親父
翌朝。頭が痛かった…バイトもあるし休むという選択肢はなかった。
我が国の下級国民は時給制の仕事についている人間が殆どなので仕方ないのである。
接客業…田舎だから時給1000円もしないバイト。だというのに業務の方は決して楽ではない。
工場だったり都会の方だとずいぶん違うと聞いたし求人誌でもここと他では全然違った。
「おいバイト!聞いてんのか!」
「あ…はい」
「レジ行けよレジ!お前今手ェ空いてんだろうが、あくしろよ」
「わかりました…」
店長にどやされて頭痛でガンガン痛む頭を引きずる様にしてレジに向かう。
たどたどしい手つきでキーを打って清算する。最近は伝票を読み込むと自動でやってくれるのもあるんだが
生憎とこの店は昔ながらの手入力式だ。間違える事も多いし、今は昼間の客が入り時の時間帯だ…
頭痛の薬は飲んだはずなんだが一向に良くなる気配がない。やはり、一錠じゃ難しかったか。
家に帰ったらさっさともう一つ飲んでおこう…と思うのだが、勤務時間は四時までで辛い。
まぁバイトなんてそれくらい働かないとロクに暮らせないのだ。やはり賃金が割に合わない。
(そういえば大野から連絡先貰ったな…)
また奢ってもらうのは流石にカッコ悪い。今度はカネくらい出したいものだ。
くらくらしながらレジ前に立って清算を行う。いつもならどうってことも無い細かい作業だが、
頭が痛い現状だとどうにもこうにももどかしくてイライラする。それでもやらなければいけないのが社会人なのだ。
「あの…」
目の前に立っていた女性が声をかけてきた。帽子をかぶったロングストレートの若い女…
それが一瞬元気だったころの里菜子に見えてしまった。ありし日の彼女の面影に一瞬心臓が高鳴る。
「あっ…すみません」
よく見ると髪型だけでそこまで似ていなかった。唇は厚いし付け睫毛が目立つ…いわゆるありふれた普通の顔だ。
髪型はともかく、顔は似ても似つかない。怪訝そうにこっちを見てくる。
「はい、お釣りです」
それでも反射的に手が動いて釣銭を渡せたのはそれなりに働いた期間が長い賜物といってもいい。
去っていく女の後姿に少しの間見とれた。別人だと分かっていたとしても里菜子の面影がちらつく。
(あいつは好きで髪の毛を伸ばしていたんじゃない、長い入院生活で切れなかったんだ)
まるで不貞を破った俺を天国から注意にしたのかと思ったほどだ。
まったく…あれから一年以上もたつというのに俺はそういった感情から振り切れていない。
『私の事は忘れて、新しい人生を生きて…』
あいつの今際の際に言った言葉を思い出す。一見優しくも感じるも言ったことは呪いに等しかった。
そんな簡単に忘れるはずもない、お前ほどいい女はいなかったって言うのによ…
(33のオッサンをほおって置いて一人で行くなよ…里菜子)
俺は泣きそうになるのをぐっと堪えて、次の客の清算の為にレジのキーを指で叩いた。
結局あの後は店長が早めに上がらせてくれた。高校生のバイトに経験を積ませるためだとか言っていた。
まぁ、あいつら若い衆のがオッサンの俺なんかより動けるからそっちの方がいいかもな。
そんでもって俺はいつもより一時間ほど早く帰れることが出来たのである。
オッサンといっても33は世間ではまだ若造と呼ばれる部類かもしれない。
しかし若い連中からすればすでにオッサンだ。肌の張りも二十代のころと比べると弛み始め、
頬がとがり始めたり、ほうれい線が目立ったりしてくる。もっとひどいのは腹が出てきて妊婦みたいになったりする。
ふと頭の中に歌詞が浮かんだそれを鼻歌に乗せてみせる。ハミングというやつだろうか?
