表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

菜未


一月後、俺は春野菜未と一緒に近くのファミレスで食事をしていた。

彼女は目玉焼きにサラダを頼み俺はとんかつ定食を頼んで後に二人分のコーヒーセットを注文した。

それなりに痛い出費だったが、親父の年金の影で生活にはそれなりに余裕が出てきてはいた。

罪悪感がないわけではなかったが、今は彼女と会えることを優先したかった。

大野美穂の事など既にあまり思い出せなくなっていた。彼女みたいな人間からすれば俺と寝たのは気まぐれだったのだろう。

男の金で高級外食店に通い詰めているキャバクラ嬢ががほんの気まぐれでジャンクフードを買って口にしてみた。そんな感じで相手をされたのだろうが、今となってはどうでもいいことだった。


「あの…すみません。毎度毎度こんな場所で」


「ええ、すみません。でも辰美さんを一人にしておいて大丈夫なんですか?」


「最近はこの時間は布団にくるまって寝ていますよ。体力も落ちてきたのかそこまで出歩かなくなりましたし…」


「大丈夫ですか?もしかしたら病気の可能性も…」


「え、えぇ…この前連れて行きましたけど特に病気とかは見つからなかったようです」


食事にものどに詰まらせないようなものを選んでいますから…と付け加える。

今言ったことは嘘だ。何故なら親父は床の下にいるのだから介護の心配の必要はない。

別の意味での心配はあったのだがそれはこの際おいておこうとは思う。


「でもやはり大変ですよね?バイトの合間に介護だなんて…困ったことがあったら言ってください」


「バイトの事なんですけどね…やっぱりフリーターはそろそろ切り上げて派遣会社の方に行こうと思うんですよ。

時給も高い仕事も選べますし、やはりバイトだともらえるお金が少ないので…」


「そうですか…」


「やっぱり情けないですよね…こんな年になってまだフリーターや派遣だなんて…」


「いいえ…片岡さんのような人もかなり多いと思います。増税で景気も悪くなって…さらには若い人が年配の方の介護に駆り出される。

私達民生委員はそんな人たちの相談に応えられるためにいるようなものなので…」


「いえ…自分としても話を聞いてくれるだけで大分助かります」


こうやって会話を重ねている事が、それだけで始めは嬉しかった。

しかし話す内容は始めに話した時より進捗がない。ほぼ同じ会話を世間話として薄め少しばかり文法や単語を変えただけの堂々巡りでしかない。

俺にはどうしても確かめたいことがあった。ある事を聞けば彼女は何かしら反応を見せるはずであった。

だが、それを聞くのが怖かった。こうして話していることそのものに俺が安らぎを感じていたからなのだろう。

だが、それでは意味がないのだ。無意味なのだ。どこかで…見計らったタイミングで切り出さなければならない。

そうでもしないといつまでたっても彼女に真相を聞くことは出来ない上に、状況や環境という物は常に目まぐるしく変化していくものだから聞く機会そのものが失われる可能性があるのだ。それがいつになるかは分からない。

