同級生
『片岡君は私の分までちゃんと生きてね…』
そう遺言を残した彼女はもうこの世の人ではない。第一その言葉でさえ、彼女の両親から渡された手紙の最後に記されていただけで最後の瞬間に立ち会えたわけではなかった。
俺は彼女の両親に疎まれていた。それは仕方ない、十年近くもフリーターにしがみついていた金もろくにないみすぼらしいだけの男なんて増税のラッシュによるこの現状にて娘に付きまとわれただけで迷惑なのだという事は鈍い俺ですら明白な事実だある。
「やれやれ…なんで俺を置いて行ってしまうんだよ…」
五年間付き添っていた彼女が死んだ。しかしこれよりもっと多くの不幸が世界には溢れている。
世界は死で満ちている、つまりはそういう事だ。長い時間をかけて自分を納得していかなければならない。
突然の死ではないのだという事は前々から告げられていた。心臓の病気だった。
病床の末の死ではなく、成功率の低い手術で失敗したからだった。
正式名称は先天性心臓弁膜症…それが死因だった。
簡単に説明すれば心臓は四つの部屋があってそれぞれが心室・心房というらしい。
そこの血流をコントロールしている弁が…つまりは血液の逆流を防いでくれる開閉弁みたいなものが
病気や偏った食生活…または先天的なもので硬化したり、脆くなったりすると弁がうまく働かなくなる。
そうなって血液が逆流したりすると…まぁ、心臓だからあまりよくない結果になるのは自明の理だろう。
あいつは不健康な食生活なんてしていなかった。いや、出来なかったと言った方がいいかもしれない。
幼少からほぼ毎日病院に通って、食事も運動も満足にできない生活を過ごしていたのだ。
里菜子から聞かされたことをもっと細かく説明してもいいがそれだと時間がかかり過ぎるのでここまでにしておく。
あいつが死んだときは泣いた。果てしなく泣いた。
今となっては彼女の両親に配慮して、籍を入れなかったことが悔やまれる。
それでも同居はしていたのだ。こんな田舎の中で綺麗なアパートを見つけ出すのは苦労したが、
最期の時を過ごす相手に両親ではなく俺を選んでくれたのはありがたかった。
籍を入れなかったのは今となってはあいつが俺に気を遣ってくれたのかもしれない。
俺にはもったいないほど気が利いて優しくて綺麗な女だった。
ただ神様はそんな完璧な彼女にも短命というハンデを与えてくださった。
なんて底意地の悪い神様だろう。俺もあの世に行ったら散々愚痴り倒してやりたいと思う。
彼女が死んで三日後に。俺は32になってしまった…そして一年の間茫然自失として既に33…
年齢的には既に人生の折り返し地点だ。遅生まれだったから同期の子供は既に中学生になっている。
彼女が生きていたころはまだ27だった。出会った頃は25だった。
既に8年の月日が経っていた。彼女と出会った数年間は充実していた。
あの頃は自分に美人の彼女が出来た事にとても舞い上がって毎日が楽しかったような気がする。
しかし時間というものは無情にも過ぎ去り、楽しかった時間はやがて過去となり
今の自分が惨めであればそうであるほど、その落差に嘆くしかなくなるのである。
(今の俺は…からっぽだ)
生きている実感があまり湧かない。この年になってフリーター…碌な会社に着いたためしはない。
里菜子に出会ったのはそういった自堕落で何かから逃げているように生活している中で
下らないことで交通事故を起こし病院に運ばれて…偶然彼女と出会ったのだ。
あれは奇跡といっても、人生最大の幸運と評してもよかったのかもしれない。
俺は彼女と過ごし、支える事が充実していた。それさえあれば何もかもいらないとさえ考えていた。
今にして考えれば学生気分が抜けきっていない甘ったれたガキの思考だったかもしれない。
ただ、間違いなく言えるのは俺は彼女を支えるために自分の数年間を捧げた事を全く後悔していないという事だった
そう…後悔はしない。出来ないのだ。なぜならそれは過去の自分の数年間を否定しているようで…