流石に口に出してそらんじるのは変質者でしかない、誰もいない場所でならやってもいいかもしれないが。
(楽しみな週末が~そろそろやってくる~)
若い内に楽しみましょう~という昔に聞いた歌のフレーズ。
全ての節を覚えているわけでなく何の曲か思い出せない。
駆け出しのアイドルが歌いやすいように難解なフレーズや英単語などを省いた童謡みたいな歌詞。
複数人でカラオケに行って選択したら間違いなくしらけるようなそんな曲。しかし妙に覚えている。
曲名がわからなくとも最近の機材では歌詞検索というのも出来るのだろうか?
久しぶりにカラオケに行きたい…しかしそんな余分な金はなかった。
そういえば今日は月曜日だ、大野と飲んだのは日曜日の深夜。仕事があったとしたら悪い事をしてしまったものだと思う。
その癖に俺は色々と奢ってもらった。全く情けない…ああいうのは男がある程度出さないと格好がつかない。
バイトがお行儀正しく土日休みなんてことはまれだ。日曜日出る事もあれば水曜日休むこともある。
店の都合に振り回されるわけだ、まぁ飲食店だしな…しょうがないか。
帰宅するアシは車じゃなくスクーターだ。この年になったらだいたいの奴は車を持っている。
やはりとことんカッコ悪いな俺は、いろいろと惨め過ぎて泣きそうになってくる。
こんなカッコ悪くて服装にもさほど気を遣わず見た目も並みのダメ男に最後まで付き添ってくれた里菜子…
あいつは俺に幸せになってほしいと言っていた。しかし現実はこんなにも惨めだ。
(俺もお前と一緒に行けばよかったよな…里菜子)
織田信長の格言で人生五十年…とすると俺なんか残りの人生なんて四半世紀も残っていないことになる。
そもそも五十過ぎてやり直すなんてヒカキンやイチローみたいな相当ハイスペックかつ金の有る人間しかできないだろう。
だとすると俺なんか中年すぎたジジイってことになる。いや、世間的には33はまだ若いんだろうけど
若い連中から見ればオッサンなのだ。もう二年で35…七年で40ということになる。
(里菜子が普通の健康な女だったら…)
それはまずありえない。俺はあの時単車の事故で病院に入院していたからこそ出会うことが出来たのだ。
俺から見ても里菜子は釣り合っていない。健康だとしたらもっと顔が良くてハイスペックな男とくっついていただろう。
もしかしたらあいつが心臓の病気にかかったこと自体、そして俺と付き合う事になった事自体が運命なのだろう。
里菜子の命を奪った心臓の病気なんかに感謝する気には到底なれない。
だが、それが無ければこんな情けない俺は彼女の彼氏なんてやってられなかっただろう。
ふと、夕焼けを見上げる。橙まじりの陽光が田舎町を黄金色に染め上げている。
太陽が地平線の向こうに沈む…あいつの命も夜の闇に吸い込まれるようにしていった。
俺は自販機でコーヒーを買ってスクーターを止め、近くの公園に立ち寄った。
フランコに腰かける。こういうので遊んでいたのは俺達の世代が最後だったのかもしれない。
今の時代はスマホやらゲーム機やら便利なものが多すぎる。
文明というものは常に利便性の追求に向かうものだと里菜子が話したことがある。
しかしその文明とやらの産物である先端医療技術とやらはあいつの命を救ってくれなかった。
だからこそオカルトなんかが未だに支持を集めているのかもしれない。
化学はいまだにフィクションの中で出てくるような万能の魔法になれていない。
(太陽が…沈む)
街がゆっくりと夜の闇に沈んでいく…今日も多くの人間がこうして黄昏を迎えているのだろう。
いや、もしかしたら今日死んだ不幸な人間もいるだろう。そいつらもきっと明日を迎えたかったはずだ。
あいつも…里菜子も最後まで生きようとしていた。俺もあいつと生きたかった。
だけど神様はそんな俺達を救ってはくれなかった。恨んだこともある。
だが、時間が過ぎればつらい状況にもなれてしまう。心が壊れないようにそう働きかけているのだ。
