とある775号の非日常
今回は775号視点です。
惨劇は一瞬のことだった。
その日は天使学の授業を受けていて、今回は珍しくR型とM型の合同授業だったので救護室の近くの大きめの教室にいた。
怪我の治癒を実践したり、その応用で魔力や肉体を活性化させたりといった話をしていたような気もする。
私はあまり頭が良いとは言えないので、たまたま近くで授業を受けていたR型の子に補足をしてもらいながら話を聞いていた。
そんな時、誰かが窓を見て怯えたような声を出した。
窓からは校庭がみえたので、ひょっとしてU型の天使学でトラブルがあったのかな?なんてことを思い、気にも留めなかった。
しかし教室のざわめきが大きくなり、先生も無視できないほどになってくると私も少しは気になる。
他の子がそうしているように窓際に近付き、空を見上げた。
その時点でもう、授業なんてしていられる雰囲気じゃなかったのは覚えている。
生徒だけでなく先生まで窓に張り付くぐらいに外を見ていた。
正確には、教室の外で起きている異変を。
次の瞬間、弾かれたようにR型の先生が教室を出ていき、私はようやく事の重大さに気がついた。
なぜなら、この学校に入ってから授業が中断したことなんて一度もなかったからだ。
窓の外には、地球から垂れてきたのかと思うような黒い何かがこちらに向かってきていた。
黒い何かはよく見るとたくさんの異形の化け物の塊で、その中心には羽の生えた人影が見えた。
天使かと思ったが、その羽は周囲より一層濃い黒色で染まっていた。
つまり、天使ではなく堕天使ということだ。
そしてそれが本当に地球から降ってきたモノだとようやく理解した頃には、全てが手遅れになってしまっていた。
まったく減速しないまま、黒い塊は校舎へと向かってきていた。校舎というか私たちのいる教室めがけて一直線って感じで、ようやく私たちはその教室から逃げ出し始めた。
M型天使学の担当だった先生が避難経路を指示してくれたけれど、パニックになった教室内には半分も伝わっていなかった。
そんなみんなの悲鳴や怒号を上書きするように、激しい音と衝撃が響き渡った。
校舎がっていうか空間がビリビリと振動する中で、うまく飛べずに次々と落ちていくみんな。
それを守るように立つ先生。
巻き上がった土煙が黒い翼に切り裂かれて、そこから次々に飛び出してくるおかしな見た目の化け物。
化け物のほとんどは先生に吹き飛ばされてそのまま動かなくなるけれど、取りこぼしが何匹かこちらに向かってきた。
とっさに身構えたけれど、わたしは戦ったことなんて実戦学の授業くらいしかない。
どうすればいいのか困っていると、校庭側からU型の先生が何人かやってきて助けてくれた。
ほっと一息ついた次の瞬間、M型の先生がこちらへ飛んできた。
飛んできたというか飛ばされてきたというか、どう見ても満身創痍だった。
片腕がおかしな方向に曲がっていて、お腹からは血が止めどなく溢れていた。
R型の子が急いで治癒をしたけれど、完治には程遠い。
そうしている間にU型の先生は全滅していて、教室は血と羽根にまみれて悲惨な有様になっていた。
6枚羽の先生が勝てないのなら、たとえ4枚羽の天使が10人集まっても勝てないだろう。
絶望的な状況で、堕天使は無傷のまま笑っていた。
「オイオイ、随分と手応えが無いなぁ。たった数百年でこんなに弱くなるなんて、平和ボケしすぎじゃないか?むざむざと地球を奪われた割に復讐心も持たずに作り物の平和を享受して…情けないね、涙が出てきそうだ」
目の前の悪魔のような堕天使は、悠然と歩きながら数多の天使をちぎっては投げていく。
手で、羽で、魔力で。
抵抗なんて意味もなさずに、圧倒的な暴力の前に私は何もできなかった。
たった一撃、それもただ振り返った時にぶつかったくらいの気軽さで吹き飛ばされて動けなくなってしまった。先ほどの授業で一緒にいたR型の子が治癒してくれていなければ、意識を失っていたかもしれない。