彼女が死んだら、物語が悲劇のエンディングを迎えるように人生が終わるものだと思っていた。
しかしそうではない。人間一人の人生というものは、ドラマや映画なんかと違ってその後も延々と続いていくのだ。
膨大とした時間は漠然と横たわっているように見えて、それを充実できる思い出に代えられる時期は非常に短い。
つまりは俺の年になるまで何かしら楽しんだ後は、将来に向けて準備しなければならないのだ。
将来、それはつまりゆっくりと…だが確実に迫る死に備える事。
里菜子はある意味幸せだったのかもしれない、俺に看取られて、綺麗な若いうちに死ねて…
あいつが死んで一年半…実家暮らし俺は今もフリーターを続けている。
あとは…親の年金を当てにしていた。殆どニートと変わりがない。
(まぁ、ある意味今の俺も死んだようなものか…)
俺はそういった意味では最低な人間なのかもしれない。だが俺達は人間だ。
美しい思い出だけを糧にして進展も未来も無い時間を死ぬまで…数十年も過ごすというにはあまりにも辛すぎる。
古臭い実家の縁側で安物のタバコをふかす。里菜子が生きている間は禁煙していた。
あいつが死んでからその必要が無くなったからだ。
今は九月の中頃…日差しがだいぶ柔らかくなってきた時期だ。夕方になると庭からコオロギの声が
涼しさを感じさせる夜の穏やかな空気が俺は好きだった。
里菜子もそういう季節の安定していたときは外に出て散歩する許可が下りた。
縁側の喫煙は風情があっていい。こうしている間は惨めな生活の事も…介護の事も忘れていられる。
嫌煙家の連中はうるさいが煙はいい。疲れた時に吸うと悪魔的なウマさがある。
俺は数多の弱い人間の一人だ。そんなものにでも頼っていかないとやっていけなかった。
(生きるって、面倒だよな…)
里菜子がこの世を去ってすでに二年。俺は相変わらず就職もせず、適当にバイトをこなしつつそれで社会人を
やっているように見せて自分を誤魔化しながら生きていた。最近はそういう層も増えている。
アパートは引き払った。自分ひとりで使っていても家賃の負担が大きすぎる。
それにどうしてもあいつを思い出してしまう。それはあまりにも辛い事だった。
里菜子が生きているときは「その時」なんて永遠に来ないと思っていた…いや、思い込もうとしていた。
三流監督がメガホンを取った恋愛映画の…それでも甘ったるいほど感動的なエンディングのように
奇跡が起きて里菜子の病気が少しでも快方に向かう…そんな事を無邪気にも信じていた。
アパートの家賃だって必死にバイトを掛け持ちして捻出していた。いつか退院した彼女と籍を入れて
そこで過ごしていくのだと、ボケたジジイになるまで一緒にいられるのだという都合のいい妄想を
願望と逃避の入り混じった思いで現実になるように祈っていた。
だが、彼女は死んでしまった。そこから景色は色あせてしまったかのように灰色に見えるようになった。
死んだ人間は永遠に美化されていく、かの者が美しい思い出と共にあったのならば尚更の事だ。
写真に残した里菜子の笑顔は決して老いることも無く、俺に微笑んでくれるのだろう。
大人になってから気付いたことがある。男なんてみんな死ぬまでずっとガキそのものだ。
成長したように見せかけてその実は取り繕う術を身に着けただけ…
体が大きくなって勝手に心が成長するなんてありえない。世の中の指導者の大半は男だ。
中身がガキの男だからこそ下らない戦争で核兵器落としたりウイグルやチベットの人間を虐殺できるんだし、
これまた老人が過去の御威光にすがって下らない思い付きで不景気に喘ぐ国民に負担を強いるだけの…
本当にクソくだらないジジイ共の思い出作りにしかならないオリンピックなんかを強行しようとするわけだ。
その分女ってのは凄いと思う。あいつはほとんど弱みみたいなのは見せなかった。
(チッ、もう切れたのかよ…ったく)