俺の中であいつの記憶は薄れたりしない。死人は際限なく美化されるという言葉があるがそうなのかもしれない。
(だけど…俺は忘れない)
そう、忘れちゃいけないのだ…里菜子の事は。
朝、目が覚める。親父の様子を見に行かないといけない。
最近の親父はおとなしいほうだ。それはそれで助かる、下の世話の時に暴れてあれをまき散らされて
それが何日も続くようなときは本気で施設に預けようかどうか悩んだものだ。
まぁ、慣れてしまえばこっちのものではある。里菜子の事があったからかもしれない。
「起きろよ…」
まさか漏らしたりしてないだろうな?まぁ、その場合は下着と布団を洗えばいいだけだし…
「おい」
「ううっ…」
呻きながら親父が起きる。背中をポンポンと軽くたたいてやる。
そういえば俺もガキの頃は親父にこうやって起こしてもらっていたな…やはり覚えているものだ。
毎日こんな生活が続くのか?まだ33なのに…溜息を吐きたくなる。
ただでさえ俺は親父があまり好きじゃなかった。家を出たお袋もなかなかクズだったが、
親父も負けず劣らずだった。酒を飲んで帰ることは多いし機嫌を損ねたらすぐに手が出る。
昔は…それもこんな田舎には児童相談所なんてなかったから頼りになる大人はあまりいなかった。
といっても…かろうじて虐待と呼べるものでもなかった。考えると親父なりには加減していたんだろう。
だが、お袋がいた頃の親父は少なくとも理想的な優しい父親だった。
祭りの屋台でガンダムのプラモデルを射的で取ってもらった時は嬉しかった。
去年誕生日にねだったものだった。その時は珍しくお袋の奴もいたんだっけ。
余り家族が揃う事のない俺の一家の珍しい団らんだった。あの日の事は覚えていた。
「立てよ…おしっこいくぞ」
「あ…あぁ…」
「漏らしてないよな?」
こくこくと親父が頷く、前に嘘を言ったこともあるので確かめることにした。
布団の中をさぐると、もよおしたような痕跡はない。今日は昨日と同じく当たりのようだ。
まぁこんなところで運なんか使いたくないんだが息子だからやらないといけない。
親父はよろよろと立ち上がりふらつきながらゆっくり歩く。転んでは大事なので俺は傍らに付き添ってやる。
最近になってから親父はろくに歩けなくなっている。だからこそ俺はフルタイムで働けない。
そのくせにこいつはバイトから戻ってくる俺を迎えるために玄関まで向かおうとするのだ。
何度も言い聞かせてかろうじて説得したもののあまり遅くなると心配で動こうとするので気を付けないといけない。体が弱ってるくせに無駄に動き回る老人ほど厄介なものはないからだ。
血がつながっているというだけの事が俺をこいつに縛り付ける楔になっている。
いつまでこれが続くのか?10年かもしれないし20年かもしれない、もしくは俺が死ぬまでだろうか?
「…」
親父が死んだら一年くらいは床下に穴を掘って埋めたら年金がそのまま振り込まれるだろうか?
いや…すぐにバレるだろうな。そういう悪事を働けるほど頭が回るのならもっといい暮らしをしている。
「!!!!!!!?」
トイレ目前の床に黄色いしみが広がっていく、やっちまったなと思ったすぐ後に親父に殺意が湧いた。
冗談抜きで殴り飛ばしてやろうかと思った。あ~あ…俺のスリッパにもかかってやがる…
こうなってしまうとなんかもう情けない気持ちになってくる。
昔は気に食わないことがあると俺や弟をすぐに殴っていた親父でさえ、今はこの体たらくだ。
「こんな場所で漏らしやがって…クソ親父が」
今に始まった事ではない。少ない時は二日に一回、多い時は一日に何回もやらかすのだ。
怒りをぐっと抑えて愚痴るだけに抑える。手を上げるようなことはしたくはない。
一度やってしまったらそれが恒常化してしまい取り返しのつかない所まで行ってしまう。
ぐっと歯を噛み締める。奥歯の音が軋むような感じがした。今は耐えるしかない…
これが一生続くのか…自分の父親というだけの禿げたボケジジイを俺は一生面倒見てそれで人生が終わるのだろうか?