再び堕天使に立ち向かったM型の先生は2、3手のうちに手も足も出なくなり、校庭の方へと吹き飛ばされてしまった。
残った生徒を一人でも多く逃がすためにM型のクラスメイトが足止めをしているけれど、紙吹雪のように撒き散らされてオシマイ。
R型の子は戦闘向きじゃないので、ひたすら治癒と逃走に徹している。
周りのR型の子を気遣う素振りをしながら、頭の中はレイ君のことでいっぱいだった。
何かあったら逃げるって約束したし、ちゃんと逃げられているといいんだけど。
天使学の授業中にレイ君は校内をうろうろしてるって聞いたことあるし、よっぽど運悪く近くにいない限りは大丈夫だと信じたい。
「まあ、単にここが外れってこともあるかな…ミカエルもウリエルも、ガブリエルもラファエルもメタトロンやサンダルフォンさえ気配を感じない。よっぽどの辺境なのか、もう彼らは動く気がないのか。………目に付く天使モドキを片っ端から消していけば、そのうち会えるかもな」
信じたいけど、心配だ。
レイ君には羽が無いから、そう速くは逃げられない。
もちろん彼は走っても私が飛ぶのと変わらない速さだけれど、天球は走るのに向いているとは言い難い場所が多すぎる。
そのうちうっかり追いつかれでもしたら大変だ。
ああ、心配。心配で、心配で心配で守ってあげたくて側にいたくて――!
「…ほう?天使モドキにも度胸があるのがいるじゃないか。なかなかいい目をしている。実力はあまり褒められたものじゃないが、その場しのぎしか考えないそこらの有象無象よりかはよっぽどましだ」
…でも、ごめん、レイ君。
私、目の前のみんなを見捨てて逃げるなんてできそうにないや。
ようやく動けるようになった体にムチを打って、校庭に向かう堕天使の前に立ちはだかる。
せめて命を懸けてでも引きつけて、この場から追い払ってみせる。
「私が、相手をします。あなたは、ここにいてはいけない存在です。神の名の下にあなたに天罰を与えましょう」
頭上に天使の輪っかを顕現させ、魔力をフル回転させる。
この輪っかこそが天使の力の源で、魔力を生み出すいわば炉心だ。
それでも目の前の堕天使には魔力量ひとつとっても勝てそうにないが、今は意識を私に釘付けできれば上等だ。
全身に魔力を漲らせて、敵の攻撃を待ち構える。
むやみに攻撃しても効かないのは分かりきっているので、まずはカウンターで一撃決める。
それからこの場を離れさせて、自爆してでも足止めしてやる!
「神だなんて旧時代の遺物を引き合いに出すのはマイナスだが、その決意に敬意を表してこちらもそれなりにお答えしよう。我が名はベリアル、神さえ葬り去る堕天使ルシファーの配下で…おっと、今は堕天使じゃなくて悪魔って名乗ってるんだが。まあとにかく、そんなところだ」
目の前の堕天使のような悪魔は、黒く染まった8枚の羽を広げ、魔力を右手に集約した。
その魔力は私が3人いても勝てそうにないくらいで…ちょっと、早まったかも?
でも、引くことなんてしたくない。
渾身の力を込めて防御壁を貼り、反撃の用意をして、攻撃から目をそらさないで…!
そして目の前で爆発が起こり、私はなすすべもなく吹き飛ばされた。
「……あれ?」
吹き飛ばされはしたけれど、私はほとんど無傷といっても良かった。
この一撃で絶命することまで想像していたので、あまりに拍子抜けな結果に戸惑ってしまう。
代わりに、いつまでも収まらない地響きと、渦巻く異次元の魔力が校庭の砂を巻き上げていた。
状況を把握できないでいると、竜巻からひとりの天使が弾き飛ばされて向かってくる。
反射的に避けようとしたが、あることに気づき慌てて受け止める。
そう、飛んできた天使は、きっと私を守ってくれたのは。
羽も天使の輪もない、けれど誰よりも私が信頼して親愛している天使だった。