里菜子
コンビニで遅くまで立ち読みして五缶も酒を買って家に帰った。そうでもしなければ腹の虫がおさまらなかった。
求人誌もいくつか読んだが俺に合った丁度いい求人がない。そもそも介護が必要な状態でフルタイムの仕事に行けるわけもない。
明日のバイトは朝早いが休むつもりだった。ようは無断欠勤というやつだが気にしない。
頭が痛い、ズキズキする。酒にさほど強くない俺がこの量を煽るならば二日酔いを凌駕する頭痛が明日には待っているだろう。近くの公園に向かう、ブランコに座って酒を一本開けて呷る。
別にうまくはなかったが多少気分は落ち着いた、二本目も構わず開けて飲んだが何故か眠くならない。
それでもよかった。今は思いっきり何かの力に頼って現実から逃避したかった。
俺は弱い人間だ。それは昔から分かっている、分かっているのにそれを直さなかった俺自身も悪い。
あいつが生きていたころは強くなると誓っていた。その為にも努力したつもりだった。
だが、運命は何処までも残酷で里菜子の命を奪い取ってしまった。
そういう物なのだ。このくそったれな現実というやつは…人が必至であがいているときに用なくつかんだ幸せをも無情に摘み取っていってしまう。
その癖、助けを必要としているときにはまるで見えない場所からにやにやと意地悪く笑っているみたいに何もしてくれない。
今ほど誰かに縋りたい気持ちは無かった。大野とは相変わらず連絡がつかないし、家に待っているのはあの生きた屍だけだ。
(里菜子…)
彼女が生きてくれればどれだけ救われただろう。いや、生きている間にも彼女は俺に色々なものを与えてくれた。
親から邪険に扱われ、友人も少なく、就職にも失敗した俺をあいつは必要としてくれたのだ。
俺はその思い出と共に生きていくつもりだった、だが現実という壁を前にあまりにも簡単にも挫折してしまった。
情けない男なのだろう。俺をタコ殴りにした福留の方がよっぽど充実しながら生きているというのが悔しかった。
先に手を出したのは俺の僻みだった。そういうところで抑えるべきところを抑えられない、いつまでたっても大人になれないガキのままの自分に嫌気がさしてくる。
こんな憂鬱な気持ちは酒に頼って忘れるしかない。飲んで寝て頭痛で苦しんでバイトに行って親父の世話をする…そんな生活が死ぬまで続く。
酒に頼ったところで一時的な逃避に過ぎず、根本的な解決には至らない。まるで出口の見えない迷宮だ。
俺の人生はそうやって苦悶と共にあり続け、何かのくだらないきっかけで死ぬのだろう。
そう考えると福留の奴に頭を殴られたときに打ち所が悪くそのまま死んでいた方がいいかもしれないと思ってしまった。
いらいらしながらしばらくブランコをこいだ後に俺は家に帰った。そう言えば親父は今大丈夫だろうか?
少し胸騒ぎがしたが、それを気にするほど今の俺には苛立ちでむしゃくしゃしていた。
家に帰る。戸は空いている、田舎で築四十年のこんなボロイ一軒家に強盗が入るわけもない。
玄関は暗かった。家の中も同様だ、中の親父は寝ているのだろうか?