俺は泣きそうになった。里菜子がいなくなった後に後を追えばよかったとも思う。だが…
『私が死んでも、君は生きなきゃダメだよ…』
あいつの言葉を思い出す。やっぱり、生きるってきついよ里菜子…
俺は悪臭と屈辱に耐えながら親父の体を引っ張っていく。
親父も昔は亭主関白な昭和人間でよく母に暴力を振るっていた。
そんな暴虐の化身とも言うべきクズ人間も歳をとってしまえばこのザマだ。
俺はこいつが憎かった。法律の縛りさえなかったら何度半殺しにしていたかわからない。
そんな俺でもこのぼろ雑巾のようなジジイを生かしてやっているのは、長男と言う立場上仕方ないのだ。
妹や弟はこいつを見捨てて東京に逃げたあとは連絡がつかないし、俺が残るしかなかったのだ。
それでも数年前まではまだちゃんと話せていたし、介護なんて必要ないほど元気だった父がここまで落ちぶれてしまうのは
全く先が読めなかったと言ってもいいかもしれない。里菜子がいなければ俺も都会に行っていただろう。
俺はようやくの思いで親父を布団の中に押し込むようにして寝かせると、べたりとした感触が腕にこびりついていることに気づいた。
(こいつ…涎を垂れ流しやがった)
頭の中でカッと熱いものがこみあげてきてこいつを殴り倒したい感情に刈られそうになったが辛うじて抑える。
理菜子の看護は国も思わなかったが自分の父親に対して湧き上がってくる嫌悪感は何だろうか?
こんな奴にも昔は曲がりなりにも家長としての威厳とふてぶてしさを備えていたはずだった。
それが今となってはこのザマだ。尊厳もクソも無いこの生きる死体を俺は世話してやっている。
こいつを世話しているのは年金の事もあるからだ。でなければこんな事なんてしたくは無かった。
憂鬱な気持ちになって俺は溜息を吐くしかない。この生活はいつまで続くのだろうか?
バイト先で唐突に大野の事を思い出してムラムラしてしまう。連絡先は貰っていたはずだ。
豊満な胸と少しだけ横腹の筋肉が浮き出たくびれ…あの夜は久しぶりにいい思いをした。
でもなんで、俺なんかの相手をしたのだろうか?少し酒に酔っていたとはいえ奔放過ぎないだろうか?
いやまて、あまりネガティブな気持ちになるな。向こうも俺の事が気になっていたのだろう。
そう思うようにした。少しでも前向きに物事を考えないと気持ちが滅入ってしまう。
(連絡先…番号…っと)
型落ちした中古のスマホに大野の番号があった。休み時間中にかけて見たが彼女は出なかった。
当然といえば当然の結果だろうが、寂しい気持ちになった。情けないのだが今は誰かにすがりたかった。
昨日の事があってか誰かに話を聞いてほしかったのだ。バイトの店長は50過ぎのオッサンだし、下は学生のガキどもばかりだからだ。
そして別の電話番号が目に入った。クラスが同じで結構話していたヤツだった。
あの電話をきっかけにクラス会なんかに出席したのは初めてだった。いや、厳密にいうと二回ほど顔を出す機会はあったのだが一度目はは恥ずかしくて顔を出せず、二度目はマンションの家賃や貯金の為にバイト付で忙しかったためである。
正直気乗りはしなかった。だが、過去に見知った学友たちと交流すれば少しは気がまぎれるかもしれないとそんな楽観的な考えを抱きつつ駅の近くの貸し切った居酒屋に足を向けたのだ。
「やっぱ30前に正社員じゃなくて結婚出来なかったヤツって以降は負けないような試合しかできねぇと思うのよ」
「お前だって29で結婚したからあんまかわんねーじゃねぇかよ」
「うるせーよ。娘がかわいいからいいじゃねーかよ!」
周囲の楽しげな会話が胸を締め付ける。隣で話しているそれが、分厚いガラス一枚隔てられたかのように別世界の知らない言葉のように聞こえる。
来て初めて俺は自分がここにいるには場違いな存在だとわかってしまった。
いや、その察しの悪さと頭の血の巡りの鈍さが自分自身をここまで追い込んでしまったのではないだろうか?