タバコがすっかり短くなっていた。強引に足元に放って踏みつぶすと二本目を取り出して百円ライターで火をつける。
節約しないといけないのは分かっていた。家の収入は親父の年金と僅かばかりのバイト代しかないのだ。
しかしこれは俺にとって必要なものだった。そう、必要経費なのだ。俺が落ち着いて日常を過ごすための最低限の支出…
餓死しない程度に飯を食って生きていけるほど人間ってのは簡単にできていない。
電力を供給するだけで機械がずっと動き続けるわけではないのと同じだ。
どこかで分解して、汚れを取りグリスを差してやる必要がある。人間もそれと変わらない。
煙を思いっきり吸い込む、心臓が病気だったあいつはこのウマさも知らずに逝ったのだ。
ガキの頃に一度だけ見た大河ドラマ…名前は忘れたやつが「人生は双六」というセリフがあった。
そうだ、あたりを引くのもハズレを引くのもそいつ次第。どこにもいない神様とやらが自分勝手に決定するのだろう。
「おーい、速く来いよ~」
しばらくそうやってタバコをふかし続けていると近所の小学生らしきガキどもが横切っていく。
甲高い声は耳障りだがどこか懐かしい感触すら感じてしまう。
俺にもああいう時期があったんだよな…と嘆息する。気になっていた同級生の女の子もいたが今何をしているだろう。
まぁ…うまくやっているだろうな。美人だったしもう結婚して家庭もあるんだろう、俺なんかとは違って…
里菜子が元気だったら…と思う。本当に籍を入れとけばよかったかもしれない。
色々と物思いにふけっていると、女の声が俺を呼んだ。
「あれ、もしかして片岡君?」
唐突な訪問者。顔を上げて目に入った控えめな茶髪をボブカットにして薄めのメイクの美人だ。
形のいい唇に引かれた薄紅色のルージュがやけに艶やかだ。そういえば口元の小さなホクロはどこかで…
「大野さん…?」
「へぇ…覚えていてくれたんだ」
記憶に引っかかった名前を反射的に呟くと、その女性…大野美穂は笑顔を見せた。
「久しぶりだね。クラス会では見なかったけど…」
「いろいろあってさ…忙しかったんだよ」
「奥さんを介護してたって聞いたけど…大変だったよね?」
「一年前に死んだよ。籍はいれてなかったけど」
「いい人だったんだ」
大野は覗き込むかのように俺の前に笑顔を見せる。中坊のガキみたいに心臓が高鳴った。
「まぁね…」
「今もしかしてピンチ?」
まぁ、いろいろとな…
「見てのとおりだよ」
「ならさ…奢るからちょっと飲みにいかない?」
そう言って大野はにっこりと微笑んだ。笑顔には学生のころとは違う大人の色気が漂っていた。
漂ってくる高そうな香水のにおいと合わせて俺の頭はクラクラとした。
そのあとの展開は俺にとって意外過ぎた。現実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
「…でもなんで俺なんかと?」
「片岡君って意外と女の子から人気あったんだよ。物静かで影があるって感じで」
「できれば学生時代に知りたかったな…」
馬鹿馬鹿しい…こんな展開は駅前で売っている官能小説でもやっていない。
いや、あえて奇を衒ってそういうべたな展開をやってるのもあるかもしれない。最近のはあまりしらないが。
とにかく過程は飛ばすが俺達は互いに裸の状態でベットに寝そべっていた。
田舎とは言ってもそういうホテルは需要があるのであるところにはある。
尤も、都会に比べると内装…というか作りが古臭くてバブル後期あたりに建てたモノを回収して作っているんだろうなとは思う。
だが、こんな事を思っていても思いのほかオレの心は風俗以外の久しぶりの快感に酔っていた。
「友達のツテで東京でモデルやってたんだよ。でもさ、向こうの子って結構レベル高くて…」
「やっぱ東京ってそうだよな…芸能界とかよくスカウトくる場所なんだろ?」
「ふふっ…やらしいビデオのとかね。やっぱ私ってそーいう女に見えちゃうのかなぁ?