またトイレでもないところで漏らしていたら面倒だと思う。親父がああなった原因は手塩にかけて育てた妹と弟が自分を見捨てて都会に出て行ってしまった事だ。
そのことが出て行った母を思い出させるのかもしれない。俺にとっては好きになれなかったが子供を三人も父親一人で成人させ社会に送り出した親父は世間的に見れば立派な人間なのだろう。
妹は向こうで子供二人の育児に追われているらしい、詳しいことはもう何年もあっていないのでわからない。父が痴呆になったと連絡した時から何の便りもよこさなくなったのだ。
弟は向こうで怪しげな会社を仲間たちと立ち上げて何やら商売している様だった。音信については妹と同様である。
なんだかんだ言っても俺は親父を見捨てることが出来なかったのだろう。
地方になる前も決して尊敬できる人間ではなかったが、里菜子の事が頭をよぎったのかもしれない。
まったくもって無意味だ。妹や弟のようにあの男を切り捨てる決断が出来ていたのなら現状はもう少しマシになったのかもしれない。
戸を開けると異臭がした、だが嗅ぎなれたあの悪臭ではない。微かな…鉄のような臭い。
胸騒ぎがして明かりを点けた。俺の目に飛び込んできた光景に驚愕するしかなかった。
「親父…!」
倒れていた。玄関の石畳に頭を打ち付けて血を流してように見え、かすかな酔いも一気に覚める。
抱き起そうとするもぐったりしていて体がとても重たく感じた…そして何よりも冷たかった。
外傷の血の量からしてあまり大したことは無いように思えた。しかし頭を固い石畳に打ち付けていたとしたら…
「そんな…」
死んだ。そんな言葉が頭の隅を過ぎった、心臓がバクバクと高鳴っている。
脳内が真っ白になって何をすればいいのかわからない。いや、そう判断するのは早計かもしれない。
一縷の希望に託して脈を図るが鼓動はなく冷たい皮膚の感触が指先に触れるだけだった。
親父が死んだ。しかも俺のいない間に勝手に死んでしまった…
いや、まったくおかしくはない。親父は最近介添えがなければろくに歩くことさえ難しかったのだ。
頭の中はまだ混乱していたが、心の奥底でそれをひどく冷静に受け止めている自分自身がいたのが分かった。
ようは里菜子と同じだ。人間いつかは死ぬ、つまり…親父の番が来ただけというシンプルな答えだった。
俺は介護をこの先数十年も続けていくのかと諦観していたが解放の時は意外と早くにやってきた。
その癖に頭の片隅でどこかほっとしている自分がいることに嫌悪感を抱いた。
(だがどうするんだ?俺がバイトで稼いだ金なんて雀の涙だ。親父の年金にはかなり助けてもらっていた
年金が無ければ生活できない…葬式を上げる金も無い)
俺は数分の間悩み、それを実行していた。
少しだが、昔の事を思い出した。どうして今になって想起したのかは分からない。
数年前、まだ二十代だった頃就職に失敗した俺は派遣で仕事をしていた。
すぐに登録してその次の日からは働けた。一時的なものだと思っていた。
派遣はキツイ現場に回されるくせにガッツリと給料を紹介料などとしてとられてしまう。
例えば手取り二十万ほど諸々の手当て込みで会社から支払われるとする。だがその手当の大半は派遣会社に取られて給料すらも紹介料という名目で引かれて手元に残るのは15万くらいだ。
向こうは紹介料の比率を公開したりしないが大体2割程度から3割くらいだと聞く。
実質は自給程度のもうけ鹿出ない上にそれすら税金だの年金だので引かれてしまい、手取りが十万を切ることも度々あった。
社員だ仲間だとほざいていても連中にとっては体のいい金ずるでしかないのだ。
だが、すぐ仕事にありつけるというのは本当なので短期でつなぎと考えるのなら悪くは無かった。
俺はキツイ工場系の仕事に回された。工場系は基本的に汚く、手が汚れるしそこで働いている連中はたいていパチンコか風俗の話しかしないので、俺は関わらなかった。
そうやって一年程度我慢して働いていた。切り詰めて生活もしていたのでそれなりに貯金も出来た。