だめだ…こんな所で考えても仕方がないのだろう。それに大野はいないようだった。
少し気になったのだがまぁ忙しいという事なのだろう。俺は生ビールをちびちびと飲みつつ異世界の向こう側から聞こえてくるような会話に聞き耳を立てていた。
「おい、久しぶりじゃねぇか片岡」
「…なんだよ福留か」
「お前は昔とあんま変わらねぇな、暗そうなところとか」
そういうお前はずいぶんと肥えて中年らしくなったじゃねぇかと心の中で返しておく。
実際福留は昔は陸上部に入っていて逞しい筋肉質な体だったのだが、今の彼は弛み切った腹にでっぷりとした二重顎に後退しつつある額、それに贅肉のついた二の腕を見ると40代の立派な中年に見える。
顔には面影は残っていたが色黒で陽気に見えて意外と陰険だった陸上青年の面影を今のコイツには感じ取れなかった。
「お前さ、まだフリーターとかやってるのか?」
「あぁ…」
「もうアラフォーになろうって時期に正社員になってないのは不味いぞ
ただでさえ結婚すらしていないお前が今の様子じゃまずいんじゃないのか?
良かったら知り合いのツテで派遣の仕事くらいは紹介してやるぜ?」
「…」
うるさい、お前なんかの手なんか借りたくない。学生の頃お前が俺の陰口を言いふらしてたのは知ってるんだぞ?俺にだってプライドはある、そんな野郎の施しは受けるつもりはない。
「娘が小学校に入ったんだ。嫁に似て可愛いんだよ」
スマホの画像を俺に見せてきた。画面の中には可愛らしい栗色の髪の少女が大きめの瞳でこちらを見つめていた。
良かったな、父親に似なくて。将来は多分美人になると思うよ。
「お前さぁ、大野って知ってる?」
「大野…?」
知らないふりをした。下手にあの夜の事を話して弄られたくなかったからだ。
「大野だよ。大野美穂…あいつ昔からマジで美人だったよなぁ…
でもさ、なんかよくないうわさが流れてたんだよ。個撮で小遣い稼いだり、体を売ったりして金を稼いでたとか」
「…大野が?」
「相当なブサイクじゃなければ金さえ渡せばやらせてくれたらしいぜ?オレもあいつと同じクラスだったから頼めばよかったなぁ…」
「…」
ショックじゃなかったといえば嘘になる。だが考えてみれば大野が俺みたいなやつと寝るなんておかしいとは思っていた。
だが、そうだとしても悔しい思いがあった。やっぱりそういった打算で動く女だったのかと。
里菜子はセックスできるほど体が丈夫じゃなかった。行為に及ぼうとすると心臓の心拍数が上がって危険な状態になるからだ。
それでも俺はあいつと一緒に生きたかった。子供なんて別にうるさいだけで欲しくはない。
理菜子だけいればいいとおもっていた。
「まぁ、お前も頑張れよ。その日暮らしのフリーターなんて35過ぎたらまともな奴なら誰ももらってくれねぇからよ」
「…」
「まぁ、昔から色々鈍かったお前らしいっちゃらしいか。もう遅いかもしれないけどな」
無神経にもゲラゲラと福留は笑い声をあげた。酔いで頬が赤くなっているので酒が口を軽くさせているのだろう。
だが、それ故にこいつの言葉は限りなく本音のように聞こえた。自分の幸せを噛み締めながら持たない人間に対してマウントを取る下種な言動。
俺はどうしてもそれが許すことが出来なかった。本当は俺もその幸せも持っていたはずの者だったからだ。
こいつらはこうして酒を飲んで自らの幸福を噛み締めている。
一方で俺は最愛の人間を失い痴呆で生きる屍になったクソオヤジの介護をしながら惨めに生きている。
