かばい切れなかった面も多々あったろう。いまここでおまえが、母君にどういう姿勢でのぞもうと、まろは委細咎めぬぞ…」
「は、はは」
さて、為介が目をやれば楠木に囲まれた神社の境内には里の衆たちがいまや遅しと、威儀を正して待ちのぞんでいるのが見えます。人の顔までしきべつできる距離まで来ますと、自分為介ばかりをひたと捉えて見つめる媼の姿に視線が強く引きつけられる。見れば髪の色は雪のように白くふりたれど、あな、お懐かしや、我母則子その人に違いなし。自分をやさしくつつむように、しのに(しみじみと)見つめるその母の視線に、すっかり忘れていたいまだ冠者のころの、あの日、あの時の光景と思いがよみがえります。いまさらのように、養父高嗣の諌めが胸に沁み来るのでありました。しかしとは云え、御養母、義理の兄弟たちの諌めも確かにこれあり、また我子良介の顔をもが為介の脳裡に浮かび来ます。母則子の姓名はいまや謀反の朝敵と堕し、その名をば官人はもとより、里の者たちでさえあるいは知りおるやも知れません。畢竟為介の心は千々に乱れます。しかしいまはとにかく石上家家令として、また大宰府少弐付文官としての務めをはたさねばなりません。はや境内に到着し村長はじめかしこまる里衆の前に、また手尺をささげ持ち低頭する母君の前に進み出でて、為介は新少弐石上高嗣の名をば朗々と告げるのでありました。