そんな中だった。俺の乗った単車が軽トラックに轢かれてしまったのは。
病院で一か月入院するほどの大けがだった。当然仕事どころではなくなけなしの貯金もほとんどなくなってしまい、派遣も辞めざるを得なくなってしまった。
ある程度脚の怪我が回復した後に病院内を散歩する事が許された。入院生活は退屈なもので、棚にお置いてある本は数日で読み切ってしまったしテレビはNHKくらいしか映らない。
チャンネルを下手に変えるとジジイ共がうるさいからだ。病院は老人の比率が異常に多かった。
待合室なんかはほぼ95パーセントくらい老人の集会所になっている。若い奴はほとんどいなかった。
俺は病院の中はあまり歩きたくなかったので、外を歩くことにした。
それなりに大きい場所なので病棟がいくつかあった。というか地元は田舎ゆえに悲しいかなここと小さな診療所くらいしか医療施設がないのだ。
歩く場所には事欠かないので植樹地帯に沿って遠い場所に行ってみることにした。
(こんなに広かったのか…この病院)
敷地の広さに俺は少し驚いていた。まるでちょっと小さい大学並だ。
植樹の箇所も木々の密度が増えて少し足を踏み入れるとそれなりに整地された森林みたいだ。
舗装された道があり、光も結構入ってくるように木と木の間の配置も考えられているのか森の中だというのに日光が入って明るく見えるためにそのまま何かのCMかドラマのロケなんかに使えそうではある。
思わずそこに入ってしばらく歩いてみる。おそらくは長期入院患者の為のリハビリの遊歩道なのかもしれない。
しばらく歩いて行くと小さめな空き地が広がっていた。そこはちょうど光が集まる様に木々が開けており林道の中だというのに異様に明るかった。
そして、その零れ落ちるような光の粒子の下…まるで映画のワンシーンに収まる様にして彼女がいたのだ。
俺に背を向けるようにして立っていた。スラリとした肢体に白い帽子に腰まで伸びた髪。
「あっ…」
思わず声を漏らしてしまう。風が吹き、こちらに振り替える女性の髪を揺らした。
ゆっくりと振り返った幼げな表情はまるで天使のようで、柔らかな木漏れ日が宙を舞う羽のようだった。
その顔は思わずまじまじと見とれてしまう程に彼女は綺麗だった。俺と里菜子の馴れ初めだった。
俺達はあの後少しだけ会話した。最初に思わず間抜けな声を出してしまったのはカッコ悪かっただろうが、それがきっかけになったのである意味ではよかったのかもしれない。
会話の内容は病院が実は土地の所有者が莫大な固定資産税の対策に建てたものでその時はここまで大きな建物ではなかったと言うが、所有権が変わってから建て増しされたらしい。付近の豊富な森林は人工林ではなく元々あった森の名残だと言う。
病院の施設も設備も後任の院長が導入していったために県外からの患者も非常に多いというが里菜子は地元の人間のようらしい。
彼女は寡黙に見えて意外と話し始めれば止まらないタイプで、俺は時に相槌を打つだけで話を聞くばかりだった。
彼女が何かにつけて話したがる理由は後にわかるが、彼女は意外と物知りであまり退屈はしなかった。
いや、退屈なんてする筈は無かった。後で自己紹介で知った…里菜子はとても綺麗で自分がそんな女の隣にいる事自体が信じられなくて舞い上がってしまいそうだった。
「見舞いに来てくれるからうれしい」
「いや…そうでもないよ」
「私のお父さんとお母さんもね…最初は毎日病院に来てくれたの」
「何かあったのかい?」
「二人とも私の病気が治る見込みがない事を知ると、見舞いに来る回数が減ったの
それは…仕方ないよね。妹もいるんだし私なんかに構ってられないよね…」
「…」
「入院のお金を出してくれるだけ、感謝しないとって思ってた
でも見舞いに来るたびに私の心配じゃなくて妹の事ばかり話すようになったの
妹がコンクールで入賞した、クラスで成績が一番になった、学級委員長に選ばれた…」
「…そんな」
「妹は私に比べて体が丈夫だったの。内気な私に比べて活発でいつも人に囲まれていた