一月後かもしれないし、明日かもしれない。そうやって結論を引き延ばしにしてダラダラと貴重な時間を浪費してきたのが今までの俺なのだ。

スゥーッと、息を吐いた。当然会話の流れが途切れるが、意を決して俺は尋ねた。


「あの、春野さんってご姉妹さんはいるのでしょうか?」


「え…?」


菜未の顔が一瞬こわばったように見えた。ひとまずは反応があった、だがこれだけでは確証が持てない。

続けて質問の言葉を口にする。これで違ったらどう誤魔化そうか考えながら。


「春野里菜子という心臓の病気を持っていた人を俺は知っているんです

もしかしたら違うかもしれませんが、春野という苗字は同じなんです。もしかしたら…」


「姉の…事は…」


ほぼ確定のようだった。里菜子の話の中に度々妹の事はでていたのだ。

名字だけなら日本にも一致している人間は多い。顔だって同じ顔の人間は最低三人はいると言われている。

じゃあ二つとも一致した場合はどうなるのか?ほぼ可能性が高く後は本人に質問するだけであった。

結果として、菜未の姉は里菜子であることがほぼ確定していた。


「いきなり何を言うんですか…家族以外にはほとんど話したことが無いのに」


「すみません、里菜子の事は知っているんです。彼女は…俺の恋人だったから」


「え…」


「だからあなたからも教えて欲しいんです。俺の知らなかった里菜子の事を…」


驚愕する彼女に俺は里菜子の事を話した。菜未はたまに相槌を打ちながらそれを静かに、だが真剣な表情で聞いていた。


「姉と【菜】の字が同じなのは私が生まれた頃にはもう心臓の病気だったかららしいです

それに姉と私はよく似ていると言われました。姉がなくなったとき私はまだ高校生でしたが

親は姉を産んだ後なかなか子供に恵まれず、私が生まれた後はそれはもう大事に育てられたと思います

だから関東の大学に出して貰えたし、出た後はこうして民生委員をやりながら塾講師のバイトで働いてます

ずいぶんわがままを許してくれて…いつか親には恩返しをしたいです」


「里菜子は…愛されていたんですか?」


「はい…両親は姉さんも間違いなく愛していたと思います。そうでなければ病院で高い治療費を払って

高名な外科医さんに付いてもらって、病院の個室で…私もたまに見舞いに行きました」


「そうですか…」


妹である菜未の口からそう出ているという事は、それもまぎれもない真実なのだろうとは思う。

だが、里菜子がどことなく寂しがっていたように見えたのは間違いない。

彼女は救われたのだ。ああは言っていたがちゃんと両親に愛されていたのだと、それが分かっただけ俺もまた少しだけ報われたような気がした。


「姉は少しづつ衰弱していく様にも見えたのですがある日を境にして笑顔を浮かべることが多くなりました

私は気になって尋ねたのですが友達が出来たと答えました。その人の事は少ししか話してくれませんでしたけど大切な人だったというのはわかったんです」


「……」


大切な人。俺は里菜子と結婚まで考えていたのだが彼女が本気でそこまで捉えてくれていた裏付けが嬉しかった。

二人暮らしを想定して無理してアパートを借りようとしたのも俺の独りよがりだった気がしたのだ。

ちょっといい事があると一人で舞い上がって空回りして最後に失敗が待っている。それが俺の人生の連続だったのだが、里菜子との場合は彼女の病気という要因さえ解決できれば実現可能なプランだったのだろう。

結局、里菜子がこの世を去った今となっては机上の空論となってしまったが。


しばらくの間沈黙が俺達の周りに舞い降りた。周りの席の雑談やウエイターが注文を復唱する声がBGM代わりになっていた。







静かな朝焼けがいつもと同じようにやってくる。普段と変わらない光景だが、山の谷間から顔を出す太陽の色がやけに鮮やかに見えた。


俺は家を出た。今日は派遣社員ではなく、菜未と会う約束をしていた。

いつものようなファミレスや居酒屋ではない。彼女と街へ遊びに行くのだった。

この日の為に給料と年金を溜めにためておいたのだ。あれから俺は菜未と合いつつ互いの関係を深めていった。

彼女は里菜子とは違うが、あいつと顔がよく似ていたし素直で性格が良く俺との相性もいいような気がしていた。

だが、顔こそ似てはいるが彼女と違うところは俺の話を聞きながらもなかなか親父に合わせようとしない俺に何か不信感めいたものを抱いているかもしれないという懸念はあった。

里菜子は少し世間知らずではあったが、菜未の方は聡明で少し警戒心が強いような印象を受けた。

むしろ今回の誘いを受けたことが意外だった。だが、それ以上は何も考えたくなかった。

里菜子と顔が同じ菜未を俺のモノにする。そうすることで失ったものが取り戻せるかもしれないと思っていた。





―――――――本当にそれでいいのか?




心の中で誰かが問いかけてくる。それは俺が菜未や、それどころか里菜子と会う前から聞いてきたような声だった。

自分の人生がうまく行きそうに見えるときは決まってそんな声が聞こえていたが、俺はそれをいつも無視していた。

俺は刹那的な視点しか持っておらず、長期的に物事を考えるのは苦手であった。

それでいつも失敗していたような気がするが、いつも自分のやりたいようにしていたいがために内なる声からの警告から耳を背けていた。




―――――――彼女を騙して、本当にそれでいいのか?