…で、30過ぎて限界感じちゃったからこっちに戻ってきたんだ。若い子には敵わないし」
「大野って十分綺麗だと思うよ。昔とあまり変わってなかった」
「化粧落とせばおばさんだよぉ…ほうれい線だって少し見えてきたし」
「むこうの連中が見る目がなかったんだよ。週刊誌に書いてあるようなズルい事とかやってんだろ」
「…お世辞でもそういう事言ってくれるの、嬉しいな」
「昔からバカだからそういう事言えないよ。全部本心さ…」
「…でも、嬉しい」
そう言って大野は俺の頬に唇を当てる。その顔を無理やり寄せて貪るようにキスをする。
何が永遠の愛だよ、何が操を守るだよ…結局俺も軽蔑していた連中と変わらないってことじゃないか。
「片野君の彼女と私ってどっちが綺麗?」
俺にもたれかかった状態で猫のような瞳で上目遣いで俺を見る。豊満なバストをわざと見せつけているような体勢になるのは彼女のテクニックなのだろう。
「…困るからそういうこと聞かないでくれよ」
「そうだね、やっぱり勝てないよね。意地悪だったかな?」
「…あんまそういう事言わない方がいいぞ」
「私って悪女かな…性格悪い?」
大野が妖艶に笑う。久しぶりに会った時からそういう感じはしていたが言及はしなかった。
今の俺は壊れかけの機械のようなものだ。錆びた場所を落としてグリスをささないといけない。
どう取り繕っても言い訳でしかない。俺はやはりダメ人間だ、いや…そもそも昔からずっと人間は性欲の奴隷だ。
「…はっきり言うとあざといと思う」
「ふぅん…」
本当にバカだ…里菜子に対して申し訳が立たないどころじゃない。
やはり女は怖い。得体のしれない所がある…まさか昔少し話した程度の中である俺と寝るなんて…
それに比べた男はバカで単純だ。いや…気持ち悪いフェミニストのようなことを言うつもりはないんだが
「ちょっと飲んでいい?」
「缶ビールなんかで大丈夫?何か頼もうか?」
「いいよ。奢ってもらうのも悪いし…」
「彼氏がさ、結構貢いでくれるの。やっぱこういうときって女の子って強いなーって思う」
ちろりとピンク色の舌を出して小悪魔的に笑って見せる。そういう時の大野は本当に気まぐれな猫みたいであった。
「…やっぱ怖い女じゃん」
「怖くないよー片野君に奢ってくれるから優しいじゃん」
「その辺はどうも…ありがとうございます」
家で飲むつもりでコンビニで買った缶ビールを冷蔵庫から取り出してプルタブを開けて一気に嚥下する。
ぬるい…まぁ、いれたばかりだから当たり前か、それに家で飲むものと違ってひどく苦いと感じた。
まぁ最近はいつ呑んでも苦いんだが、今日は格別の苦さで…親に黙って初めて飲酒してむせた時を思い出した。
あの時は空き缶がすぐ見つかりバレて、まだ元気だった親父に殴られた時を思い出す。
家を出て行った母もまだいた頃だったが酷く遠い過去の出来事のように感じる。記憶は鮮明だというのに。
「たまに飲むとおいしいよね。缶ビール」
「贅沢な暮らししてますねぇ…女王様は」
「王女の方がいいな」
「王女っていうより…クイーンってのは?」
「同じ意味じゃん。それにちょっとダサいかも」
大野のいう事にささやかに反論したのは、俺個人のちっぽけなプライドだ。
そうは言って見せたが、大野の機嫌は良さそうであった。そういった人懐っこさが昔から彼女に男が近づく理由なのだろう。
確かに大野にそういう格好させるとらしくなるかもしれない。若干見てみたい気がするが難しいだろう。
「ならさ、片岡君は王子様だね」
『片岡君は私にとって王子様だったよ』
ちくしょう…今更になって里菜子の言葉を思い出した。まだ元気だったころのあいつの言葉だった。
涙が出そうになるのを歯を食いしばってぐっとこらえる。何やってるんだ俺は…
「…気分悪いの?」
「いや…別に」
心配そうな顔ををして大野がこっちを見てくる、シーツの上からでも形のいいヒップの丸みがわかる。
AVでよく見る歪な体系じゃなく、グラビアみたいな感じの曲線美にくらくらしてしまう。
露になっている胸も小さく無く理想的な球形を描いていた。まるで洋梨みたいだ。
まぁ当たり前か、モデルやってたんだし体型とか食事には気を遣うだろうな。
こういう時でも男は反応してしまうものなのだろうかと情けなくなってくる。
俺は再び立ち上がって、大野を抱くためにベッドへ向かった。