嫌だよね…これじゃ、私が妹に嫉妬しているみたい…ホント…ダメなお姉ちゃん…」
里菜子と知り合って色々と気づいたことがある。
彼女の肌が白いのは、長い病室暮らしで外の光に当たる機会が少ないからだ。
彼女の髪が長くて綺麗なのは、入院期間が長すぎるせいで整髪の機会が滅多に無いからだ。
彼女が素直で優しいのは両親や周囲の人間に対していつも気を遣っているからだ。
最初は彼女のような美人と知り合えるどころか仲良くなれて有頂天になっていた俺だった。
今まで貧乏くじばかり引いてきたのだ、やっと他人に自慢できる彼女が出来そうだと思いあがっていた。
だが、俺は自らの欲望の眼差しで彼女を舐めるようにして見ていたのだ。
里菜子が抱えていた寂しさと苦労。それは両親や兄弟に半ば見捨てられていた俺とどこか似通っていると
悟った時に心から彼女の悲しみを知ることが出来た。
俺だけが意地汚く、世間の毒に侵され切って穢れた存在のように思えてならなかった。
俺達の関係は待遇が似た者同士の傷の舐め合いだったのかもしれない。
それでも里菜子は俺と話をするたびに笑ってくれるようだったし、俺も彼女の笑顔に救われていた。
バイトから派遣社員に仕事を切り替えて給料がいい工場で働くようになった。貯金する為である。
「なぁ、もし…手術がうまくいって元気になって退院したら…」
「何なの?」
「結婚しよう。アパートも用意してるんだ。一緒に暮らして俺が里菜子を幸せにする、絶対に…」
「…ありがとう」
彼女の嬉しそうな心からの笑みを、それでいてどこか影のある表情がどことなく不安だった。
それでも俺は祈ることしかできなかった。家族でもない俺は手術室の前で待つことさえ許されない。
だが、里菜子の親は既に彼女と瓜二つの妹に構ってばかりで滅多に病院を訪れない。
ただただ、本当に要るのかわからない神という不定形で曖昧な創造の産物に縋るしかなかった。
里菜子の命が助かるなら悪魔にだって祈ってもいい。俺の命を持って行ってもいい。
親に見捨てられたあいつと俺はお互い自身だった。魂の半身といってもよかった。
三流小説のありきたりな幸せな結末でいい、安っぽいドラマのような終わり方でもいい。
彼女さえ生きていれば何もかもがいらない。前は他人の為に願うなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた俺が祈っている。
ハッピーエンドで終わる物語であってほしいと、ひたすらに願う。
(頼む…成功してくれ)
俺は明け方まで一睡もせず、アパートの一室で祈りながら手術の成功を祈った。
里菜子の手術の成果は―――――――――――――――――
目が覚めた。頭がガンガンする…幸せな夢を見た後はいつもこうだ。
神様というやつはやはり意地の悪い存在だという事が骨身に染みて理解する。
すぐ横にはこじ開けられた床下とスコップが転がっている。田舎の家には床下に醤油や味噌を保管する
スペースが設けられていることがあってそこを排除するとちょうど地面になるわけだ。
俺はそこに穴を掘っているなぜこんなことをするのかといえば、親父を埋める為だった。
無論、床の一部を抜いて穴を掘っているので狭いスペースでの作業が進みづらいことこの上ない。
それでも夜分の内にやらなければならなかった。二メートルほど掘って埋めれば異臭も届かないだろう。
(今の俺に親父の葬儀代を出す金は無い。それに親父の年金がなくなれば生活は苦しくなる)
こんな築四十年ほどの家に大した資産価値は無いし碌な値段で売れないだろう。妹たちは介護を嫌って家に戻ってこない。遺産なんてものも無いに等しく、死後の処理なんてすれば大きな借金を抱えることになる。
だがそれを免れて親父の年金さえあれば、俺の生活も多少はマシになる。
親父は六十五で人付き合いも少なく訪ねてくる人間は皆無に近かっし。最近は介護のせいか家に籠りっきりだった。
うまくやれば十五年…いや二十年くらいは誤魔化せるだろう。ほとぼりが冷めた後に疾走届け出も出そうか?
(俺は何を…やっているんだ?)