福留の言葉が俺の惨めさを感じさせて、胸の奥底が焦がされるような気がした。
いうなれば社会の敗北者といってもよかった。社会からすれば生産性のないお荷物…
その痛みに心が耐えられそうになかった。ここまで侮辱されたのにどこかで発散させないと心が壊れてしまうと思った。だから衝動的に行動に移してしまったのかもしれない。
「…おい」
「ん、どうした?」
俺は福留の顔を思い切り殴り飛ばしていた。漫画みたいに勢いで吹っ飛んでいくことは無く、拳は左頬にめり込んだだけだったが。
「ンだと…この根暗野郎」
福留は俺のシャツを掴み上げるようにして叩きつけるように床に押し倒した。先ほど
頬に鈍い感触が走る、仕返しとして殴られたのだ。そして拳の応酬はそれだけではなかった。
二発目は右のこめかみに、そして三発目は左の頬骨にあたった。
とてつもなく痛かった。目の前の男を殺してやりたいほどの殺意が湧いたが最初の一発以外は俺は何もできなかった。
学生時代に福留が体を鍛えていたのは伊達ではないようだった。俺はひたすらに殴られ続ける。
何発目かの拳が顎にクリーンヒットし、一瞬だが目の前がブラックアウトした。
ケツを蹴り上げてやろうとしたが脚が動かない。何発か目の拳でついに意識を手放してしまった。
「…大丈夫?」
俺は目を覚ました、視界にはあの居酒屋の天井が見えた。
どうやら介抱されていたようだった。そこまで飲んでいなかったが頭がくらくらする。
あいつに殴られた痛みだ
「あいつは?」
「福留君はちょっとこの場にいないよ。帰っちゃったみたい」
「…」
「二人とも酔っぱらってけんかしちゃったんだよね?」
福留の奴を警察に突き出してやろうと考える。あの乱闘はここにいる大勢の人間が目にしているはずだった。
先に手を出してきたのは俺だが明らかに挑発してタコ殴りにしてきたのはあいつだった。
思い出してくると同時にはらわたが煮えくり返ってくる。
「最初に福留の奴がを煽ったんだ。それで俺はあいつに殴りかかった
けど一発だけだ。その後で俺が気絶するまでぼこぼこに殴られたのはみんな見ていただろ?
俺はこの事を警察に相談しようと思う。これは立派な傷害罪だ」
「…」
周辺にいる連中が怪訝そうな顔をした。俺の方をまるで腫れ物を見るような目つきだった。
「その…警察とか呼ばれると福留君も迷惑だし。家族とか、会社で結構重要な人だから…
今回の会費は建て替えてくれるって言ってたし、あまり大事にしない方がお互いに波が立たなくて済むと思うけど」
「俺は何発も殴られたんだぞ?」
「でも、先に手を出したのは片岡君だよね?なら警察に話せばそっちがまずいと思うけど…」
ああそうかい…俺は唾を吐き捨てたくなった。目の前の連中の顔がみんなのっぺらぼうに見えた。
俺はあの野郎のせいで死にかけたのにみんなあいつを庇うのか?俺がクラスで日陰者だったからか!
イライラして思わず舌打ちをしてしまう。福留の野郎が手をまわして口裏合わせしたのか知らないがあいつの狼藉を見逃せと集団で強要してくる。
確かにあいつはかつでクラスの人気者でこのクラス会も仕切っていた。俺に比べて庇うやつが多いのも当たり前だろう。
なんでこんな場所に足を運んだのかわからなくなった。どん底の俺にうまく行ってる連中の自慢話を聞かされて、それで気を失うまで殴られて…馬鹿みたいだった。
「じゃあ好きにしろよ‼」
バタン!と大きな音を立てて居酒屋のドアを閉めて俺はその場を後にした。あの場にいた連中とはもう一生関わりたくなかった。