うるさい、だまれ。そう思って心の声を黙殺すると胸の内が静かになった。

俺は今度こそ幸せになるんだ。たとえ誰を騙そうとも、最後には掴んでみせる。

世の中は椅子取りゲームだ。限られた席にはごく少ない数の人間しか座ることは出来ない。

当然、甘い汁を吸うポジションは奪い合いになる。争奪戦が始まり、他者を出し抜くことに明確なルール違反など存在しない。

世の中で俗にいう勝ち組という連中はその見極めがうまいのだ。良心やつまらない道義的なものの考え方に左右されない。彼等は圧倒的に自己中心であるがゆえに勝ち続けてきたのだ。

勝ち取りたい物も無い、無欲でバカな敗北者に俺は堕するつもりは無かった。


「ごめん。待たせた?」


ロングヘアの菜未は肌の色以外本当に里菜子そっくりだった。俺が頼んだのだ、髪を伸ばしてほしいと。

里菜子が生き返ったみたいだった。風が未菜の髪を揺らしさわやかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。


「いや、私も五分前に来たばかりなので…」


「じゃあ、行こうか」


俺達は歩き出す。この町が都会に比べてどれほどに寂れた場所だとしても、人が住んでいる以上それなりに賑わっていることは事実なので遊びに行く場所もあるのだ。

二人肩を並べて歩く、少し歩くとバス停だ。そこから商店街の並ぶ繁華街へといく。

デートと言うには味気ない。里菜子が生きているときに無理やりにでも彼女を連れだしておけばと思う。

だがこうして顔がそっくりの菜未がいる。彼女は役目を果たしてくれるはずだ。






……に……で…………―――――?






ブティックというには寂しいシャッターが時折目立つ商店街を二人で歩く。

大きなショッピングモールまだ進出しきってないこの街にとっては、この商店街はまだまだ必要とされているのだった。

通りかかった店から甘いにおいが漂う。彼女と相談しそこでたい焼きを買ってきた。

財布から札を取り出し黒餡と白餡をひとつづつ購入、合計192円也。

昔買った時は一尾75円だった、増税の影響を密かに感じる。衆院選は来年だがそれが過ぎた頃にたい焼き一尾はちょうど百円で買えるのだろうか?

黒いのは俺だった、白いのは菜未。彼女からのリクエストだった。尻尾からかじる、それは俺がたい焼きを食べるときの癖であり一種の確認であった。使い古された表現だがキツネ色に焼き上げられた表面がカリッとして、中はふんわり。

あんこは冷凍でよく見るパサパサしたやつではなくみずみずしく、甘味が濃かった。


「美味しい?」


「はい」


菜未は満足そうに笑顔を浮かべた。たい焼きをほお張るその姿が可愛らしいリスを思わせて思わず頬が緩む。

考えてみればこんなふうに自然な表情で笑みを浮かべるのはずいぶん久しぶりの感覚のような気がしていた。

大人になってからだった。媚びるために表情を作ったり、相手に合うように話題を合わせたり。

それが必要なことであり、社会で不可欠な行動であることはわかっている。

誰しも子供の時のように感情的に振舞えない。何故なら大人になってから…いや、その少し前から自分の責任には責任が問われるようになるからだ。

世間体という型に嵌められて、俺達は社会人という完成品として鋳造される。

上司に不満があっても何の問題が無いように振舞わないといけない。グループの間でリーダーが望むこと以外の行動をとってはならない。

法律で決められたことは理不尽な事であっても従わないといけない。増税や失政を繰り返す国家や政治に文句を言ってはいけない————―――――


そんな窮屈な時代だからこそ俺は…いや、里菜子を含めた俺達は互いの存在に癒されたのだろう。




本…に―――で――――?