頭を抱えたくなってしまう。まさかこんな犯罪者まがいの行いをするとは思わなかった。
家でも厄介者扱いされていた親父の葬儀に妹や弟が手を貸すはずがない。
逆に言えばそれを利用できるという事だ、親父に対して罪悪感がないわけでもなかったが
今の俺には金が必要なのだ、そして親父も今まで介護してやった。
事故死という意味では同情するが、こいつに今まで足を引っ張られてきたわけだ。
(親父…あんたが俺を冷遇してきたのが悪いんだぜ。許せよ…)
そう言いながら懐中電灯を置きつつ穴を掘り続けて数時間…俺は親父の体をその中にそっと入れた。
思った以上に体は軽い。介護でやる様に姿勢をゆっくりと慎重に整えてやりながら体育座りの姿勢で中に入れる。
外傷が見えないようにガーゼを張ってやり、その周りの血はふき取っておいた。最後の親孝行である。
地面の中にうずくまる様な親父の体はまるで子供がかくれんぼをしているように見える。
ふと、幼い頃に親父が俺の遊びに付き合っていたことの事を思い出した。
まだ弟が生まれたばかりで母も家にいて妹も生意気だが俺を慕っていた頃…今となっては何もかも遠い取り戻せない日々だった。
少しの間俺は目を閉じて穴に土をかけて埋める、親父の体がどんどん埋もれていく。
見つかった時は親父は即身仏になろうと俺に協力を持ちかけていたという言い訳を考えたが警察は信じないだろう。
最近は税金泥棒だのさんざん言われているが警察は馬鹿じゃない。少しの証拠からでも真相にたどり着くだろう。
親父の体が見えなくなってからは早かった。肉親が見えなくなってから作業の手が早まったのだろう。
全てが終わると俺は疲れた。全身から汗が噴き出たがぐっしょりと体にシャツが密着しているようであちこちに就いた土と相まって気持ちが悪いので水浴びすることにした。
「…」
シャワーが終わって新しいシャツを着ると少しは楽になったが寒い。バイトの時間は10時からだ、今の時間は…時計を見ると5時55分である。
しばらく仮眠を取ろうとしたがなかなか眠れずにそのうち朝日が昇り始めた。俺は外の空気を吸おうと玄関から出た。
家の中の重苦しい空気にこのままあり続けるのは少し耐えられなかったからだ。
山の向こうから顔を見せる太陽、その日差しが早朝のすがすがしさを感じさせるものではなく目を焼き付けるように強い光を放っているように思えたのはあの時以来だろう。
――――――――――そう、里菜子が死んだ朝と同じだ。
目が覚めた。時刻はすでに正午を回っている。ガラケーを開くと店からの着信履歴が五件ほど入っていた。
今更バイトに行く気は起きなかった。そもそもなんで親父を埋めた後だと言うのに、バイトなんかの事を考えていたのだろう?
自分のやらかしてしまった事への現実逃避かもしれない。俺は玄関にむかい放ってあったコンビニの袋を手に取ると重さを感じた。
持った方の腕の間接が痛い。それはそうだろう、人一人埋めるような穴を掘るなんて立派な重労働だ。
今にもって袋から缶ビールを取り出す。当然長時間外気に晒されていたのでぬるい。が、気にせず一気にプルタブを開けて琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「まずい…」
当たり前の事を思わず口にしてしまう。まずいが一度開けてしまったものは仕方がなく押し込むようにして嚥下する。
喉に引っかかるような感触を覚えたので洗面所に行ってうがいをする。それでも口の中のねばついたような感覚はなかなか消えてくれなかった。
またシャワーでも浴びようかと思った。エアコンをつけるのを忘れていたので汗だくだった。
それもいいだろう。今後は洗濯物も一人分洗うだけで済むのだと憂鬱な気持ちで考える。
親父は一度に何回もお漏らしすることがあって下着が足りなくなったことがありその時は俺が手洗いで汚物を削ぎ落してから洗濯機に放り込んでいた。
感想も部屋干しだと間に合わないことが多いので乾燥機を導入したら作業的には楽だったが、たまに親父が煩いと怒鳴りつけてくることがあった。いちいち構っていてもらちが明かないので無視していたが。
シャワーで体を再び洗って外に出ると水で冷えた体を外の熱気が乾かしてくれるので気分がいい。今日は久しぶりに外で干そうかと思う。どうせ洗濯物は少ないだろうし。
こうして思うと親父との思い出は苦いものばかりであった。母が家を出ていくまでの短い間だっただろう。
欲しい戦隊もののおもちゃを買ってくれたり(それでも剣と銃などの安価なものだったが)キャッチボールをしてくれたりとあいつが優しかったのは。
親父にとって悪い意味で転機になったのは母が出て行ってからだろう。男手一つで子供三人を育てる苦労は並大抵のものではなかったはずだ。
そして俺は親父に孝行するどころか裏切るような真似までしてしまった。これに関しては言い訳できない。
だが、俺に親父の介護と言う名の貧乏くじを押し付けたのは地元を出ていったまま連絡すら寄越さない妹や弟達だ。
この原因の責任の一旦はあいつらにもあるんじゃないかと思わないでもない。もっとも今となってはこちらに干渉しないことを望むのみだ。
今は葬式代も出せない以上親父の死を隠すしかないのだ。
ため息を吐く。自分でも親父の突然の死に対して取った行動に驚いていた。
親父の年金は貴重な生活の糧であったことには変わりない。俺一人のバイト代などたかが知れている。
ならばせめて、親父の死を隠し続けていくしかないと再度冷酷に決意した時であった。
ピンポーン♪
鳴ったチャイムの音は来訪者が来たことを示していた。どうする?
このまま無視するか出ていって応対するか…数秒間悩んだ。
ピンポーン♪
再度音が鳴る。まさか警察か?疑心暗鬼が鎌首をもたげてくる。
だが動きが速すぎる。その可能性は低いだろうが、万が一という事もある。
(どうする…?)
再度、自問自答する。仮に警察だとしたらもう打つ手はなく、諦めるしかないだろう。
「すみませーん」
チャイムの代わりの女の声が聞こえてきた。若い女の声…その声があいつに似ているような気がした。
一瞬、親父の事が頭の中から消失する。つい、声を聴きたくなる誘惑にかられる。
どうする…時間はあまりない。待たせると帰ってしまうかもしれない、タイムリミットが…タイムリミットは近い。
俺は意を決して戸を開けた。声の主は想像に違わず若い女であった。
「あの、民生委員の春野菜未といいます。事前に訪問の日時を書類で送ったのですが…もしかして親族の方でしょうか?」
「あ…は、はい…」
――――――似ている。玄関前に立つ彼女の顔を見て俺はそう思わずにはいられなかった。
それに名字の『春野』が気になる。里菜子の苗字も同じだった。
彼女とは違って髪は肩で切りそろえている、目つきも今時のギャルとは違って意思と勤勉さを持ち合わせたような静かな感じがした。
少し幼げな顔はまだ20代半ばかその辺りだろうが、目じりがやや吊り上がり気味な事を除けば本当に五年間近くで見てきた里菜子そっくりの顔つきだった。
「片岡辰美さんはいらっしゃいますか?少し様子を伺いたいのですが…」
辰美、それは親父の名前だった。今は床の下にいる親父を出すことは出来ない。
嘘を吐くことにした。といってもとっさに出てこない。
それにしても菜未と名乗る彼女の声は、あの里菜子のそれとそっくりに聞こえた。
「お…親父は今具合が悪くて寝ています。しばらく…安静にさせたいので水と薬を差し入れするとき以外は一人にさせてます」
「そうですか…でも何かあったら私に連絡して下さい。辰美さんには以前二度ほどお話を伺ったことがあります」
「す…すみません…」
俺は深々と頭を下げた。さっきまで親父を埋めた後の罪悪感と未来への絶望の雲に覆いつくされていたというのに、今の気持ちは豪雨が降った後に雨雲の隙間から夕焼けの光が一条差し込んだような気持になっていた。
里菜子の生まれ変わりに会えたことが今は嬉しかった。