「えっと…大丈夫ですか?」


「あ、あぁ…すまない。ちょっと考え事をしていたんだ」


そのまましばらく商店街をぶらぶらと歩く。ささやかな風が心地よい。

俺はそのまましばらく商店街をぶらぶらと歩く。ささやかな風が心地よい。

俺は里菜子と一緒に歩いているように思え、気分が良かった。

失われたと思っていた、二度と手に入らないと思っていたものを再び掴むことが出来る。

人生においてそれは多くの奴が望んで、そして叶わない至福の夢に等しいのだろう。

それは俺はほぼ手にしていた。世界の中でも最も幸福な人間の一人なのかもしれない。

菜未に笑いかけ、彼女もぎこちないながら俺に笑顔で返した。

頭の奥で耳鳴りのような音が聞こえたような気がしたが、俺はそれを無視した。



余計なことなど考えるな。今はこの時を楽しめ、それだけあればいい。



そう、それだけあれば。俺には何もいらなかった。俺は未菜と一緒にイタリアンレストランの店に入った

彼女はサラダと、ペペロンチーノのSサイズを頼んだ。俺はナポリタンのⅯとコーンスープ。

腹持ちがよくないパスタを選んだのは、あまり腹を膨らませたくなかったからだ。

一食で合計で五千円ほどの出費だったがまぁこんなものなのだろう。

金があればもっといいところに連れていけたのかもしれない、それが少し悔しかったが。


「あの…お金」


「いいよ、俺が出すから」


「でも…すみません」


店の中で控えめなクラシックが流れる中、未菜は申し訳なさそうに小声で謝ったが、俺は笑ってみせた。

里菜子と出来なかったことをこうして出来るだけでも、顔には出さないがちょっとしたことでも俺には飛び上がるほどうれしかったのだ。

失った時間を、決して巻き戻せない世界の歩みを強引に逆走しているような征服感があった。

俺は今、この時だけは間違いなく幸せだったのだと胸を張って言う事が出来る。

食事を終えた後は、美術館に向かった。エジプト展というのをやっているらしい。

入場料は大人1200円だったので俺は二人分払おうとしたが、菜未が頑なに断って自分で金を出した。

なかは王族が使っていた装飾だとか、死者を送るための船などが展示されていて小物や簡単に持ち運びできそうなものばかりであった。個人的には石棺や派手な黄金のファラオの仮面やミイラとかが見たかったのだがそういった少し大掛かりな準備が必要なものはもっと大きな施設に行かなければ拝めないのだろう。

まぁ、期間限定の展覧会なんてそんなものなのだろう。似たような恐竜の化石店などは少し大きめの模型などが見れた気がしたのだが。


「…すごいですね。この船にミイラを乗せて、復活を遂げた時にあの世から戻ってこられるように準備していたみたいです

アフリカはほぼ完全な内陸地の国が多いですけど、海に面したエジプトならではの考え…って気がします」


「そうなんだろうか?」


「…」


「あ…ごめん」


菜未が展示品について解説してくれたのに歴史に興味なかった俺は適当に相槌を打ってしまう。

死者の船…そんなものに意味はない、だが願いは込められているというのは死んだ人間の生き返りというのは昔の人間も願ったり望んだりしていた夢なのだろう。

だが、そんなことに意味など無い。科学がかなり発達してほぼ万能と差し支えない現代においてすら、いまだに成し遂げられていない夢の所業なのだ。

仮に死者がよみがえる技術が確立されてしまったら、地球の人口はいつか溢れかえってしまう。

有史以来、今現在生きている人間よりも死者の数の方がはるかに多い。今の文明はそういった先人達の積み重ねの上に成り立っているのだ。

仮に死者が蘇る。そんなことが可能ならば俺は…いや、不可能だからこそ考えてしまう。

俺はそこからの事はあまり覚えていない。ここに来たのは間違いだった、里菜子の事ばかり思い出してしまう。


「次はどこに行く?」


「…」


さっきの件で機嫌を悪くしたのか、未菜は少し黙ってしまっていた。


「じゃあ朝行ったのとは違う店に行こうか?」


「はい…」



―――――本当にそれでいいのか?


今まで小さかった筈の心の中の警鐘が、今になってはっきりと聞こえたような気がしていた。





あれから何か所か俺達は回ったが、未菜はエジプト展の辺りから会話に適当に相槌を打ったり自分から話さなくなっていた。

機嫌を損ねてしまったのだろうか?いや、もっと別の理由なのかもしれない。



陽が沈みつつある夕方の時間、俺達は公園にいた。まだ六時前なのに空が暗いのは冬が来る直前だからだろうか?

俺達は二人で歩いていた。今日のデートは俺の方から申し出たものだった。

自分の為に菜未に付き合ってもらった。彼女が里菜子の妹だから、顔が似ているからという理由で。

でもダメだった。菜未は里菜子と違う、顔が似ているだけ余計にそう思ってしまう。


ふと、時計の前で立ち止まってしまう。そこは人工の林が近くになり、ちょうど俺を影で隠す位置になってしまった。

菜未が俺の数歩先を歩いて振り返る。彼女の顔に夕日の残光が当たって、顔の左半分が影で見えなくなった。

彼女の表情が読めない。しかし瞳の中の輝きは何らかの決意を擁した光を宿している。

お互いが対峙するような位置に立ってしまう。俺は影、菜未は光の当たる場所に…それが両者の立場の違いを暗示しているような気がした。

少しの間の沈黙。先に口を開いたのは、菜未の方だった。


「あなたは私を見ていなかったんですね」


「…その通りだよ」


答えを口に出すのを躊躇ったが、彼女の真剣なまなざしがそれを許さなかった。

確かに否定する要素はなく実際そうであり、菜未からは見透かされていたわけだ。


「俺の身勝手に突き合わせてすまないと思っている。ごめん」


「今更謝られても…それに私は婚約した彼氏がいるんです。

今の貴方みたいな人と違ってとても誠実で優しい方です」


あぁ…そうか、やはり気付いていたのだ。俺みたいな行き当たりばったりの馬鹿と違って菜未は聡い子だというのは薄々分かっていた。


「俺は君に里菜子の面影を見ていたんだ」


「ごめんなさい…私は…お姉ちゃんの、代わりじゃないんです」


「済まなかった」


「迷惑です…とても。お姉ちゃんから聞いた貴方の話からとても素晴らしい人だと思っていました」


「俺はそんな褒められる人間じゃない。何も成し遂げられなかった…ただのクズだ」


「私もそう思います。それとお父さんの事、どうしたんですか?私に会うたびに誤魔化してばかり…」


「…」


「事件か何かに巻き込まれたんですか?それともあなたが何か知っているんですか…?」


「そう思ってくれてもいい」


「だったら…」


自首して欲しい。言葉に出さなかったが彼女は暗にそう言っていた。

里菜子の妹の菜未が、里菜子そっくりの顔で言葉を発する様子が

まるで里菜子が妹の体を借りて俺に諭している様にも見えなくは無かった。

そう感じてしまったから、負けだと思った。だが悔しい気持ちはない。


「少し、考えさせてくれないか」


「…勝手にどうぞ」


俺達…いや俺と彼女の周りはすっかり暗く影で覆われて電灯の明かりが周囲をおぼろげに照らしていた。

その陰の深さが深淵を連想させ彼女とファミレスで話した時よりも、互いの距離が取り返せないほど遠くなったような気がした。


「逃げないで下さいね」


「…ああ」


去り際に菜未は俺にそう言った。その顔には蔑みや失望といった感情よりも憐みの色の方が濃かった。

俺の中に残っていた菜未に感じていた里菜子の面影はもうすっかり感じ取れなくなっていた。





目覚めた後の朝日がとても眩しい。思わず手を顔の前に充てて少し遮った。

そしてしばらく影の中に入って上る太陽を見ていると体に火が灯った様に俺は立ち上がった。


『片岡君は私の分までちゃんと生きてね…』


結局俺はあいつの遺言を守れなかった。それに妹を騙して里菜子の代わりにしようとしたどうしようもないクズだ。

中途半端に浅知恵が回ったとしてもそれは自分を幸せにすることは出来ないのだ。やるならば徹底的に偽悪者に転じるかお人好しで社交的な善人を演じるしかなく、不器用で頭の悪い俺にはいずれも不可能だった。

だが、こんな俺にもしなければならないことがある。自分のやってきた事に明確に決着をつける。

そうしなけらば前には進めない、いつまでたっても過去に囚われたまま沼に落ちていくだけだ。

だが、里菜子の遺言を過去への楔と忘れ去ってはいけない。あいつは少なくとも俺に自分が生きられない分への未来を託してくれたのだ。それに気が付くまで大分時間が経ってしまったのだけれども。


果たして、数年後娑婆に出た時に俺はやり直せるのだろうか?世間ではやり直すには少し過ぎたくらいの年来になって出されるのだろう。しかも前科犯という十字架を背負って…

逃げることも考えた。だがそれを菜未は許さないだろうし、もし罪から逃れようとすれば彼女は俺の事を通報するだろう。

里菜子と同じ顔をした彼女にこれ以上軽蔑の眼差しを向けられるのは耐え難かった。思い出の中のあいつの笑顔が俺を追い詰めていた。


玄関を開ける。吹き込んできた朝の冷えた大気は正常ですがすがしく思える。


最初の一歩は弱々しくて探るようで、気持ちを前に押し込むようにもう一歩踏み出す。

一歩踏み出すごとに朝日が自分の中の汚れを浄化していくような気がした。

ゆっくりと、だが確実に遅々とした歩みだが前に進んでいく。

俯いていた首が正面を見据えて自分の行き先を見定める。一歩一歩と踏み出していく、もう迷いたくはない

迷うつもりはない。ただ進んでいくだけだ…そう、彼女との誓いを守る様に―――――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